犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

昨年の自殺者、平成14年以降では最少

2011-01-09 00:41:37 | 時間・生死・人生
1月7日 産経ニュースより

 警察庁が7日まとめた自殺統計の速報値では、昨年の自殺者は3万1560人で、前年より1285人(3.9%)減った。平成10年から13年連続で3万人を超えたが、過去10年では2番目に少なく、平成14年以降では最少となった。
 政府が自殺防止キャンペーンをした翌月の4月、10月に自殺者が前年同月より1割以上減り、効果があったことがうかがわれた。ただ、11月には逆に同1割増加。不況の長期化や政治不信の高まりもあり、減少傾向に転じたとは言い切れず、異常な状況は続いている。


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 自殺者の減少は、国民全体の願いです。昨年の自殺者数が一昨年よりも減少し、平成14年以降最少となったことは、非常に喜ばしいことであり、絶望の中の希望でしょう。そして、そのように言ってしまった瞬間の虚しさは、言葉に表現できないものがあります。自殺防止キャンペーンの効果を上げたいという政府の側から見れば、死者はその足を引っ張った不届き者ということになります。

 どの自分にとっても、その自分と他人とは別人である以上、他人の気持ちはわかりません。その中でも、人が電車に飛び込もうとする直前の気持ち、人がビルの上から飛び降りようとする直前の気持ちというものは、そのわからない中でも最もわからないものに属し、想像を絶するものだと感じます。これはもちろん、自殺など一度も考えたことのない幸せな人が「命を粗末にするなど理解できない」と語る意味のわからなさではなく、理解しようとすればするほど逃げるという種類のわからなさです。
 これは第一に、言語が凝縮された瞬間は、それに伴う行動が言語によってもたらされているにもかかわらず、言語化できないことによるものと思います。人が「死にたくない」との叫びを上げつつ死ぬことが不幸や絶望なのであれば、「死にたい」と叫びつつ死ぬことは幸福や希望となるはずですが、さらにそれが反転して不幸や絶望と評される以上は、この間の論理は飛躍せざるを得ないからです。第二に、生き残った者は死者に対して質問することができず、その瞬間の気持ちは時空間から永遠に消えてしまう点が挙げられると思います。その結果として、ある者はその瞬間を追い求めて永遠に苦しみ、別の者は「死人に口なし」で得をします。

 私がこのニュースを聞き、自分自身の心情を観察してみて偽善的であると感じたのが、「平成14年以降では最少」という部分の論理を捉えた瞬間の心の動きです。自殺者が年間3万人を超える状況が11年続いた、12年続いたという物事の捉え方に慣れてしまうと、人の死は単なる統計となります。そして、政治的主張の論拠として利用されざるを得なくなります。私自身、現代社会の殺伐、荒廃、余裕のなさを糾弾する文脈において、「毎年3万人もの人々が自ら命を断つ社会」と考えているところがあります。
 そうだとすると、現代社会の異常性を非難し、政府の無策を批判する文脈においては、それを裏付けるデータがなければならないということになります。私が自らの偽善性から逃れられなくなったのがこの点です。私は人身事故で電車が止まることを「迷惑」だと断じて恥じない人々を内心で非難し、その考え方が自殺者を増やすのだと考えてきました。しかしながら、そのような考え方を非難するに際してさえ、「毎年3万人もの人々が自ら命を断つ社会」の論拠は必要であり、3万人を下回ったならば、その論拠は正当性を失うことになります。

 私はこれまでの仕事において、裁判所側と弁護士側の双方の立場から、過労自殺、いじめ自殺などの事件に接してきました。その結果として、人は自ら選ぶ死を前にして遺書を書くことはできず、たとえ書いたとしても正確に書くことは不可能であるという当たり前の結論を再認識しました。この問いは、突き詰めれば明治36年に華厳の滝に飛び込んだ藤村操の『巌頭之感』に通じるものだと思います。「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く不可解。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」という有名な一節です。
 但し、証拠によって事実の有無を決する裁判制度においては、被告の行為(長時間労働・いじめ等)と自殺との因果関係の有無という形で問いが立てられるため、自殺という哲学的問題を含む問題の議論としては、必然的に的外れになります。確かに、現代の遺書は藤村操の煩悶のレベルには及びません。それだけに、膨大な情報を処理し切れず、他律的に人間の価値を下げられ、その存在を構造的に値切られ、人生に生きる価値はないとの結論を強制されて死を選ぶしかなくなる過程は、厭世的になる余裕すら与えられず、人間が人間であるがゆえの絶望であると感じます。

 大学時代のゼミで、人間と人間以外の動物との違いは何かという議題が出されたとき、ある学生から「自殺をするかしないか」という解答が出て、今でも妙に印象に残っています。その当時は、脳の発達の程度の差がそれに伴う行動の違いをもたらすのであり、自殺もその1つに過ぎないのだから、現象(自殺)よりも本質(脳)のほうが論理的に先ではないかとの感想を持っていました。しかしながら、考えれば考えるほど、この答えの恐ろしさに気付くようになってきました。
 過労自殺やいじめ自殺の死者は、自らの生命の重さをもって論理の筋を示し、しかもその筋は遺書には書くことができず、自分を自殺に追い込んだ者の倫理への信頼をもって死とします。ところが、彼を自殺に追い込んだ者は、彼が遺書の不存在または不正確性をもって、自殺の責任を負うことを否定することが可能です。その結果、遺族の最大の苦しみは、死に至る瞬間の絶望を想像して哲学的に苦しむことから、裁判に勝つための証拠を探して法的に苦しむことに変わります。私は裁判所側の仕事においても、弁護士側の仕事においても、自殺の推奨ばかりしてきたような気がします。