都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」 練馬区立美術館
練馬区立美術館
「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」
2020/2/21~4/12
練馬区立美術館で開催中の「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」の特別内覧会に参加してきました。
1880年に京都に生まれた画家、津田青楓は、図案制作で生計を立てつつ、日本画や洋画を学び、二科会の創立メンバーに加わるも、後に文人画風の作品を描くなどして多様に活動しました。
その津田青楓の生誕140年を期したのが「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」と題した回顧展で、約250点の作品と資料を通して画風の変遷を辿りつつ、交友のあった夏目漱石や私淑した良寛和尚との関わりなどを詳らかにしていました。
生花の家元に生まれた青楓は、小学校卒業と同時に生地問屋へ奉公に出されるも、主従関係に嫌気がさして出奔すると、自立の道を探り出しました。そこで出会ったのが図案を描く仕事で、日本画を学びつつ、京都市立染織学校に入学しては、染織の知識を新たに吸収しました。
「浅野古香宛津田青楓絵葉書」 1905年 佐倉市立美術館
しかしそうした青楓の生き様を変えたのが、1904年に勃発した日露戦争でした。1900年、20歳にして徴兵された清風は、1903年に満期で除隊するも、翌年に召集され、看護師として従軍し、203高地などの激戦地を転戦しました。そこで目の当たりにした凄惨な光景は、青楓の記憶から消えることはなく、後に「内臓がはみだし」や「何十とも知れぬ死骸」などと戦争の体験を生々しく日記に記述しました。
津田青楓「装飾図案」(山田芸艸堂) 1904年 芸艸堂
1907年、農商務省海外実業練習生に採用された青楓は、フランスへ留学してデッサンなどを学ぶと、帰国後、京都から東京へ移り住みました。そして夏目漱石と出会い、漱石の亡くなる1916年まで絵を教えたり、日本画の表を乞うたり、連れ立って展覧会へ行くなどして交流を深めました。
手前:津田青楓「うづら衣」(山田芸艸堂) 1903年 スコット・ジョンソン
さて青楓の仕事でまず目を引くのは、図案集、ないし本の装釘でした。うち「うづら衣」は自然の風景などの写生を下にした図案集で、郊外の田園風景を、時に抽象を思わせるような表現で巧みに表していました。
手前:津田青楓「青もみぢ」7巻、9巻(芸艸堂) 1906年 スコット・ジョンソン
この他、日露戦争から戻って間もなく描き、伝統的な図案を模倣したとされる「青もみぢ」も魅力的と言えるかもしれません。
津田青楓(装幀)夏目漱石「道草」(岩波書店) 県立神奈川近代文学館(寄託)
そして漱石の「明暗」や「道草」をはじめ、鈴木三重吉や与謝野晶子、田山花袋などの書籍の装丁も多く手掛けていて、やはり草花などの自然のモチーフを取り込みながら、どこか美しくも可憐な作品世界を作り上げていました。
1914年、石井柏亭や山下新太郎らと二科会を設立した清風は、1923年に関東大震災が起こると、再び京都へ移り住み、マルクス主義経済学者の河上肇と出会い、社会主義を理想とする美術動向にも深く関心を寄せました。
津田青楓「婦人と金絲雀鳥」 1920年 東京国立近代美術館
「婦人と金絲雀鳥」は第十回二科展への出品作で、文庫本を手にした女性、すなわち当時の妻の山脇敏子が、椅子に腰掛けては穏やかな面持ちで鳥を愛でる様子を表していました。そして背後の平面的な衝立は、岩場に立つ鶴を描いた青楓の自作、「描更紗鶴図衝立」と同様の図柄であることから、実際に用いて描いたとも指摘されています。
左:津田青楓「出雲崎の女」 1923年 東京国立近代美術館
また「出雲崎の女」は、良寛の出生地を訪ねた際に制作した一枚で、宿屋の娘をモデルにしました。腰をくねらせては扇子を持つ女性の裸体は、やや黄色を帯びていて、まるでゴーギャンの画風を思わせる面もありました。
右:津田青楓「夏の日」 1929年 笛吹市青楓美術館
さらに海辺に集う人々を描いた「夏の日」も、人々の肌の色然り、独特な色彩表現を見せていて、少女のワンピースの鮮やかな珊瑚色も一際目立っていました。こうした青楓の油絵を漱石は「色彩の感じの豊富な人。」として、「趣のある色彩を出すやうです。」と評していました。
津田青楓「疾風怒涛」 1932年 笛吹市青楓美術館
京都丹後の冬の海岸をモチーフにしたのが、青楓最大のサイズでもある「疾風怒涛」で、岩場に襲い掛かるように荒れ狂っては波打つ海を描いていました。ともかく激しく迸るような筆触が印象的でしたが、ここには社会主義への弾圧が強化された世相に対する不満が示されたとも言われています。
青楓の油絵の中で最も有名でかつ鮮烈な印象を与えるのが、権力により拷問を受ける運動家の姿を描いた「犠牲者」ではないでしょうか。
津田青楓「犠牲者」 1933年 東京国立近代美術館
「十字架のキリスト像に匹敵する」とした清風は、後ろ手に縛られ、血を垂らしながらだらんと吊るされた人物をねっとりとした油彩で表していて、画面下の鉄格子付きの窓には、国会議事堂も描きこまれていました。
ともかく体制への強い批判精神が明らかに感じられる作品ですが、実際に青楓は制作中の1933年、左翼運動へ接近したとして、官憲に囚われてしまいました。ただアトリエに踏み込まれる前に隠したことで押収は免れ、戦後まで公表されることはありませんでした。
留置場に入れられ、約半月余り取り調べを受けた青楓は、今後、社会主義運動への関心を断ち切るという、いわゆる転向によって起訴猶予となりました。そして洋画を描くことが困難だと感じると、断筆を宣言し、二科会からも脱退して、自らの洋画塾を解散しました。
津田青楓「北太田人物」 1946年 笛吹市青楓美術館
ラストは青楓が主に晩年に辿り着いた、書や水墨、それに詩と絵の交錯する南画でした。疎開先の農村風景を写生した「北太田人物」は、柔らかな筆と淡い色彩で人々の様子を描いていて、その軽妙な作風は、先の油彩画とは似ても似つかないかもしれません。
津田青楓「馬と牛」 個人蔵
65歳に終戦を迎えた青楓は、公的な仕事から一歩退き、友人たちと交流しつつ、自然の風景などを南画に描いては、書に没頭しました。そして1978年、老衰にて亡くなりました。98歳のことでした。
中央:津田青楓「其時声無」 制作年不詳
油彩、日本画、書と幅広い分野で功績を残した青楓の画業を辿るには、質量ともに申し分ない回顧展ではないでしょうか。作品に見入りつつも、時に時代に翻弄されつつも、自らの制作を切り開いた青楓の生き方にも大いに共感するものがありました。
3月13日現在、通常通り開館していますが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、3月末までに開催予定の講演会などのイベントは中止となりました。
4月12日まで開催されています。おすすめします。
「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」 練馬区立美術館(@nerima_museum)
会期:2020年2月21日(金)~4月12日(日)
休館:月曜日。但し2月24日(月・休)は開館、翌25日(火)は休館。
時間:10:00~18:00 *入館は閉館の30分前まで
料金:大人1000(800)円、大・高校生・65~74歳800(700)円、中学生以下・75歳以上無料
*( )は20名以上の団体料金。
*ぐるっとパス利用で500円。
住所:練馬区貫井1-36-16
交通:西武池袋線中村橋駅より徒歩3分。
注)写真は特別鑑賞会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」
2020/2/21~4/12
練馬区立美術館で開催中の「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」の特別内覧会に参加してきました。
1880年に京都に生まれた画家、津田青楓は、図案制作で生計を立てつつ、日本画や洋画を学び、二科会の創立メンバーに加わるも、後に文人画風の作品を描くなどして多様に活動しました。
その津田青楓の生誕140年を期したのが「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」と題した回顧展で、約250点の作品と資料を通して画風の変遷を辿りつつ、交友のあった夏目漱石や私淑した良寛和尚との関わりなどを詳らかにしていました。
生花の家元に生まれた青楓は、小学校卒業と同時に生地問屋へ奉公に出されるも、主従関係に嫌気がさして出奔すると、自立の道を探り出しました。そこで出会ったのが図案を描く仕事で、日本画を学びつつ、京都市立染織学校に入学しては、染織の知識を新たに吸収しました。
「浅野古香宛津田青楓絵葉書」 1905年 佐倉市立美術館
しかしそうした青楓の生き様を変えたのが、1904年に勃発した日露戦争でした。1900年、20歳にして徴兵された清風は、1903年に満期で除隊するも、翌年に召集され、看護師として従軍し、203高地などの激戦地を転戦しました。そこで目の当たりにした凄惨な光景は、青楓の記憶から消えることはなく、後に「内臓がはみだし」や「何十とも知れぬ死骸」などと戦争の体験を生々しく日記に記述しました。
津田青楓「装飾図案」(山田芸艸堂) 1904年 芸艸堂
1907年、農商務省海外実業練習生に採用された青楓は、フランスへ留学してデッサンなどを学ぶと、帰国後、京都から東京へ移り住みました。そして夏目漱石と出会い、漱石の亡くなる1916年まで絵を教えたり、日本画の表を乞うたり、連れ立って展覧会へ行くなどして交流を深めました。
手前:津田青楓「うづら衣」(山田芸艸堂) 1903年 スコット・ジョンソン
さて青楓の仕事でまず目を引くのは、図案集、ないし本の装釘でした。うち「うづら衣」は自然の風景などの写生を下にした図案集で、郊外の田園風景を、時に抽象を思わせるような表現で巧みに表していました。
手前:津田青楓「青もみぢ」7巻、9巻(芸艸堂) 1906年 スコット・ジョンソン
この他、日露戦争から戻って間もなく描き、伝統的な図案を模倣したとされる「青もみぢ」も魅力的と言えるかもしれません。
津田青楓(装幀)夏目漱石「道草」(岩波書店) 県立神奈川近代文学館(寄託)
そして漱石の「明暗」や「道草」をはじめ、鈴木三重吉や与謝野晶子、田山花袋などの書籍の装丁も多く手掛けていて、やはり草花などの自然のモチーフを取り込みながら、どこか美しくも可憐な作品世界を作り上げていました。
1914年、石井柏亭や山下新太郎らと二科会を設立した清風は、1923年に関東大震災が起こると、再び京都へ移り住み、マルクス主義経済学者の河上肇と出会い、社会主義を理想とする美術動向にも深く関心を寄せました。
津田青楓「婦人と金絲雀鳥」 1920年 東京国立近代美術館
「婦人と金絲雀鳥」は第十回二科展への出品作で、文庫本を手にした女性、すなわち当時の妻の山脇敏子が、椅子に腰掛けては穏やかな面持ちで鳥を愛でる様子を表していました。そして背後の平面的な衝立は、岩場に立つ鶴を描いた青楓の自作、「描更紗鶴図衝立」と同様の図柄であることから、実際に用いて描いたとも指摘されています。
左:津田青楓「出雲崎の女」 1923年 東京国立近代美術館
また「出雲崎の女」は、良寛の出生地を訪ねた際に制作した一枚で、宿屋の娘をモデルにしました。腰をくねらせては扇子を持つ女性の裸体は、やや黄色を帯びていて、まるでゴーギャンの画風を思わせる面もありました。
右:津田青楓「夏の日」 1929年 笛吹市青楓美術館
さらに海辺に集う人々を描いた「夏の日」も、人々の肌の色然り、独特な色彩表現を見せていて、少女のワンピースの鮮やかな珊瑚色も一際目立っていました。こうした青楓の油絵を漱石は「色彩の感じの豊富な人。」として、「趣のある色彩を出すやうです。」と評していました。
津田青楓「疾風怒涛」 1932年 笛吹市青楓美術館
京都丹後の冬の海岸をモチーフにしたのが、青楓最大のサイズでもある「疾風怒涛」で、岩場に襲い掛かるように荒れ狂っては波打つ海を描いていました。ともかく激しく迸るような筆触が印象的でしたが、ここには社会主義への弾圧が強化された世相に対する不満が示されたとも言われています。
青楓の油絵の中で最も有名でかつ鮮烈な印象を与えるのが、権力により拷問を受ける運動家の姿を描いた「犠牲者」ではないでしょうか。
津田青楓「犠牲者」 1933年 東京国立近代美術館
「十字架のキリスト像に匹敵する」とした清風は、後ろ手に縛られ、血を垂らしながらだらんと吊るされた人物をねっとりとした油彩で表していて、画面下の鉄格子付きの窓には、国会議事堂も描きこまれていました。
ともかく体制への強い批判精神が明らかに感じられる作品ですが、実際に青楓は制作中の1933年、左翼運動へ接近したとして、官憲に囚われてしまいました。ただアトリエに踏み込まれる前に隠したことで押収は免れ、戦後まで公表されることはありませんでした。
留置場に入れられ、約半月余り取り調べを受けた青楓は、今後、社会主義運動への関心を断ち切るという、いわゆる転向によって起訴猶予となりました。そして洋画を描くことが困難だと感じると、断筆を宣言し、二科会からも脱退して、自らの洋画塾を解散しました。
津田青楓「北太田人物」 1946年 笛吹市青楓美術館
ラストは青楓が主に晩年に辿り着いた、書や水墨、それに詩と絵の交錯する南画でした。疎開先の農村風景を写生した「北太田人物」は、柔らかな筆と淡い色彩で人々の様子を描いていて、その軽妙な作風は、先の油彩画とは似ても似つかないかもしれません。
津田青楓「馬と牛」 個人蔵
65歳に終戦を迎えた青楓は、公的な仕事から一歩退き、友人たちと交流しつつ、自然の風景などを南画に描いては、書に没頭しました。そして1978年、老衰にて亡くなりました。98歳のことでした。
中央:津田青楓「其時声無」 制作年不詳
油彩、日本画、書と幅広い分野で功績を残した青楓の画業を辿るには、質量ともに申し分ない回顧展ではないでしょうか。作品に見入りつつも、時に時代に翻弄されつつも、自らの制作を切り開いた青楓の生き方にも大いに共感するものがありました。
多くの美術館が閉館の中 #練馬区立美術館 は現在通常通り開館しています!静寂の中 #津田青楓 の生涯に渡る作品をご覧いただけます。図案集などの細かい資料が集まった展示室も、1点1点じっくりと見ていただけます!ゆったりとした時間を過ごされてはいかがでしょうか?開館最新情報はHPでご確認を🙆♀️ pic.twitter.com/HVnttRGQZT
— 練馬区立美術館 (@nerima_museum) March 10, 2020
3月13日現在、通常通り開館していますが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、3月末までに開催予定の講演会などのイベントは中止となりました。
4月12日まで開催されています。おすすめします。
「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」 練馬区立美術館(@nerima_museum)
会期:2020年2月21日(金)~4月12日(日)
休館:月曜日。但し2月24日(月・休)は開館、翌25日(火)は休館。
時間:10:00~18:00 *入館は閉館の30分前まで
料金:大人1000(800)円、大・高校生・65~74歳800(700)円、中学生以下・75歳以上無料
*( )は20名以上の団体料金。
*ぐるっとパス利用で500円。
住所:練馬区貫井1-36-16
交通:西武池袋線中村橋駅より徒歩3分。
注)写真は特別鑑賞会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
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