くだらないね、僕らが書いた言葉たちは。
多くの人たちから、レッテルを貼られて生きてきた。
そしてもちろん、僕もレッテルを貼り返して生きてきた。
どうせ評価なんて、好きか嫌いかなんて、
本当に大事な事から比べれば、
とてもつまらない線引きに過ぎないのに。
相手を遠くにおいて、引力が弱いとか、
相手を近くにおいて、引力が強いとか、
そんなこと、伝えたい事に比べれば
全然たいしたことじゃないのに。
どうして虫の羽音を、虫が鳴いている、というんだろう
どうして羽をこすり合わせた不思議な波動を、僕らは鳴き声というのだろう。
桜が散る音も、枯れ葉をこすりあわせた音も、
樹が鳴いているとは、言わないことの方が多いのに。
あの雨に似た鳴き声を、鳴き声と呼びたいのは、
そう呼びたいのは、僕らがそう思い込んでいるからでしょう?
枯れるように散ってゆく時の声を聞いて
泣いているように思うのは、僕らが悲しいからなのでしょう?
口を開いて、首をつたうような音を出すことがつらいなら
指を動かして、記号を重ねる事がつらいなら
空気を逆流させて振動を伝えることがつらいなら
象徴を練り合わせた、鼓膜の振動さえもつらいなら
もうなにも、書かなくていいし
見なくていいし
読まなくていいじゃないか。
ただその胸の内にある、圧迫したとどろきを
確かめればいいじゃないか!
だけど君は、その内側だけでなぞられる
不思議な声を聞きたいんじゃないの?
その声を聞いている間だけ、誰かが居るような気がするんじゃないの?
それが僕じゃないのなら、
君はいったいなんなのか。
それすらもわからなくて、
ただ生きて欲しいと願うなら、
もう僕の言葉も、君に残る僕の記憶も
やがて暴力と同じものになっていくよ
命令もお願いも要らない。
ただ自分のために、
遺書が書ければ、
それでいい。
そう思いながら
僕は僕の中に耳をすませる
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