
この人の名はあまり知られていないが幕末維新に活躍した人である。生誕地に行ってみると、そこは小学校の校地内にあり北の片隅に観光案内板がひっそりと立てかけてあるのです。しかも市道から見れば裏側になっていて何の案内板かも分からないのです。
一般の人には見るのに見えなく分かりにくいところにある。また学校地の奥にあり入ってみることもできない。やむえず塀を越えていくことになるのである。歴史を知るということは悲しいことですね。
この人は天保14年(1843)、吉敷毛利家の家臣で吉田治助の4男として中村に生まれ吉田豪助と幼名は言っていたのですが。長じて内海亀之進の養子に行き家計を助けながら郷校憲章館にて学ぶ、武術は得意であったといわれている。
文久3年(1863)長州軍の諸隊のひとつである服部哲二郎(名和道一)率いる宣徳隊に加入して活動し、蛤御門の変にも参加、また高杉晋作の挙兵に応じて太田・絵堂の戦いで俗論派と戦った。
幕府との四境戦争では、良城隊の指令士として岩国と大竹の境である小瀬川口で戦い激戦の中重傷をおっている。
明治元年(1868)、兵庫県に出仕し官界に入る。明治4年に岩倉具視等の欧米視察に随行して帰朝後は、大阪府大参事から同10年長崎県権令ついで県令となり、以来三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各府県知事を歴任、多年の功績により、貴族院議員に列せられ、会計検査院長となり、華族となり男爵を授けられた。第一次桂内閣では明治34年(1901)に内務大臣として初入閣となり内政に手腕をふるったが同36年に病気となり辞職、同38年1月に逝去された。63歳ということである。
この写真は内海忠勝の住居があったところであるが残っているのは当時の井戸のみである。
観光案内板参照
080105
一般の人には見るのに見えなく分かりにくいところにある。また学校地の奥にあり入ってみることもできない。やむえず塀を越えていくことになるのである。歴史を知るということは悲しいことですね。
この人は天保14年(1843)、吉敷毛利家の家臣で吉田治助の4男として中村に生まれ吉田豪助と幼名は言っていたのですが。長じて内海亀之進の養子に行き家計を助けながら郷校憲章館にて学ぶ、武術は得意であったといわれている。
文久3年(1863)長州軍の諸隊のひとつである服部哲二郎(名和道一)率いる宣徳隊に加入して活動し、蛤御門の変にも参加、また高杉晋作の挙兵に応じて太田・絵堂の戦いで俗論派と戦った。
幕府との四境戦争では、良城隊の指令士として岩国と大竹の境である小瀬川口で戦い激戦の中重傷をおっている。
明治元年(1868)、兵庫県に出仕し官界に入る。明治4年に岩倉具視等の欧米視察に随行して帰朝後は、大阪府大参事から同10年長崎県権令ついで県令となり、以来三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各府県知事を歴任、多年の功績により、貴族院議員に列せられ、会計検査院長となり、華族となり男爵を授けられた。第一次桂内閣では明治34年(1901)に内務大臣として初入閣となり内政に手腕をふるったが同36年に病気となり辞職、同38年1月に逝去された。63歳ということである。
この写真は内海忠勝の住居があったところであるが残っているのは当時の井戸のみである。
観光案内板参照
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