宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

白柳秀湖(1884-1950)『維新革命前夜物語』(第七~第一五)1940年、千倉書房

2016-08-05 12:42:29 | Weblog
第七 田沼意次のインフレ中、天災事変、分列行進の巻
(1)井戸・ポンプ・タンクによる比喩(七二)
A 江戸時代前期は、吉宗まで。(吉宗将軍職1716-45→家重の後見45-51→吉宗死去1751)(七二)
B ①諸侯の「井戸」の水(富)を農民が汲みだす。
②都会に大きな「タンク」=町人階級あり。富の集中。
③「ポンプ」(タンクに富を集中させる)に当たるのは水陸交通機関・商業上の特権(株)など。
④「ポンプの柄ヲ取って上下に動かし富をタンクに集中させる主体」は、自然に発生する力。民権のためのたたかいで勝ち取ったのではない。(七二)

(2)宝暦10(1760)以降、飢饉が慢性的・全国的となる(七三)
C 幕府は、一方で、タンク(町人階級)の水(富)を、元の井戸(諸侯・家臣・従者)に戻そうとした。Ex. 買米令、冥加金(用金令)(七三)
→他方で、ポンプの柄は、上下させたまま。(七三)
→これに疲れて、やがて、どたっと幕府は倒れ、大政奉還となる。(七三)
D 封建政府が、貨幣という悪魔の手箱に手をつけた。
→新井白石・荻生徂徠が手箱を封じる→しかし封じた絆創膏がはがれる時が来る。(七三)
E 全国的大飢饉という人食い鬼!封建制度だけなら、飢饉は全国的にならない。(七三)
E-2 ポンプを力いっぱい押し上げ:綱吉(1695(元禄8)荻原重秀)
→押し下げ:(家宣・家継)(1709新井白石登用)、さらに吉宗(1736徂徠の元文銀等)(七三)
E-3 かくて農民、へとへととなる
→宝暦10(1760)以降(家治将軍職1760-86)、飢饉が慢性的・全国的となる。自給自足経済が壊れた。
→天明の大飢饉(1783-88)→天保の大飢饉(1810-43)(七三)

(3)徳川家重(将軍職1745-60):吉宗1751死去後、驕奢を極める
F 徳川家重(将軍職1745-60):吉宗が後見の間は政弊なし。(七四)
F-2 吉宗1751死去後、家重は、驕奢を極める。大岡忠光、ついで田沼意次をとりたてる。(七四)

(3)-2 家治28カ年(将軍職1760-86)の不祥事
G 徳川家治(将軍職1760-86)(七四)
G-2 田沼意次:1766側用人→1769(明和6)老中格→田沼時代(1775(安永4)以降)→1783子意知若年寄、→1786(天明6)田沼意次罷免。(七四)
G-3 杉田玄白『後見草』が、家治治世の不祥事を語る。旗本・御家人・譜代・外様の窮迫、天変地異、金融梗塞。天下の凶荒、真に見るに忍びず。(七四)

(3)-3 家治将軍宣下祝賀(1760)・上武一揆(1764)・明和事件(1767)
H 家治将軍宣下祝賀(1760)の前夜から引き続いた大火。(七五)
H-2 家治:3都のブルジョアへの最初の用金令。(七五)
H-3 明和元年(1764)上武一揆、20余万人。各家に押し入る。翌年、首謀者ら数百人がつかまる。(七六)
H-4 明和3(1766)御蔵門徒(オクラモント、浄土真宗の異端、隠れ念仏)の宗徒の大検挙。不安な時代。(七六)
H-5 明和4(1767)明和事件:山県大弐、尊王斥覇、江戸城攻略。獄門。(謀反の疑いで山県大弐ら30余人を処刑した尊王運動弾圧事件。)(七七)
H-6 明和7(1770)火星の凶変予兆、大旱3年。(七八)
明和8(1771)人心の不安、いよいよつのる。怪異のうわさ。(『後見草』)(七八)

(3)-4 第2回抜け参り(1771)
I 明和8(1771)第2回抜け参り。「田沼意次の悪政を弾劾する大衆国民の大示威行列」(白柳秀湖)。(七九)
I-2 地方にも多くの不穏、一揆。「土民ども徒党」、「火事、洪水、大風」。(『後見草』)(七九)
I-3 伊勢皇大神宮へ抜け参り。徳川氏の政治に対する、愛想尽かし。(七九)
I-4 60年以前、荻原重秀の悪政に対する民衆の弾劾的示威行列:第1回抜け参り。(七九)
J 明和9(1772)「メイワク(迷惑)」の年。目黒火事(目黒行人坂大円寺)が起き、明暦大火(1657)以来の惨禍。(八〇)

(3)-5 安永元(1772)田沼老中となる、以後は天災・百姓一揆頻発→天明3(1783)浅間山噴火→天明の大飢饉(1783-88、天明3-8)と米騒動→天明6(1786)田沼意次罷免
K 安永元年(1772、田沼老中となる)以後は、天災・百姓一揆が頻発。(八一) 
K-2 天明3(1783)浅間山噴火。浅間山の降灰で関東では「田畑俄に荒地となる。」一揆、豪家を略奪し城下に迫る(安中、小諸、上田)。将軍家治は何もせず、田沼は地方の民情を顧慮せず奢侈にふける。(八二・八三)
K-3 天明の大飢饉(1783-88、天明3-8)襲来とともに、米騒動が日本全国に広がる。(八四) 
→天明6(1786)田沼意次罷免。(八四)
→天明7(1787)米価暴騰、細民餓鬼道の惨状。京・大阪・江戸で米騒動(脅喝・略奪)(八四)


第八 天明大飢饉中(1783-88、天明3-8)、都市ブルジョア栄耀・栄華の巻
L 天明7-8(1787-88)、米騒動(米屋・物持ちの家を襲う)は、飢饉の惨害の軽微な地方に起こっている。(八五)
L-2 飢饉が激甚な陸奥・出羽では、米騒動を起こしうる弾力さえなかった。(八五)
M 都市ブルジョアの豪遊。十八大通:筆頭は大和屋文魚。(八六)
M-2 幇間を兼ねた山東京伝。天明以来の赤本・黄表紙の作者の多くは、幇間を兼ねた。(八六)
L 井戸という井戸は皆、餓死人の死骸で埋もれていいた。南部領~秋田領。天明3年。(八九)
L-2 天明8(1788)、草間に人の骸骨が、るいるいと重なっている。五戸・六戸より東の方。(杉田玄白)(九〇)


第九 田沼意次のインフレ(明和2(1766)鍋銭鋳造開始)と世直し思想発展の巻(明和8(1771)第2次抜け参り)
(1)安永・天明のインフレ景気:田沼の銅銭改鋳(明和2(1766))
M 元文元年(1736、吉宗)から明和2(1765、家治)まで幕府は貨幣に手を触れず安定。(九一)
M-2 ところが明和2(1766)、田沼意次(側用人)が貨幣改鋳に手を染める。(九一)
M-3 土交じりの「鍋銭」と真鍮の「四文銭」(無理やり並銭4文と強制)。かくて銭価が下落。(九三)
M-4 田沼の政府は馬鹿の一つ覚えで、銭を粗悪にすれば、米価が上がり、天下は太平となると考えた。(九三)
M-5 Cf. 高橋蔵相の言草によれば「貨幣のことは何も経験だ」。(九二)

N 明和2(1766)以来、田沼の政府は、銭の品質を下げる。かくて物価騰貴。(九三)
N-2 武士はコメが高く売れるといっても、売った後は、高い物価の物を買い生活が大変。(コメは、程よく高く売れるのがよい。)(九三)
N-3 その日暮らしの水吞百姓、素町人は、物価騰貴で大変。(九三)
N-3 万民窮迫の中、少数のブルジョアどもが、のさばりかえった。(九三)
N-4 金銀の宝(賄賂)を贈りて御奉公したいというのは、「上に忠あること明らかなり」と意次が公言。(九四)

(2)世直し大明神:佐野善左衛門政言による意知刺殺(天明4(1784))
O 天明4(1784)、佐野善左衛門政言が殿中にて若年寄・田沼意知を襲撃。この年は、浅間山噴火の翌年。鍋銭鋳造で物価は天井知らずに高騰。10日後、意知死亡。(九五)
O-2 佐野をとめる者がいない。大目付と目付がとらえる。佐野は、狂気として切腹させられる。(九五)
O-3 意知が、政言の系図を奪い、政言の粗暴を誣いる。政言は脇差に毒を塗っておいた。(九六、九七)
P 佐野善左衛門政言は「世直し大明神」として祀られる。(本願寺境内徳本寺。)(九八)
P-2 当時、大衆国民の「世直し思想」。尊王敬神運動。Ex. 明和8(1771)第2次抜け参り。伊勢参宮。(九八)
Q 天明6(1786)将軍家治死去。田沼意次罷免、蟄居。(九九)


第十 松平定信デフレーションの巻(天明7年(1787)~(寛政5(1793))
(1)米騒動(天明7年(1787))
A 天明7年(1787)5月江戸の米騒動5/20から3日間。その直後、松平定信、老中(政府の首班)となる。(寛政5(1793)7月まで満6年。)(一〇〇~一〇一)
A-2 郡代伊奈忠尊の素晴らしい働き。米穀輸送の責任者。時価で買い、半額で売る。(一〇二)
A-3 この時、貴人・高位の人も、4・5日は食に窮した。(一〇二)

(2)松平定信と荻生徂徠
B 松平定信の寛政の改革は、吉宗前半期の政策を踏襲した。質素簡約・風俗矯正。(一〇三)
B-2 Cf. 吉宗後半期は、徂徠の『政論』『太平策』に基づき貨幣制度との折衷に成功。(一〇三)
C 松平定信の政治家としての生命が、何故短かったのか?(一〇四)
C-2 自給自足の荘園経済と、流通自在の貨幣経済との矛盾、それらの折衷の必要に、定信は気づかず。徂徠は気づいていた。(一〇四)

(3)都市ブルジョアジーの倹約令への反感、&囲米令(寛政元年(1789))
D 大奥の女性の消費欲によって代表された都市ブルジョアジーの勢力。大奥が非難し、将軍に働きかけ、定信が失脚。(一〇五)倹約令が微細にわたる。(一〇六)
E 寛政元年(1789)、諸大名への囲米強制法(囲米令)。大名が、1万石につき100石は売らない。①備荒貯蓄、②収入減で贅沢させない。③米価が上がる。(一〇六)
E-2 囲米令で、藩財政は収入減となり、大名は困る。(一〇六)
E-3 囲米令で、大阪の蔵元・掛屋は困る。(一〇六)

(4)徳政令(寛政元年(1789))
F 徳川幕府の制度建直しが切迫したことを物語る徳政令。すなわち寛政元年(1789)、蔵前札差96人に、旗本に対する旧債棄捐令を出す。ブルジョアジーに対する革命的措置。(一〇七)

(5)都会か農村か
G 「都会を活かして農村を殺すか、農村を活かして都会を殺すか」という制度の立て直しの問題あり。これこそ水野越前守忠邦が取り組んだ問題!(一〇八)
G-2 定信は奢侈の一つ一つの事実を取り締まった。Ex. 寛政元年(1789)娼楼新開店禁止、寛政3(1791)男女混浴禁止。(一〇八)
G-3 定信による、大名の留守居役の「懇親」の取り締まりは、大名御用達に打撃!(一〇八)


第十一 文化文政時代、都市ブルジョアの贅沢行詰まり・げてもの趣味の巻(文化元(1804)~文政13=天保元(1830))
A 元禄の贅沢は「成金」風、天明は「通」な贅沢、これに対し文化文政の贅沢は「低徊趣味、行き詰まり、贅沢の仕様がない、げてもの趣味」。(一〇九)
A-2 家斉(1786-1837):①老中筆頭・松平定信(1787(天明7)-93(寛政5))→②老中・水野忠成(タダシゲ)(1817(文化14)-34(天保5))のインフレ政策(一〇九)
A-3 インフレ景気に飽満し贅沢に困り抜く。Ex. 多摩川まで煎茶の水汲みに人を走らせた山谷の八百善。煎茶と漬物で1両2分。(一一〇)
B 諸大名の部屋を回ってとばく開帳の次郎吉親分が鼠小僧。天保3(1832)、小塚原で処刑。(一一一~二)


第十二 水野忠成(タダシゲ)インフレーションの巻(老中職1817(文化14)-34(天保5))
C ①元禄・宝永の景気は、荻原重秀の貨幣改鋳による。
②明和・天明の景気は、田沼意次の悪銭による。
③文化・文政の景気は、水野出羽守忠成(老中職1817(文化14)-34(天保5))の貨幣改鋳による。(一一三)
C-2 信用があった南鐐二朱銀の品質低下を、松平定信も、その後の松平信明(ノブアキラ)も、行わず。しかし水野忠成が老中になると、それを、行う。(一一三)
C-3 吉宗以来、当局が苦心した物価と貨幣の平衡が壊れる。(一一四)
C-4 幕府は改鋳の度に、出目をむさぼる。特に文政12(1829)以後は、幕府は自暴自棄で、政策もなにもない。(一一五)
D インフレ景気で、水野忠成(タダシゲ)は、引き立てられ出世。(一一六)
D-2 忠成(タダシゲ)は、インフレ策の一環として富興行を許す。(一一七)
D-3 忠成(タダシゲ)の本所仲之郷下屋敷の庭園へ家斉御成。硝子で飛泉(滝)を造り、寒かったので炭火で桜花を咲かせた忠成。(一一八)


第十三 天保の大飢饉(天保3(1832)より全国的大飢饉)、都市ブルジョア豪華の巻
(1)天保の大飢饉の始まり(天保3-4(1832-3))
E インフレをやれば(水野忠成の貨幣改鋳(老中職1817(文化14)-34(天保5))、大飢饉になる。凶作への抵抗力が落ちる。(一一九)
E-2 天保2、3年から天候不順。天保4年冷夏・暴風雨・洪水。東北地方がひどい。秋田、山形はまだいい。仙台は半収。津軽がひどい。(一一九)
E-3 南部盛岡不作3年続き、天保4(1833)大凶作。例年の1/20収量。軒下に茨を植え棄児、行倒れを防ぐ。(一二〇)

(2)天保7-8(1836-7)、水戸街道、1日、6-7千人の流民
F 天保7(1836)さらに大きい大飢饉。冷夏。米価高騰。捨て児。老人・病者は身投げ。(一二〇)
F-2 水戸街道を江戸に向かって、東北流民が流れ込む。(一二一)
F-3 65棟の土蔵を持つ真壁郡茂田村の豪農高梨助右衛門。天保7-8(1836-7)、水戸街道、1日、6-7千人の流民。救い小屋を設置。67万人の流民を救う。3000人の埋葬者。「家と田畑が残れば暮らしていける」と孫に対し答える。(一二一)
F-4 野田、高梨権兵衛(醤油屋)、救小屋に2万両、使う。(一二一)

(3)天保4-8(1833-7)施行(セギョウ)の張札&天保7(1836)甲州百姓一揆
G 天保4-8(1833-7)には、天明7(1787)の打毀しをおそれ、あらかじめ施行(セギョウ)の張札:米を安く売り、金を配る等。(一二二)
G-2 天保の大飢饉で暴富を得た加賀の船商・銭屋五兵衛。(一二三)
G-3 天保7(1836)、甲州百姓一揆。甲府まで押し出す。1万8-9千人。城内から一斉射撃で死傷者300人。174人が掴まり4人磔、9人死罪、遠流38人など。(一二三)

(4)天保8(1837)大塩中斉(平八郎)の挙兵&生田万の陣屋襲撃事件
H 大塩中斉(平八郎)の挙兵(天保8(1837)):大阪町奉行組元与力。蔵元・掛屋など特殊商人の暴利を非難し、政府官人の無能を呪う。徂徠の制度論の復活。(一二四)
H-2 天保8(1837)、越後柏崎生田万(ヨロズ)(国学者)、陣屋襲撃事件。尊王敬神の大義。平田篤胤の門。情にもろく激しやすい。「楽翁様(松平定信)に代わって、米屋どもに天誅を加える」との「落とし文」。同志は15人。(一二五~七)


第十四 水野越前守忠邦(天保の改革1841(天保12)~43(天保14)、44(弘化元)~45(弘化2))、デフレーションの巻
(1)商業都市を滅ぼす
A 水野越前守忠邦は、徳川氏最後の最大の政治家。(一二八)
A-2 ブルジョアジーに対する大決心。商業都市を滅ぼす。(一二八)都府の衰微を覚悟した。(一二九)
A-3 定信のような、質素倹約の封建的人道主義者では、ダメ!(一二八)
B 町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵):林家の第2子で蘭学を敵視→蛮社の獄1839(渡辺崋山・高野長英)(一二八)

(2)1841(天保12)「御城下衰退」でもかまわぬ
C 越前守の、ブルジョアジーに対する堂々の宣戦布告:1841(天保12)5/5。家慶への同年6月の上書で「御城下衰退」でもかまわぬと越前。(一二九)
C-2 1841(天保12)11/11から開始。①奢侈品の禁止→江戸の商人、大恐慌。②劇場の移転→3座、浅草へ。③私娼窟の掃討→新吉原のみ。④図書の取り締まり→第1次アヘン戦争・南京条約(1840-42)の頃で、民心動揺させ、攘夷を煽ると取り締まり。(一三〇)

(3)1841(天保12)営利同業組合解散(株仲間禁止)
D 越前守、ブルジョアの牙城に肉薄して、営利的同業組合の解散。(一三一)
D-2 上記①②③④は、本格的ブルジョアに対しては、さしたる痛痒与えず。ところが1841(天保12)12/13、江戸の商工業者の営利同業組合解散(株仲間禁止)。菱垣廻船・樽廻船(江戸・大阪の海上運輸権独占の2大船問屋)と同業組合の結託の規約破棄。消費者(武士)を搾ろうという制度(=資本主義ギルド)の破壊。(一三一)
D-3 都会を滅ぼしても、農村救済へ!町人階級を滅ぼし、武士救済!(一三一)


第一五 水野越前守忠邦・封建革命計画の巻
(1)鎌倉の原始封建制に戻す(一三二)
E 荻生徂徠の都市分散政策(『政談』『太平策』)を、そのまま実行しようとした水野越前守。(一三二)
E-2 都会の雇夫・傭丁(ヨウテイ)と化す農民たちを憂慮。①農民の江戸居住、原則禁止。①-2 近く出府した者は帰国させる。③農民はみだりに勘当しない。④農民の他業への転業禁止(出稼ぎは8カ月のみ)。⑤農民が他国に転ずるのも禁止。(僧侶・神主など)(一三二)
E-3 百姓(農民)を拘束し、鎌倉の原始封建制に戻す。(一三二)
E-4 ⑥農商工の武芸禁止。(一三二)
F 将軍直轄地の代官を、頻々と人を変えるのを、やめよ!(一三二)

(2)武士と百姓を土地に背かせた「参勤交代制」と諸侯旗本の「飛地制度」(一三三)
G 参勤交代制(徂徠のいわゆる“旅宿の境涯”)を廃止し、大名小名を領土に親ましめる。(一三三)
G-2 ただし参勤交代制は徳川氏の憲法で、廃止は“朝憲紊乱”との批判。(一三三)
H 諸侯旗本の「飛地制度」は、実際には代官に任せきりなのに、他の土地との交換となれば大苦情。(一三三)

(3)1843(天保14)9/14、大名旗本への2か条①江戸・大阪十里四方の地は幕領とする。②私領のうち諸国にある飛び地は城附きの領地へ引き換える(一三四)
I 領主をその領地に固着させるため(②)、彼らが謀叛の際に、幕府が江戸・大阪を守るため(①)。(一三四)水戸烈公と相談。(一三五)
I-2 ②は、領土・領民との疎隔を矯正させる。(一三五)
I-3 そして参勤交代制度を廃止し、諸大名旗本を領地にとどめる。(一三五)
J 1843年9/14の布告に対する諸大名・旗本の異議爆発。(一三六)
J-2 土井利位が紀州家と結託し、翌月、1843(天保14)閏9/7大名旗本への2か条撤廃
→閏9/13水野越前守罷免。(一三六)

(4)オランダ国王の来書に驚愕し、1844(弘化元)6月越前守を再帰させた家慶の政府(一三八)
K 越前守は、すでに1842(天保13)7/26、異国船打ち払い令停止=薪水給与令を復活。
K-2 文政の攘夷令を停止し、堂々一視同仁の義を説いた水野越前守!(一三七)

L 1844年、オランダ国王より世界の情勢(開国を促してくるだろう)と来書。(一三七)
L-2 土井利位は因襲古格のみで、対応できず。(一三七)
L-3 1844(弘化元)6月、水野越前守老中首班再任。「国家非常の場合」である!越前守は、支那日本近海における英米仏露の動静を、よく知っていた。(一三七)

M 1844(弘化元)7/3、オランダ使節、来日。イギリスの支那侵略、日本が惨禍を招かぬようアドバイス。
M-2 越前守、開国主義の外交方針。(一三八)
M-3 しかし再び越前守、排斥へ。8カ月の在任期間。1845(弘化2)2/10越前守、免官・謹慎→1851(嘉永4)、58歳で死去。(一三八~一三九)

N 1858(安政5)日米、1859(安政6)英仏蘭露、いずれも不平等通商条約。白人欧米の横暴なる経済的搾取。(一三九)
N-2 越前守の開国主義が採用されていたら、幕府への非難は、少なかったろう。(一三九)


第一五-2 明治維新の本質は断じて封建革命ではなく、ブルジョア革命(中産階級革命)である(一四〇) 
(1)明治維新=下士階級維新革命=ブルジョア革命
A 維新革命:都市ブルジョアが陰の力として働く。都市ブルジョア階級と、社会階級の本質において全く根源が同じ、各藩の下士階級が、幕府を倒した。(一四〇) 
A-2 明治維新は、ブルジョア革命である。(一四〇)
A-3 260余藩の武士は、身分において2つの階級、上士階級と下士階級に分かれていた。(一四〇)

(2)文久維新=上士階級維新革命=封建革命:横井小楠・島津久光
B 横井小楠の筋書による島津久光の「上士階級維新」=「文久維新」構想。(白柳命名)「文久維新」は、公武合体主義に基調する「封建革命」。(一四一)
B-2 1862(文久2)、越前候松平春嶽を政治総裁、一橋慶喜を将軍家茂後見職とする。(一四一)
C これに対し薩長の下士階級連盟による「下士階級維新革命」=「明治維新」(一四二)
D 1862年、諸大名の妻子を国に帰し、参勤交代の期を緩めた(3年に1度)のは、一時しのぎでない。徂徠、水野越前守、横井小楠の「封建革命」の理念にもとづく。(一四二)

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