永瀬正敏さんは、時代劇の「隠し剣・鬼の爪」で、渋い侍役を演じていたので注目していた俳優でした。レンタルや図書館から借りたりして、これまで数回観ましたが、正直言って、共演の松たか子の方を観たかったので時々借りてました。しかし、夕べ今回の台湾旅行でお土産に買ってきた、「KANO」を観て、当時より彼に対する評価が一気に倍増しました。
台湾で評判がよかった映画だと何かで見たので、ダメもとでかったDVDでしたが、いやいやなかなかいい映画でしたよ。184分という長編映画が、中間の休憩もなしでもその長さを感じさせないストーリー展開と編集でした。しかも、ほとんど前編が日本語で、中国語の字幕が付くという、面白い台湾映画でした。
最初、それを聞いたとき、なぜ台湾映画なのにセリフのほとんどが日本語なのかと思いましたが、台湾が日本統治時代の話で、当時は韓国でもパラオでも同じだったように、日本語教育が徹底していたためで、何も日本上映を念頭にセリフを日本語に設定したわけではなかったのです。
日本統治時代とは、1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間で、映画はその間の1931年(昭和6年)の出来事を扱ったものです。KANOとは嘉義農林学校、略して「嘉農」をアルファベット書きしたもので、野球のユニフォームにKANOと縫い付けてあります。嘉義とは、台湾の南西(地図の左下の方)に存在する町の名前で、肥沃な平野部に今でも存在します。
去年、台湾でこの映画が公開されたときは、映画館に行列ができ、満員で入場できない映画館もあったほど、熱狂的な人気を博し、3時間を越す長編にもかかわらず、エンディングテーマが出ても観客からの拍手は止まず、総立ちとなってスタンディングオベーションを送ったそうです。
一体何が受けたのか。日本統治時代に育った年配者に受けたのか。ところが観客の多くは若者で、涙をすすりながら観るカップルがたくさん見られたようです。当時の嘉義農林学校は、日本人が20%、台湾人が75%、アミ族など原住民が5%という構成で、当時の満州、朝鮮と同じように同化主義に基いた教育が行われていました。
しかし、野球の実力では台湾北部にある日本人中心の学校には歯が立たず、実力の差は歴然としていたようです。そんな時嘉義に赴任してきたのが永瀬正敏演ずる近藤兵太郎でした。近藤は四国・愛媛の名門、松山商業出身で簿記の教師として家族と共に台湾に渡ってきたのです。
彼の経歴に注目した嘉義農林野球部は、野球部を彼に託し、それに答えて嘉義農林は台湾大会で優勝し、本土の甲子園大会に台湾代表として出場したのです。ここまででも十分盛り上がりましたが、映画はここからが面白いところです。途中、台湾人なら誰でも知っている、八田與一も登場しています。
八田與一の名前を知らない日本人はたくさんいるでしょうが、彼の名前を知らない台湾人は恐らくいないというくらい、台湾では有名な日本人です。1910年に東大の工学部土木科を卒業して、台湾に渡ってから水利事業で実績を上げ、当時旱魃に悩まされていた嘉義のある嘉南平野に、当時東南アジア最大の烏山頭ダムを始めとする「嘉南大圳(しゅう)」と呼ばれる大灌漑水路を張り巡らせ、畑を水田に換えて農業生産を飛躍的に増大させる大貢献を果たしました。
昭和6年、第17回全国中学校優勝野球大会に出場した嘉義農林は、予想を覆して強豪校を次々に倒し、何と決勝まで進出してしまいます。それまで無名だった嘉農は日本人の多くに感銘を与え、甲子園は観客で溢れかえります。
決勝ではそれまでの連投が影響して、エース呉投手の右手人差し指の爪が割れて出血し、愛知・中京商業に完封負けをして、台湾に優勝旗を持ち帰ることは出来ませんでした。
台湾に帰る船上で、野球に興じるところ、呉投手が近藤監督に話かけます。「監督、帰ったら大勢で出迎えてくれるのか、がっかりした人達を見るのか、どちらでしょうね。」 すると、近藤監督は応えます。「きっと、見渡す限り、風にたなびく黄金の稲穂が迎えてくれるさ。」
一瞬、放心状態になりそうなくらい、すばらしいラストでした。
台湾で評判がよかった映画だと何かで見たので、ダメもとでかったDVDでしたが、いやいやなかなかいい映画でしたよ。184分という長編映画が、中間の休憩もなしでもその長さを感じさせないストーリー展開と編集でした。しかも、ほとんど前編が日本語で、中国語の字幕が付くという、面白い台湾映画でした。
最初、それを聞いたとき、なぜ台湾映画なのにセリフのほとんどが日本語なのかと思いましたが、台湾が日本統治時代の話で、当時は韓国でもパラオでも同じだったように、日本語教育が徹底していたためで、何も日本上映を念頭にセリフを日本語に設定したわけではなかったのです。
日本統治時代とは、1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間で、映画はその間の1931年(昭和6年)の出来事を扱ったものです。KANOとは嘉義農林学校、略して「嘉農」をアルファベット書きしたもので、野球のユニフォームにKANOと縫い付けてあります。嘉義とは、台湾の南西(地図の左下の方)に存在する町の名前で、肥沃な平野部に今でも存在します。
去年、台湾でこの映画が公開されたときは、映画館に行列ができ、満員で入場できない映画館もあったほど、熱狂的な人気を博し、3時間を越す長編にもかかわらず、エンディングテーマが出ても観客からの拍手は止まず、総立ちとなってスタンディングオベーションを送ったそうです。
一体何が受けたのか。日本統治時代に育った年配者に受けたのか。ところが観客の多くは若者で、涙をすすりながら観るカップルがたくさん見られたようです。当時の嘉義農林学校は、日本人が20%、台湾人が75%、アミ族など原住民が5%という構成で、当時の満州、朝鮮と同じように同化主義に基いた教育が行われていました。
しかし、野球の実力では台湾北部にある日本人中心の学校には歯が立たず、実力の差は歴然としていたようです。そんな時嘉義に赴任してきたのが永瀬正敏演ずる近藤兵太郎でした。近藤は四国・愛媛の名門、松山商業出身で簿記の教師として家族と共に台湾に渡ってきたのです。
彼の経歴に注目した嘉義農林野球部は、野球部を彼に託し、それに答えて嘉義農林は台湾大会で優勝し、本土の甲子園大会に台湾代表として出場したのです。ここまででも十分盛り上がりましたが、映画はここからが面白いところです。途中、台湾人なら誰でも知っている、八田與一も登場しています。
八田與一の名前を知らない日本人はたくさんいるでしょうが、彼の名前を知らない台湾人は恐らくいないというくらい、台湾では有名な日本人です。1910年に東大の工学部土木科を卒業して、台湾に渡ってから水利事業で実績を上げ、当時旱魃に悩まされていた嘉義のある嘉南平野に、当時東南アジア最大の烏山頭ダムを始めとする「嘉南大圳(しゅう)」と呼ばれる大灌漑水路を張り巡らせ、畑を水田に換えて農業生産を飛躍的に増大させる大貢献を果たしました。
昭和6年、第17回全国中学校優勝野球大会に出場した嘉義農林は、予想を覆して強豪校を次々に倒し、何と決勝まで進出してしまいます。それまで無名だった嘉農は日本人の多くに感銘を与え、甲子園は観客で溢れかえります。
決勝ではそれまでの連投が影響して、エース呉投手の右手人差し指の爪が割れて出血し、愛知・中京商業に完封負けをして、台湾に優勝旗を持ち帰ることは出来ませんでした。
台湾に帰る船上で、野球に興じるところ、呉投手が近藤監督に話かけます。「監督、帰ったら大勢で出迎えてくれるのか、がっかりした人達を見るのか、どちらでしょうね。」 すると、近藤監督は応えます。「きっと、見渡す限り、風にたなびく黄金の稲穂が迎えてくれるさ。」
一瞬、放心状態になりそうなくらい、すばらしいラストでした。
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