嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

罰当たりなピンクの言説。

2007年03月20日 09時57分10秒 | 駄文(詩とは呼べない)
生についての言及や、性に関する事柄について考えていると
なんだかふつふつと、
いや、妙になんだかいらだたしい気持ちや
腹立たしい気持ちが込みあげてくるので
その妙ちくりんな怒りについて考えていて、

ふと、あることに行き当たった。

「僕は生きている事が恥ずかしい。」

これが、非常にややこしい命題をいくつも生み出している。

僕は家族が死んでも涙すら流さない
とても残酷な人間性を持っているのだけれど
葬式の時に喪服を嫌って私服を着てみたり
儀式を拒否して部屋に閉じ籠もってみたり、

まぁなんというか、とても罰当たりな人間っぽいのだけど
そうしたことはわりとどうでもよくて
つまるところ、家族の死なんて僕にとってはどうでもよくて
それについて考えていると何か時間を損しているような気分さえ湧いてくる。

たぶん、多くの人が家族の死を痛みとして受け取っているんだと思う。
けれど僕は、自分で選び取ったわけでも、勝ち取ったわけでもない、
気付いた時には既にそこに居た家族に、
いったいどんな感情で接して良いのか、
いまひとつよくわからない。

いま、またひとつ気になる事が浮かんだのだけれど
目上の人に対する敬語というのは
これととてもよく似ていて
訓練するまで、敬語の使い方も、それの必要性もわからない。
本質的には、自然な状態で、僕よりも前の時代を生きていた人に対して、
なぜ、尊敬の念を抱かなければならないのか、
まったく理解できない。

単純な話として、自分が生まれてきたことそのものに、
きちんと感謝していない人間が、
形式だけ人に合わせて感謝したフリを続けるというのは
なんだかとてもおかしな行為をしている
踊りか祭りの類のような気がするのだけど、
さりとて日常において自分の人生が受け身であることを
堂々と主張する行為というのも、
非常に人々の怒りを買いやすい。

…なぜか?

わからない。

なんでなのか、よくわからない。
僕の目には、かなり多くの人が、能動的に生きているのではなく、
受動的に日々の人生を惰性で、存続の延長として
「生きているフリ」
しているような気がしてならない。

それに比べると、部屋に閉じ籠もって鬱々とした日々を送っている人間の方が、
よっぽど自分に正直な在り方をしているように思える。
いや、思えてしまう、と書くべきなのか??

わからない、どうもよく、わからない。

正直さがなんなのかというのも、
最近なんだか混乱しててよくわからない感じになってきているのだけど
要するに僕の中から、生そのものに対する自信というのは
とうの昔に捨てられていて、

(なんだか生きているんだかどうだか、疑わしい)

というあたりから、存在に対する疑念が植え付けられ、
あるいは生じ、それが哲学的な領域に踏み込むことで
言い訳として言説化され、自分自身の説得のような形で思い込まれ、
結局のところデカルト的な言説はもはやとっくに崩壊してて、
信じられそうな神様もさしあたって居ないし、
さりとて荒廃と名付けられた世界の変化を目の当たりにしても
もはや感動すら湧いてこないとなると、
いよいよ自分の感性はあやういのではないか?

と、昭和的感慨にふけってしまう。

根本的な問題として、自分は愛し合う家族から生じた光ではなく、
惰性から生み出された闇だろう?
というのが二極化した時の答えみたいなもんで
ただ、ある種全体がグレーな空気に包まれているので
そうした言及を誰かに迫られることはほとんどない。

例えば初対面の人に
「あなたは愛し合う家族からきちんと生まれましたか?」
なんて聞いてくる奴もいないだろう。

で、ある種の洗脳されたハズの価値観から生み出される問題として
「誰かを愛する事ができない人間は死ね」
という、なかば暴力に近い圧力がじわじわと表出してくる。

これが、性に関する堕落と向き合う時に、
対立的に生じる自分の欲?(業?)として
分析はされるのだけど
これに関してもなんだかやっぱり自信は無く、
ほどなくもするとぐにゃぐにゃとしてくるのであったりなかったり。

それにしても今日の文体はずいぶんとぐにゃぐにゃしている。
自分でも愕くほどだ。
あーもう、なんていうか、やっぱりというかなんというか…

「せいに対する羞恥心」

これが、僕にとって心の壁なんだ。
そしてまた、乗り越える事を強要される世の中が、
なんだか哀しい。

もっと夢のように曖昧な肯定感があれば、
世界の輪郭は、破壊されるのだろうか?

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