霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

桶狭間古戦場由緒地跡

2010-04-23 10:13:43 | 歴史/古文書
 この場所は今は川が埋められていますがむかしは鞍流瀬川と呼ばれ川があって橋がかかっていた場所です。橋の名は浄土橋といいまして長福寺山門へいたる橋です。

 鞍流瀬川の名のいわれが刻まれていました。田楽坪の東を流れるこの川に永禄3年の桶狭間の戦いが過ぎて人馬の血潮に染まった川の水に馬の鞍が流れていたところから鞍流瀬川といわれるようになったとのことです。
                  
この石標から西へ100mぐらいのところに義元の家老瀬名氏俊の陣地跡があります。時間の都合でいけなかったです。

 瀬名氏俊は合戦の2日前にここに陣を敷き前日に村人を使って桶狭間の山に陣地を、19日にはこの田楽坪の義元の昼の休息陣地を構築したと観光パンフレットには記されていました。義元の先陣として大高城へ進軍していった人です。したがって戦死はしていません。

白狐まつり

2010-04-22 18:10:52 | Weblog
四月の始め、温泉地域のまつりがありました。県内のキラクター人形も一役借りだされ小さな子供たちの喝采を浴びていました。ますます地域のまつりが賑わいを増していくことを祈念したいものです。

地鎮祭

2010-04-22 17:55:06 | Weblog
今日は大安吉日です。雨は降っていましたが実行しました。岡崎城の内に鎮座している龍城神社の禰宜さんを呼んで地鎮祭という祈祷を行いました。禰宜さんの祈祷の声が大きくなるに従って雨脚は激しくなり不浄が流され清められました。雨降って地固まる といった心境でした。これは神様からの下がりものです記念に撮影しておきました。

今川義元公水のみの泉

2010-04-22 09:48:35 | 歴史/古文書
 永禄3年5が19日この地に今川義元の軍勢2万5千人一行の本陣がここで休憩をとった場所でもあり義元終焉の地でもあります。この泉は義元公が休憩のときの水を飲んだ泉でもあり、また義元公の首洗いの泉でもあります。この桶狭間の合戦で今川軍は2500人織田軍は830人が戦死したと伝えられています。
 桶狭間古戦勝保存会の文では「この泉の沿って旧刈谷街道が鳴海の方向に通っていますが、この泉に水飲み用の桶が備え付けてあり、それが泉の水力で桶がゆっくり回っていたのです。これが旅人の興味を引き、桶の回る間の一服ともてはやされて、だれかれ言う間に桶狭間といわれるようになった」と地名のいわれが書かれていました。
   
今は公園の工事中かどうか定かではありませんが泉の水は見えませんでした。

桶狭間の合戦

2010-04-21 08:42:09 | 歴史/古文書
 今年は合戦450年記念でイベントもあるそうです。そのために今桶狭間合戦場公園は整備中とのことでした。聞くところによるとこの公園に信長と義元の銅像が建つとのことらしい。
桶狭間の戦いはこの田楽坪が戦いの中心といわれています。

 信長が善照寺砦から相原郷を通り、北のほうを回って太子ヶ根の頂上から今川義元の本陣を急襲したといわれている説は義元の本陣が豊明市の南館というところにある桶狭間合戦加場跡地というところに場所が設定されることになります。
 
 もう一つの説は善照寺砦から中島砦を通り、この桶狭間の山で休息していた義元の本陣を急襲したという説があります。この写真は後者の説で説明がしてあります。私はこの説のほうを採りたいと思っています。
               

 観光パンフレット参照20100107

桶狭間古戦場田楽坪

2010-04-20 18:27:58 | 歴史/古文書
 桶狭間の決戦は信長が2~3000の兵で義元(義元軍25000人)の本陣を急襲して義元の首を取り天下の形勢が信長に傾いて行った大きな合戦の一つとして有名です。

 時は永禄3年(1560)5月19日山と山の狭間にあるところに先陣の戦況や首実検をする本陣を置いて休憩していたのであるが雨が降って霧深く休んでいた義元の陣に空が晴れるのを待って信長が攻撃し義元公旗本300騎が円を組んで義元を守っていたのです。

 信長軍に攻められて次ぎ次に戦死や手負いのものが増えてその一団は50騎と少なくなりついには義元の首を毛利新助が討ち取ったのです。信長軍に打ち押されて西へ西へと移動して討たれていったのですそのあたりは地蔵池と大池とに挟まれた深田であって「追われる義元軍は足を泥濘(ぬかるみ)や深田に取られ這いずり回りながら逃れ、討たれていったのです」と信長公記には書かれております。その信長公記から推察すればこの地とほぼ一致する可能性が高く、もう一つの桶狭間古戦場跡地(愛知県有明市)はまさに狭間ではあるが全くぬかるみのないところでありこちらの方が信長公記の記述にぴったりの場所といえよう。

 二つの桶狭間合戦場跡地はありますが義元公の戦死場所はこの有松駅から行く田楽坪の場所が本当のような気がしました。

 戦いより48年後に行われた慶長検地ではここは田楽坪というという地名で西側に2町歩近い本田があったことが確認されているそうです。その地名から見れば付近が深田であったことが想定できますのでこの地が義元公終焉の地になるだろうと考えられます。

 また「慶長7年編の「中古治乱記」では合戦の地を田楽坪としている。」と観光パンフレットには載っていますので、最近はこの地が桶狭間の合戦場主戦地として強くなってきている感じでした。

上の写真の真ん中に見える石標には「桶狭間古戦場」と刻まれています。この石標は田楽坪から発掘されたと案内板に書かれています。

義元公の墓

2010-04-19 17:02:34 | 歴史/古文書
 ようやく桶狭間の古戦場公園に着きました。ここに苔むした駿公墓碣とかかれた義元公の墓があります写真では右の小さい墓石です。その建立年は不詳とのことです。
左に大きい墓碑がありますがこれは昭和8年に建立したものだそうです。
このあたりが田楽坪といわれ、義元公の最期の地であった。戦死の場所といわれています。

このあたりに義元公が戦いのときに馬をつないだといわれる「杜松(ねず)の木」があったそうですねず塚にあったものを移植し今は枯れ木として残っているといわれていますが。工事中のためゆっくり見られず場所は良くわかりませんでしたこのあたりであるとは思います。

リンゴの花咲く

2010-04-19 09:49:44 | Weblog
寒さが続き3温6寒の日が繰り返して来ましたが。もうそろそろ終わりにして欲しいものです。40数年ぶりの四月の低温とも言われています。寒さに強いリンゴの花が咲いて来ました。リンゴのように元気に・・、たくましさをいつも心に持ち続けたいものです。