この場所は今は川が埋められていますがむかしは鞍流瀬川と呼ばれ川があって橋がかかっていた場所です。橋の名は浄土橋といいまして長福寺山門へいたる橋です。
鞍流瀬川の名のいわれが刻まれていました。田楽坪の東を流れるこの川に永禄3年の桶狭間の戦いが過ぎて人馬の血潮に染まった川の水に馬の鞍が流れていたところから鞍流瀬川といわれるようになったとのことです。
この石標から西へ100mぐらいのところに義元の家老瀬名氏俊の陣地跡があります。時間の都合でいけなかったです。
瀬名氏俊は合戦の2日前にここに陣を敷き前日に村人を使って桶狭間の山に陣地を、19日にはこの田楽坪の義元の昼の休息陣地を構築したと観光パンフレットには記されていました。義元の先陣として大高城へ進軍していった人です。したがって戦死はしていません。
鞍流瀬川の名のいわれが刻まれていました。田楽坪の東を流れるこの川に永禄3年の桶狭間の戦いが過ぎて人馬の血潮に染まった川の水に馬の鞍が流れていたところから鞍流瀬川といわれるようになったとのことです。
この石標から西へ100mぐらいのところに義元の家老瀬名氏俊の陣地跡があります。時間の都合でいけなかったです。
瀬名氏俊は合戦の2日前にここに陣を敷き前日に村人を使って桶狭間の山に陣地を、19日にはこの田楽坪の義元の昼の休息陣地を構築したと観光パンフレットには記されていました。義元の先陣として大高城へ進軍していった人です。したがって戦死はしていません。