最近の異常気象でクラインガルデンは果樹園は花芽が冷害で枯れて結実せず若葉も繁茂しないとめちゃくちゃです。しかしつつじの花は咲き誇り綺麗です。農作業も少ないなか先日一畝耕したところ、こんなにたくさん石ころが出て来てがっかりです。小判が出るのが楽しみです。
有松から桶狭間古戦場公園まではパンフレットには距離や所要時間はかかれていなく、ただ道順だけです。歩いて20分ぐらいと思ったのですがなかなか到着せず、途中で疲れたので和菓子屋さんに入り「狭間最中」100円を買ってかじりながら歩きました。そのときもらったパンフレットには2.5キロと書いてありました。
約40分もかかるのですね。本来なら貸し自転車で行くのがいいですね。ことしは古戦場450年記念年に当たる年ですので是非貸し自転車ぐらいは駅に準備してほしいものですね。
地蔵池を越えてもそれらしきところは見えず道であったおばあさんに聞いて始めてわかりました。
そこは小さな公園です。今は工事中でした。知らずに入ったので注意され工事域には入ってはいけないと追い出されました。遠くから来たのに残念でたまりません。
210109
約40分もかかるのですね。本来なら貸し自転車で行くのがいいですね。ことしは古戦場450年記念年に当たる年ですので是非貸し自転車ぐらいは駅に準備してほしいものですね。
地蔵池を越えてもそれらしきところは見えず道であったおばあさんに聞いて始めてわかりました。
そこは小さな公園です。今は工事中でした。知らずに入ったので注意され工事域には入ってはいけないと追い出されました。遠くから来たのに残念でたまりません。
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有松絞り会館でも説明を受けました。絞りの開祖といわれている。人の石碑です。竹田庄九郎は慶長13年(1608)藩の移住政策によって知多郡阿久比(あぐい)から移ってきた人です。豊後(大分県)人の着用の絞り染め衣類にヒントを得て開発したのです。
寛永18年(1641)には尾張2代藩主光友に献上、さらに将軍家光にも献上されたといううことです。ますます東海道の人気となったと思います。
明暦年間(1655~58)には豊後高田藩の待医三浦玄忠の妻が国元で覚えたくくり絞りの技法を村人に教え育成に貢献したとのことです。今に伝わる「三浦絞り」とはこのことです。
これらとあいまって藩の保護によって今日まで有松絞りの技法と文化は残っているのです。しかし着物文化が廃れていく中で観光としての活路を開いている有松の活気が垣間見られました。
寛永18年(1641)には尾張2代藩主光友に献上、さらに将軍家光にも献上されたといううことです。ますます東海道の人気となったと思います。
明暦年間(1655~58)には豊後高田藩の待医三浦玄忠の妻が国元で覚えたくくり絞りの技法を村人に教え育成に貢献したとのことです。今に伝わる「三浦絞り」とはこのことです。
これらとあいまって藩の保護によって今日まで有松絞りの技法と文化は残っているのです。しかし着物文化が廃れていく中で観光としての活路を開いている有松の活気が垣間見られました。
有松絞り会館を出て50m東に行くとこの会館があります。残念ながら休館日でした。ここには3台の山車が保管されていて常時1台が展示されているそうです。
この山車は天満社の秋の例大祭で出され練り歩くそうです。布袋車、唐子車、神功皇后車の三つがあるそうです。
布袋車についての説明です。
この山車は天満社の秋の例大祭で出され練り歩くそうです。布袋車、唐子車、神功皇后車の三つがあるそうです。
布袋車についての説明です。
有松駅を降りてこの絞り会館を通って先に桶狭間合戦場跡を見て再びこの絞り会館に入場しました。入場料は200円です。先ず、2階に案内されてそこで15分間の有松絞りについてのビデオを見せられます。有松絞りは東海道の池鯉鮒宿と鳴海宿との間に茶屋場として尾張藩が作った場所ですが、知多郡阿久比から移住してきてこの茶屋場を作ったわけですが生活苦のため竹田庄九郎という人が当時名古屋の築城工事にきていた豊後の人の着物を見てそれを参考に開発したのが始まりといわれ400年余りの歴史があるとのことでした。絞り染めの種類も多く、館内にはそれらの見本がおいてありました。
有松絞りを実演している方です。朝9時から5時までの仕事だそうです。細かい仕事ですので「肩が懲りませんか」とお聞きするが「肩は懲りませんが座り続けているので足がこる」とのことです手前のご婦人は90歳といわれていましたが若々しく手先を良く動かしておられました。14歳から始めて90歳になった今でも元気ですし、頭のボケもなくかくしゃくとしておられました。いつも手先を動かすことは健康にいいものなのだとこの目で見て実感したしだいです。
有松絞りを実演している方です。朝9時から5時までの仕事だそうです。細かい仕事ですので「肩が懲りませんか」とお聞きするが「肩は懲りませんが座り続けているので足がこる」とのことです手前のご婦人は90歳といわれていましたが若々しく手先を良く動かしておられました。14歳から始めて90歳になった今でも元気ですし、頭のボケもなくかくしゃくとしておられました。いつも手先を動かすことは健康にいいものなのだとこの目で見て実感したしだいです。
鳴海駅から名鉄本線で有松駅に降りました。駅の南口を少し西方面に行き南へ行くと旧東海道の有松があります。
町並みが保存されていて江戸時代にタイムスリップしたようです。東へ1キロぐらい歩くと道が工事中でしたがその前がこの服部家住宅です。江戸時代末期から明治の初めに掛けて整備された絞り問屋の姿が今にも残っているそうです。県の有形文化財に指定されていました今一部はお店としても使われていました。
道路左側が工事中のためうまく写せづやや遠めに写っている感じです。
町並みが保存されていて江戸時代にタイムスリップしたようです。東へ1キロぐらい歩くと道が工事中でしたがその前がこの服部家住宅です。江戸時代末期から明治の初めに掛けて整備された絞り問屋の姿が今にも残っているそうです。県の有形文化財に指定されていました今一部はお店としても使われていました。
道路左側が工事中のためうまく写せづやや遠めに写っている感じです。
浄泉寺を南の下がりまた旧東海道を東に行くと扇川の手前にいきますそこがこのお寺なのですがこれも丘の上に建っていますので階段を上がっていくのです。大きな立派な山門が迎えてくれます。
この扇川と手越川がこの瑞泉寺前で交差しています。その三角州の中に桶狭間の合戦で知られている中島砦はあったのです。また瑞泉寺から600m北東に善照寺砦が作られていたのです。桶狭間の合戦のときに織田信長が作ったといわれています。このお寺は応永3年(1396)鳴海城主安原宗範によって創建されています、文亀3年(1501)にここに移ったので桶狭間の戦いのときにはここにあったお寺です。
この立派な山門は宇治市の黄檗宗万福寺総門をまねた中国風山門だそうで県の指定有形文化財となっているとのことでした。
この扇川と手越川がこの瑞泉寺前で交差しています。その三角州の中に桶狭間の合戦で知られている中島砦はあったのです。また瑞泉寺から600m北東に善照寺砦が作られていたのです。桶狭間の合戦のときに織田信長が作ったといわれています。このお寺は応永3年(1396)鳴海城主安原宗範によって創建されています、文亀3年(1501)にここに移ったので桶狭間の戦いのときにはここにあったお寺です。
この立派な山門は宇治市の黄檗宗万福寺総門をまねた中国風山門だそうで県の指定有形文化財となっているとのことでした。
浄泉寺は万福寺の小道を越えてというか道を越えた丘の上にあります。このあたりは丘が多くやはり永禄の戦いのとき砦が造られたのが良くわかります。
1432年に鳴海庄の名主森山左近三郎吉勝という人物が創建したお寺ですが何度か焼失しています。その一つは1478年の美濃三河勢の合戦で焼失しています。
1432年に鳴海庄の名主森山左近三郎吉勝という人物が創建したお寺ですが何度か焼失しています。その一つは1478年の美濃三河勢の合戦で焼失しています。
丹下町の常夜灯を探訪して鳴海駅に向かいましたが途中で道に迷い遠回りとなりましたが基点の鳴海駅に戻りました。そこからまた鳴海宿に入って今度は東へ進みます。本町交差点を東へ進むと脇本陣跡が2軒ありますそれを北上するとこのお寺が見えてきます。階段状の台地の上にあります。
まんぷくじは永享年間に三井某という人が創建した浄土真宗高田派のお寺だそうです。永禄3年の兵火で焼失しています。
万福寺の本堂です。境内はあまり広くはありませんでした。
厳しい1月の気候の中でこのように可憐に花を咲かせていました。しかも風邪吹く山門の前にです。シャッターを切らずにおれませんでした。
まんぷくじは永享年間に三井某という人が創建した浄土真宗高田派のお寺だそうです。永禄3年の兵火で焼失しています。
万福寺の本堂です。境内はあまり広くはありませんでした。
厳しい1月の気候の中でこのように可憐に花を咲かせていました。しかも風邪吹く山門の前にです。シャッターを切らずにおれませんでした。
光明寺を出るとすぐに丹下の常夜灯が目に入りました。ということは昔はここは東海道であったということです。その常夜灯の後背地が少し丘になっているのです。自然に登ってみたくなったので行ってみますと石組みなどがあり昔の城跡のような感じもしました。
その石組みがまた面白く丸い石ばかりで組まれているのです。太古はというか昔はここを鳴海潟と呼んでいたので海に近くそういうことで石も丸くなったのです。後で調べてみましたらここは織田信長が造った丹下砦の跡だったのです。
光明寺の裏からこの常夜灯の奥の台地が丹下砦の跡だそうです。
この常夜灯は寛政四年に建てられた鳴海宿の西の入り口としてあったものです。ここが鳴海宿の西端といえます。
その石組みがまた面白く丸い石ばかりで組まれているのです。太古はというか昔はここを鳴海潟と呼んでいたので海に近くそういうことで石も丸くなったのです。後で調べてみましたらここは織田信長が造った丹下砦の跡だったのです。
光明寺の裏からこの常夜灯の奥の台地が丹下砦の跡だそうです。
この常夜灯は寛政四年に建てられた鳴海宿の西の入り口としてあったものです。ここが鳴海宿の西端といえます。