宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

あるものをしかじかのもの《として》解意することは、先持と先視と先取にもとづいている!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第32節 了解と解意」(その2)

2019-07-08 12:41:34 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第32節 了解と解意」(その2)

(3)解意つまり《として》(※類型化)は「先持(Vorhabe)」にもとづく!解意が先人が作った類型体系を前提することが「先持」である!
C 「述語づけ以前に・・・・《端的に見る》ことが、いつもすでにおのずから了解的=解意的である。」「《として》(※類型化つまり解意)」は「主題的な言明より以前におこなわれている。」「この明言がおこなわれうるのも、その《として》が明言可能なものとしてそこに控えているからである。」(149頁)
C-2 「解意はそのつどなんらかの先持(前置き、Vorhabe)にもとづく。解意は・・・・いつもすでに了解されている趣向(適所)全体性への了解的存在のなかでおこなわれる。」(150頁)

《感想3》人は白紙の世界に生まれるわけでない。人は、すでに先人が作った類型体系を前提に類型化を行う。これが先持(Vorhabe)である。
《感想3-2》原・渡邊訳は、「先持(Vorhabe)」を「予持」と訳している。ただフッサールの時間論におけるProtentionが「予持」と訳されるので、Vorhabeは「先持」と訳す(細谷訳)方が区別がついてよいと思う。

(3)-2 先持されている類型体系を、個別のケースで参照することが「先視(Vor-sicht)」である!その際、先持されている類型体系の中から特定の類型(or類型体系)があらかじめ選ばれることが「先取(Vorgriff)」である!
C-3 「解意はそのつどなんらかの先視(見通し、Vor-sicht)にもとづいている。この先視は、すでに前置きにおいて先持されてきたものに、一定の解意可能性への見通しをつけるものである。」(150頁)
C-4 「前置きにおいて先持され、先視的に見通しのついた了解されたものは、解意をつうじて概念(※類型)的に把握できるようになる。」(150頁)
C-5 「解意はいつもすでに・・・・特定の概念構造の採用に(※あらかじめ)態度をきめている。すなわち解意は先取(Vorgriff)にもとづいている。」(150頁)
C-6 まとめ:「あるものをしかじかのもの《として》解意することは、本質上、先持(Vorhabe)と先視(Vor-sicht)と先取(Vorgriff)にもとづいている。」(150頁)

《感想3-3》先人が作った類型体系が先持(Vorhabe)されていて、それを個別のケースで参照することが「先視(Vor-sicht)」である。さらに先人が作った類型体系の多様の中から、特定のものがあらかじめ選ばれるのが「先取(Vorgriff)」である。
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