「…逃げるなら今のうちだよ」
彼はこちらを斜めに見て こともなげにそう言った。
だけどどこへ逃げたらいいのだろう。
予感の色は明らかに黒ずんだどんより曇を呼び寄せていて
あたりの静けさはあとほんの少しの引き金がひかれるだけで
全てが崩壊してバラバラになるようなアンバランスさを醸し出していた。
それでも僕はそこに立ち止まって
こう一言告げるしかなかった
「僕はここにいるよ」
閉じられた空気はドアの隙間から流れ出ていく
目元や口元にかすかに窺い知ることの出来るわずかばかりのミクロな表情さえも
先入観や予感や偏見を持ってすれば
どう見たってそれは悪魔に近い微笑みだったと思う。
「…あんまり賢くないんだな」
それがどういう意味で発せられたのかは不透明なままだ
あるいは一つの断りの象徴として何かの一呼吸だったのだろうか
僕は後ずさる事も踏み込む事も許されず
ただその場に立ち尽くして寂しさに飲まれないように
強く強く立ち止まって
目の前にいるかどうかも疑わしい相手にこう言った
「僕は、、、まだわからないんだ」
彼はその言葉の輪郭をうっすらなぞるように確かめて
そして僕の眼前に、覗き込むような格好で顔を近づけてきた
「…それが君の理由?」
一瞬、キスされたのかと思った。
彼は唇の2ミリ手前の空気を切り裂いて静電気を起こしただけだった
そしてあらかじめ、何かを間違うことが無いように、吐き出すはずの何かを反芻し口をもにゃもにゃとやった。
やがて強い口調で言葉のナイフを突き刺した。
「君はいつだって何かを誤解している。だがそれは僕とて同じことだ。だけど僕は今何かを焦らず怒りながら確かめようと思う。
それは君の態度と関係がある。そしてそれは君に一つの大きな責任という枷を嵌め込む事にもなるかもしれない、
だが人というのはいつだって無責任である事は僕も承知している。それらを踏まえた上で、君を、君自身を確かめたいと思う。
…話を続けても、いいかな?」
僕には選択の余地はない。
話をする以外に、いったい今の僕に何が出来ると言うのだろう。
逃げる場所も無い、進む場所も無い、そして何よりも僕には知りたい事がある。
「たぶん、いいと思う」
彼は首を振って、ため息を漏らした。
「やっぱり君はわかってない。何もわかってない。君の瞳は人に何かを期待させる。それは君の罪だ。
その罪の源泉がどこにあるのかは僕にもわからない。だが、僕はどうしても君に聞いておきたい事がある。
それを確かめたい。今から聞く。君の言葉は信用できない、だから君の瞳に聞くことにする。
いいか、目線の動きだけは、嘘を吐けないぞ?」
鼓動が激しく時を刻み始めた。リズムを刻み始めた、いや、メロディーを奏で始めた。
今から死の狂想曲が始まる。命がけの追いかけっこが始まる。大運動会が始まる。
僕は捕まるのか、僕は捕まるのか、僕は捕まるのか――?
「君は本当に――が好きなのか?」
聞こえない、聴こえない、キコエナイ、何も聞かない、何も聴きたくない、ナニモキキタクナイ
僕は耳をふさいで、目を閉じて、口をつぐんで、息を止めて、じっと自分を押し殺して、そして――
――??
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