日常的に見られる2つのタイプ
- 自己依存型・・・・・・他者を賤しめ、自分を美化
- 他者依存型・・・・・・自分を賤しめ、他者を美化
そんな人、いるでしょう?
- 自己依存型・・・・・・相手・敵国を非難・軽蔑するあまり(長所には触れない)、自分・自国を瑕疵(かし)のない理想像に仕上げる・・・・・・いるいる!
- 他者依存型・・・・・・自分・自国を卑下するあまり、相手・敵国を美化しがち(短所には触れない)・・・・・・これまた、いるいる!
いずれも、あとで「しまった」と気づくのですが、時すでに遅し!
人は
どちらか一方ではなく、自己依存と他者依存の両方の資質をもっているようです。
どういう場合に自己依存しがちで、どういう場合に他者依存に陥りがちなのでしょう。
何か、現代社会を解明する糸口になるのか、それとも単なる戯言(たわごと)にすぎないのか・・・・・・。
世の中には、こんな人(A・B・C)がいます。
Aの見方ですが、「Bは、ひどい」。
詳しくBに話を聞いてみると、自分Bはましなほうで、もっとひどいCがいる、と言う。
そしてCは「Aは、ひど過ぎる」とまで言うのです。
わかりやすいく書けば
A>B>C>A・・・・・・
AからみたらBはひどいのに、BはCのほうが「もっと」ひどい、さらにCはAがひどい、というのです。いったいA・B・Cのどれが一番ひどいのでしょうか。
単に、「人の見方に過ぎない」のでしょうか、それとも人に固有の「価値観の違い」の一例かも・・・・・・。
人間関係で A>B>C というのがあると仮定しましょう。
この場合、Cは最悪で、Bは見下したCと話をしようとしない(Cと一緒にされることを忌み嫌う)ばかりか、Cから逃げるためCは逃げるBを追いかけます。よってCは誰を見ても反発するようになります。
しかしそういうとき、「Aが逃げないでCに向き合う」と、意外なことですが、CはAに対して、「好意」は無理としても、「敵意」をもたなくなることがあるのです。
つまりCは、逃げるBには「敵意」をもちながらこれを追いかけ、逃げないAには「不満はある」ものの追いかけようとせず「敵意」をもたなくなる、そういう可能性があるのです。
ここに人間同士の「機微」があります。
同じようなことが、国際関係でもみられます。
ある凶暴な国があり、これを利用しようと接近する国があっても、一度凶暴さがみられると何も言えなくなり、両者の関係がますます悪化し距離が遠ざかります。
そんなときこの凶暴な国から逃げずに堂々と対抗することで、距離を「短くはできない」でしょうが、「これ以上遠ざけない」ことがあり得るのです。
どの国のことかは、もうお分かりでしょうか(笑)。
スポーツは
この複雑な関係がある中で、「差を軽減する」重要な役割を果たします。
同じルールのはずなので、例外はあるとしても私は、「スポーツに、地域間の大きな視点の差を縮める役割がある」と考えています。
だからこそ、国ぐるみで「ルール違反をし隠蔽工作」に走るのが許せない、のです。
これまた、どの国のことか、もうお分かりでしょう(笑)。
ある国では
腐敗が国中に蔓延しているのを何とかしたいと考え、個別に着服・横領している人たちを厳罰に処し、見せしめとします。これで「恐れをなして庶民は平伏するだろう」という読みですね。
- しかしながら、「厳罰に処したり死刑を増やしても犯罪は減らない」でしょう。
現実は逆で、暴動が多く犯罪が多発する地域ほど、死刑の数もまた多いのです。「死刑が犯罪の抑止にはならない」のでした。
- むしろ社会の仕組みを劇的に変えることで、「死刑を減らして犯罪を減らせる」効果をねらうほうが大切ではないでしょうか。
たとえば、極悪な犯罪に手を染めていると非難して死罪を科すだけではなく、その人達に「社会に役立つ何か重要な仕事を与える」ことが挙げられます。その「犯罪」がその人たちにとって「生きる手段」として機能しているのを無視して、ただ罰則を強化すればいいと考える人は、本当の法律家ではないでしょう。
- 死刑制度を廃止したているところほど立てこもり犯人を射殺したがるのかも知れません。
事件発生時に銃で狙撃するほうが、冤罪などを発生させないためにはいいのでしょうが、そういった面倒な裁判を避けようとする姿勢が「死刑廃止」の理念から遠く離れています。
むしろ死刑制度を残しているけれども、できるだけ「説得」して裁判を受けさせようとするほうが好ましいとも言えます。
ある国ではきっと
- 厳罰に処すればするほど、庶民はますます巧妙になって、着服・横領が続き、永遠に効率の悪い国の運営は避けられません。
- やがてその国は破滅し、新しい国が誕生しますが、その新しい政府下でも同じように腐敗と暴力が起り、同じことが繰り返されるのでした。
シリアを空爆した外国があります。
自国の治安を維持できず、外国に自国の空爆を依頼したり、外国に空爆されるのを喜んでいるという、シリア政府がそもそもお粗末と言えますが・・・・・・
シリアへの空爆で極端に多くの難民を発生させておきながらその難民を多く受け入れてきたEUとはいえ、EU内に定住した難民が犯罪を起こすやら、難民に紛れてテロリストが入る込むやらで、どうやら「理念だけで難民を受け入れてきたキリスト教的な寛容さが裏目に出た」のが2016年だったようです。
この反動で、難民受け入れを制限したり、拒否するところが出てきました。
そもそも
他国を空爆→難民発生→難民受け入れ→難民受け入れ制限→難民受け入れ拒否・・・・・・という流れは、キリスト教的な「博愛精神」だったのか、単なる「見かけ上の装い」だったのか、それとも「単なる勘違いだった」のか、はたまた「悪質な偽善だった」のでしょうか。
ある国の人は、常に自画自賛し自惚れることで、必然的に他国を軽蔑します。
別のある国の人は、常に自虐的になることで、必然的に他国を美化します。
ひょっとしたら、こんな人がいるかも・・・・・・
最悪の人:自虐的であり、しかも他国・他人を軽蔑
最善の人:自画自賛だが、他国・他人を尊重
ありえませんか?
さてさて、皆様はどう思われますか。