江戸期廿日市湊には各地から多くの交易船が出入りしていたとみられるが、資料が残されておらず明治期の資料から伺うことしか出来ない。唯一、天満神社の随身門脇の玉垣に入津廻船屋が江戸後期に寄進したものがみられる。刻銘によると「長州宇部岬、床浪浦、富田、〇曲浦、往生浦、豫洲」などと刻されているものがあるが、明治期の資料にみられる交易地のほんの一部でしかない。
江戸期廿日市湊には各地から多くの交易船が出入りしていたとみられるが、資料が残されておらず明治期の資料から伺うことしか出来ない。唯一、天満神社の随身門脇の玉垣に入津廻船屋が江戸後期に寄進したものがみられる。刻銘によると「長州宇部岬、床浪浦、富田、〇曲浦、往生浦、豫洲」などと刻されているものがあるが、明治期の資料にみられる交易地のほんの一部でしかない。