
①戦争や震災をイデオロギーで読むだけでは俳句にならないのと同じように、日常生活を記録するだけでは俳句はできません。どちらも文学性をどう獲得するかということ。
②言葉遣いがメチャクチャな投句も。俳句以前の問題です。
③「六月の厨に並ぶ瓶の数」なら散文。散文にならないように。
ネット俳句の選があった。
最初に書かれている言葉。
ホホ、思い至っている。
② の言葉遣いがメチャクチャな投句も。俳句以前の問題です。
私が投句した一句であることが。 すみません。反省。 🙇
> 美味そうな杏ひとつ落ちてこないかな
俳句もすべて今の私は自信を失っていると云うべきか、それが普通であることから投句する句が無かった、出来なかった。破れかぶれというか 美味そう、、、なぞと心で思つった事をそのまま直裁に、、、投句をした。
栗林公園の入り口の近くの「伝統工芸館」の前に 杏 の木が二~三本あり、その木に今を盛りと杏が熟れている。
杏が好きな私はそれがまことに美味しそうに見えた。
これぞ三尺の童が作る句。子供が読んでも解ると 屁理屈を言っている私。
まあ失敗と云うより 私の才能はこれ以上これ以下のものでしかない。
先生、あきれるより我が弟子にこんな手合いがいると考えると腹がたっただろう、きっと。いくら指導をしても、、と哀しくなっただろう。
三句、投句をして、二句が没。注意をされた杏が美味そうと、もう一句。
残る一句が特選になっていた。
いつも、栗林公園で作った句は、選にひっかかる。私にとって公園は、相性の良い吟行地である。
青葉木菟を見に行って、拾った句。
昨日の私は反省と喜びのない交ぜの ネット句会の選であった。