今日、親戚の法事にお参りしてきた。我が家も親戚も宗派は大半が「浄土真宗・西本願寺派」で、一部の親戚は高野山を本山とする「真言宗」。
今日は、聞き慣れない「真言宗」のお経だった。聞き慣れたお経は般若心経だけだった。ただ、聞き慣れたお経と言うだけで経典すら勉強したこともないので、「有難い教え」は伝わって来ない。
国内はもとより、世界の国々で熱心に信仰する人々をテレビや新聞などで目にする時、檀家でありながら経本の神髄すら学ぼうとせず、日々、お経を唱えることもしない自分を恥じる。親の代から引き継がれた「仏様とご先祖さんを祀ったご仏壇」を管理しているに過ぎない自分に気づく。檀家でありながら形ばかりの信者であることに気づく。
信仰心があって自らの意思で信者となり檀家となった訳ではない。でも、家を継ぎ守るとは、そういうことだと思っている。
来週の18日より春の彼岸に入る。お坊さんがお参りしてくれる日時も連絡が来た。宗教行事を無事に勤め次世代にバトンタッチすることが、家を受け継いだ者の責任だと思っている。
一方で、信仰する神様や仏様や宗教は、自分も家族も、それぞれ自由であってもいいのかなとも思っている。「心の世界」・「想いの世界」・神に精しいと書く「精神世界」、それは家族といえども同じとは限らない気がする・・・
法事のお参りを記録にとどめるだけのつもりでブログを書き始めたら、なぜか独りよがりの想いが浮かんできた・・・