嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

自分にやさしいのは可能性だけだろ。

2006年04月29日 17時50分07秒 | 駄文(詩とは呼べない)
「自分に優しくしなくちゃ」
という文化が嫌いだ。
そういう潮流が現に存在してるのかどうかも
いまひとつはっきりとした確信は無いのだが
やっぱりそういう流れを感じるたびにイライラしてくるほど
「自分に優しい」をテーマや象徴として掲げる人間が嫌いだ。

スタンドアロンに関する問題かもしれないが
どちらかと言えば倫理や戒律に関する問題であるように思う。

自分に優しい
地球に優しい
他人に優しい
人に優しい
世界に優しい

やさしいってなんだ?
と問い詰めたくなるほど
腐りきったやさしさがあふれ出している
溢れだし始めているのか、
あふれているのか
よくわからないが
とにかく邪魔くさい。

考える事から逃げることを正当化していると感じることもあるが
その人なりに悩んでいるフシもあるし
出来るだけその方向で考えない事が僕にとって大事かもしれない

ひとつに疑問だと感じることの多くを占めるのは
自分に優しいからと言ってそれが人に優しいとは限らないんじゃないか?
という疑問。

もうひとつは。

自分にやさしくしようと形質を変化させている制御そのものが
自然からの逸脱ではないかという疑問
不自然なスライドであるように思う。

自分にやさしくしたいんじゃなくて
自分に厳しくすることに耐えられないんじゃないのか?

他にも感じられるのはある種の偽善臭い言説が
うさんくささを伴ってその人達を包もうとする
天気と雰囲気に関わる問題でもあるのだけど。

まだある。

「自分にやさしい」
という言葉は他人や他者を想定してしまうように出来ていること
それ自体が問題であるように思う。

「重力にやさしい空間になりたい。」
という事をアピールする人はほとんど居ないだろうと思う。
いても、たぶん意味がよくわかってもらえないだろし
下手すると宗教か何かかと勘違いされかねない。
まぁ、その言葉をどう受け取るかなんて相手に任せればいいのかもしれないが
なんにせよ、やさしさも自分もわからない状態で言われる
手触りのないテジカラがグッっと掴み取っていくその領域は
ある種の幻想化された事実領域に過ぎない。

あえて僕は空に向かって言うけれど
やさしさも自分もまだここでは幻想に過ぎない。
やさしさなんて見たことも無いし
自分なんてどこにも居ないと。

それがわかっていてもなお、
僕はその問題と向き合わねばならない。
その事が、強制される空間へと変貌していくこと。

その事に対して、懐疑的にならざるを得ない。

別な見方をすれば
穿った見方で構えなければいけないほど
僕は外部と比べて歪んでいるのではないか?
ということ。

もっとも、正常化された世界
蒼き清浄の中に佇む青い碧い世界など、
どこにもありはしないのだとも思うけれど。

人に触れていたいと願う人が嫌いなわけじゃない
他人にやさしくしたいと念頭に置いてる人が駄目なわけじゃない

それでも。

他人のために自分の形質を変化させようと、
ギリギリまで自分を騙そうとする人は、多分嫌いだと思う。

あるいはそれが、僕にとって理解不可能な領域での
シンクロ派を出す物体と生物の中間色であるのか。

あるいはまた、僕が想定する人が不在であることへの、
自覚の放棄であるのか。

そのような潮流は存在していないのに、
僕がその流れを読み取り続けて涙が流れるのを待っているのか。

あるいはまた、僕こそが不在であることを
潮流に悟られるのが怖くて
じっと存在だけを願って僕がここで待っているのか。

そんなことはもう、たぶん君にとって聞き飽きた問題なんだろう。

僕が此処で語る言葉のほとんどがもう、
君にとって終わった問題なんだろう。

それが君の過去であればあるほど
それは君にとって他者の問題であり、
他人の問題に変わっていくのだろう。

僕はその事を、とてつもなく、かなしいと思わなければならないのか
悲しいと感じなければならないのか。
「悲しいという言葉を」かなしいと感じなければならないほどに、
僕の心は言葉によって洗脳され続けているのか。

僕はもう、言葉に逆らうことも心を覗き込むことも
自意識を探すことも諦めてしまった物体としての現象でしかないのか。

そのことについて、
僕はここで、誰かに問わずにはいられないほど
僕は僕自身の世界で不在であると書き残さねばならない。

それは、未来的な事実であるから。
どうしようもないほどに負け腐った 敗者の為のニセの論理であるから。

僕は、僕自身の力で、僕の死を僕の為に証明せねばならない。

それだけが、残り時間の砂を見つめる事を許された、
時計としての、暴力性であると思う。

時間が流れていないことを証明するのは
砂時計にとってとても困難な事であると思う。
それが不可能であると僕が書かないのは、
僕の一粒が砂に変わる可能性で、
君が読者になれる可能性で、
目撃者がいてこその目撃談であるかのように

僕たちを繋ぐ、一本の不在の感覚なのだと思う。

時が止まることを、
信じもせず、感じてしまう その事実を
誰かがどこかに書き残すこと
そのことを、流れる意識は感じ取ることができないのか。

それでもなお、意識は停止された空間に、
永遠を永遠としてだけ、他者のように感じ続ける幻なのか。

僕だけが、僕によって選ばれた神でしかないのか。

あるいはまた、信じ続けることによってのみ、
生は死の中に存在としてニセの有を有することで生まれるのか。

はたしてまた、僕は僕の中に、
君と居るかのような、遠い夢を見ることを許されるのか。
そのように、僕はいつもきっと、
ギリギリの自分の中にしか、身の置き場がないこと。

それ自体を、自分の中に閉じ込める。

儚くはない、と書くことで
つらさを誤魔化すことはできない

儚い、と書くことで
つらさと向き合うことは出来ない

ただ儚いのだ、と認めることで
僕は僕の不在を承認することは出来ない

それでもなお、
僕はきっとここに「儚い」と書くだろう。
それはきっと、僕によってしか、
あるいは君によってしか、
自体が事象として証明されないこと、
その事が持つ悲劇のひとつで。
湾曲に寄ってしか証明出来ない空間の形で。
それが、形質としての、意味としての、
仮想空間を生み出すのだと思う。

要するに、誤解こそが、君と僕の可能性であること
そのことに、想いを馳せながらも、
伝わらないことに、がっかりしながら明日を夢見る
そんな馬鹿げた生き方が、
君にとってある種の「生き方」で
それが僕にとっては「死に方」のひとつで。

いつまでたってもそれはひとつで
決して統合されて、圧死することはない。

事実が死をもたらすならば。
記録は何をもたらすだろう。

証明を?
正しき証明を?
数学的悟りを?
無限にひろがる閉鎖世界の極致を?
完全な可能性を?
広がる矛盾の苦痛を?

僕と共にある、君の誤解を?

いましがた、黄昏は憂鬱の中で繰り返される
どうとでもとれるような、
どうにでも解釈出来るような、
果てなく広がる無限のゴミ砂漠のような、
ただただどうしようもない言葉の羅列を
記号として、デジタルに読むことが出来たならば
アナログはデジタルの中で
圧死することもないのだろうよ。

厳しい言い方をすれば
僕の中に、「可能性はもう無い」

それだけが、僕の中で事実化され続けている
僕はもう、この世界では誰にも会えない。