孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

似て非なる食文化

2016年01月30日 | グルメ
産経新聞に海外特派員の伝える「外信コラム」があって、いつも楽しみにしている。

南朝鮮の特派員のコラムは、「ソウルからヨボセヨ」というタイトルで、南朝鮮の文化を様々なエピソードを交えて伝えてくれる。彼の国が距離的に近く、見た目も似たような連中なのに、如何に我々とは異なる生き物かが分かって面白い。

今週のそれは、焼き魚の食べ方についてであった。ソウルの名村特派員が同僚となじみの食堂に行き、焼き魚を食べるのを見て、店の主人が「まるで魚の解剖だ。」と言って驚くのだった。



我々日本人は、小さい頃から「残さず全部きれいに食べなさい。」と躾けられるものだ。特に秋刀魚などは頭と骨と尻尾だけを残して、すべて食べつくすのが極普通の食べ方だ。これは、誰に習うわけでもなく、いつの間にか自然に身につく習性だと思う。

しかし、数年前シンガポールに赴任していたとき、私も良く目にしたが、日本人特有の文化のようだ。

シンガポール高島屋の地下にある、日本の水産会社が出している魚料理の食堂で、昼食によく秋刀魚定食を食べたが、地元の客の食べた後は、まるでまだ箸を旨く使いこなせない幼稚園児が食べ散らかしたようで、見るたびに何だか自分が誇らしく感じたものだった。

名村特派員のコラムによると、南朝鮮では、残すことが美徳とされるそうだ。

『きれいに平らげることは「料理が足りない」と受け取られ、むしろ接待してくれた相手には失礼にあたるのだ。骨だけきちんと残して食べて、もてなしてくれた韓国人からけげんな顔をされた日本人の知人もいる。よって、韓国人から食事の接待を受ける場合は、必ず意図的に“品良く残す”ようにしている。』

怖いものしらずだった若いとき、私も数ヶ月間出張で南朝鮮に滞在した事があるが、これは寡聞にして耳にしたことがなかった。

当時、私は朝鮮語など話せずとも、英語を話せれば何とかなるだろうと高をくくっていたところ、滞在した晋州という田舎町では英語などまったく通じなくて、冷や汗をかいたものだった。

昼食など、田舎町の小さな食堂に行くのだが、一人ではまったく注文などできず、他の客の食べている料理を適当に指をさして、「これ下さい。ひとつ。」と人差し指を立てたものだった。

テーブルで待っていると、キムチを盛った小皿がいくつもテーブルに並び始め、「ちょっと待って、これは注文してません!いらない!いりません!」と、慌てて身振り手振りで訴えたのだったが、運んでいるおばさんはニコニコするだけで、見事にテーブル一面に小皿をならべたのだった。



後でしったのだが、小皿のキムチはすべてサービスで、無料だった。最後に汁なし坦々麺のようなウドンのような私が指差しで注文した料理が運ばれてきて安心したのだが、出されたキムチはほとんど手付かずだった。

今思えば、残したのが正解だったのかもしれない。

さて、名村特派員のコラムに戻ろう。

『魚の骨とヒレだけが残った皿を見て、店主は「芸術的だ」とも言った。「食べ物は作った人の血と汗。日本では残してはいけないと親から教育を受けるのです」と説明したら、「残飯も減る。学ぶべきだ」と素直に感心していた。』そうだ。

実際、南朝鮮の残飯の量は非常に多く、社会問題になっているそうだ。

『作る側の店主は「料理した者の血と汗を粗末にしてはいけない」という考え方にも、いたく感動していたようだ。』と、コラムは終わっていた。

ところで、きれいに食べた焼き魚を見て、店主は「芸術的だ。」と言ったそうだが、南朝鮮人たちの美的センスを私は当時からいかがわしく感じていたものだった。

それは、「ビビンバ」という料理をたべたときだった。



現地のスタッフと一緒に入った食堂で、同じものを注文して、出された料理を見たときは、正直に「うまそうだ!」と思ったものだった。しかし、一緒に行った彼は、朝鮮独特の食器であるステンレスの柄の長いスプーンを持って、きれいに並べられた具材をグチャグチャに混ぜ始めたのだった。



そして、私にも同じようにやれと目で指図した。卵の黄身をスプーンで潰して他の具材やその下のご飯と混ぜる。それも、とことん混ぜるのだ。

もう十分混ぜたからこの辺でいいだろと思い、手を止めると、彼はまだダメだ、もっと混ぜるのだと目で合図する。

なんでも、『ビビンバ』とは「混ぜるご飯」という意味なのだそうだ。セメントを練る如く、もう嫌になるほど混ぜた。



元のきれいでおいしそうだった料理が悲惨な残飯のような、まるで家畜の餌のような体裁に様変わりし、食欲も少し失せたのだった。

日本の料理屋で、もしチラシ寿司をこんな風にぐちゃぐちゃに混ぜたとしたら、周りの客はきっと私を精神病でも患っているものと勘違いするに決っている。

似たように見えても、南朝鮮の食文化は、我々のそれとは異なるものだと痛感させられた。


気になる元小結

2016年01月30日 | 日記
英語名、Dancing Ocean と聞いてすぐ分かる方は相当な相撲通だろう。

ダンスィング・オーシャン、踊る海・・・。 そう、元小結・舞の海秀平のことである。

お笑い番組で、「ぶらり、途中下車の旅」のレポーターをする舞の海のモノマネを得意とするお笑いタレントを見て、実際に本物はどうなのかと、土曜日の「ぶらり・・」を見てみると、モノマネ通りだったので、ひとりでバカ受けした事があった。



それ以来、私の中では、舞の海はちょっと気になる「タレント」程度であったが、先日大相撲初場所を見ていたとき、解説者でゲスト出演していたので、そのまま注意して見ていた。

千秋楽、白鵬が日馬富士に立ち合い変化からの上手投げであっさりと敗れたとき、実況アナウンサーが、初場所の横綱白鵬の終盤の取り組みに関して、向正面解説の舞の海にコメントを促した。



すると、彼はズバリとこう解説したのだった。

『ケガとかそういうことではなく、気力が少し衰えているのかなと、モチベーション下がっているのかなと。もしかすると、この白鵬の目標というのは優勝とは違ったところに向かっているのかもしれないですね。』

アナウンサーが、「どういうことか?」と聞くと・・・

『引退後のことですよね。そういうことも少しチラついてきているのかなと思ったりもしますよね……。』

正面解説者の北の海が、舞の海の発言を軽く咎めたのだが、確かに終盤の数日の横綱白鵬の相撲は、まったく迫力がなくて興ざめするものだったので、私は舞の海に同感であった。

舞の海 秀平、本名・長尾秀平は青森県出身の出羽海部屋所属の元小結で、初土俵は1990年。約9年間、小兵力士の代表格としてファンを魅了して引退し、現在はCMやレポーターなどをするタレント業を生業としているようだ。

初場所が終わった次の日の産経新聞朝刊に『舞の海の、相撲俵論』というタイトルのコラムが出ていたので、興味深く読んだ。

原稿用紙4枚程度のコラムだったが、なかなか文才があるようで、リズム感のある鋭い切り口を感じさせる文章だった。

その内容は、大関稀勢の里のふがいなさを咎めて、彼の弱点を開設し、更なる奮起を促すものだった。

『初場所千秋楽。琴奨菊が初優勝を決め、客席で両親が涙を流しながら手をふるわせている姿を見たか。そして、ふるさと柳川の歓喜する様子を。・・』

『・・稀勢の里の地元・茨城からやってきたオレンジのはっぴ姿の応援団を見ると、いつも胸が詰まる。あの人たちは稀勢の里の初優勝を信じて一心に応援を続けている。そこに何を感じ、どう取り組まなければならないのか。』

『残された時間は多くはないが、今からでも遅くない。』

表現は辛辣だが、それだけに舞の海の稀勢の里に対する真剣な想いが、行間から伝わってくるコラムだった。もしかすると、それは稀勢の里を代表とする日本人力士全員に対する舞の海のエールだったのかもしれない。



現役時代の舞の海は、「平成の牛若丸」、「技のデパート」の異名で親しまれた力士だった。得意技は、内無双、切り返しなどで、当時小錦や曙、武蔵丸といった超大型力士の多かった中で、異色だがキラリと光る小兵力士だった。



中でも強烈に印象に残る相撲は、1991年11月場所の「牛若丸と弁慶」の戦いと呼ばれる曙との一番だった。

舞の海は、何とかして曙を負かそうと、数ヶ月前から綿密に作戦を練っていたという。それまでの舞の海は、正攻法に立ち会っては、曙の巨体に跳ね返され、歯が立たなかった。まともに戦っては到底勝てる相手ではない。

出羽海部屋の同僚力士達の助言や協力を得て作戦を練り直し、稽古場の片隅にあぐらをかいて、しきりに首をひねっている舞の海の姿があったという。

場所前の曙との稽古のときは、いつもまともに正面からぶつかっていき、わざと跳ね返されてはボロ負けしていたそうだ。何番も何番も胸を出して立ち会って、曙のもろ手突きに吹っ飛ばされ、まるで相手にならない印象を植え付けようと努めたのだった。

そして、ついに来た本場所の一番。舞の海は稽古のときと同じように胸を出して立ち会った・・・と見せかけた。



胸を出して立ち会ったその瞬間だった。予想通り曙が突き出してきたもろ手の下をくぐって、舞の海は曙の腰に喰らいついた。





舞の海は左下手を差すと左足を曙の右足に絡め、右手で曙の左ももを抱えた。さらに頭で曙の胸を押す「三所攻め(ミドコロ攻め)」でバランスを崩し最後は内掛けで倒した。



部屋の親方は普通、立会いは頭で当たって、前に出ろと指導するものだが、出羽海部屋の師匠、元横綱佐田の山は違った。

舞の海にだけは「技は何をしても良い。好きなようにやれ」と異例の許しを出し、立合いのぶつかりも強要しなかったという。

この出羽海親方は相撲協会理事長に就任し、フランスのシラク大統領との約束を果たすために大相撲パリ公演を断行した。1995年秋のことだった。

時あたかも同年9月に南太平洋ムルロア環礁で地下核実験をやってのけ、フランスは世界の非難を浴びつつあった。大相撲のパリ公演を中止せよ、という平和団体らの強い抗議を押し切ってパリ公演を実行した出羽海理事長のことを、当時現役力士として同行した舞の海が語っている。

『晩餐会の席上、大統領シラクさんに面と向かってこう挨拶したんです。“世界で唯一の被爆国民である日本人の一人として、核実験はまことに遺憾なことと思います。中止されることを心からお願いします”と。』

『師匠は、晩餐会の挨拶を徹夜で考え、この挨拶の所為で外交問題にでもなったら、理事長を辞任する覚悟だった、と言っていた。』そうで、舞の海はこれを知って思わず唸ったそうだ。

『当のシラク大統領は、何も答えなかったが、何度も何度もうなずいていましたよ。でも、これがいうべきことはいう友好の外交じゃないですかね。』

「私はね、友達が嫌がることはしないんです。」と言った能無し首相が日本にはかつていたが、舞の海にはああいう首相は我慢できなかったであろう。

連合艦隊指令長官、山本五十六の語録に、「やってみせ、云って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という名言がある。

これに、「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」、そして、「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」と名言はつづく。

今日の舞の海は、山本五十六の言葉を実践したような元横綱佐田の山の出羽海親方の指導の賜物のような気がする。

バッグを肩に掛け、途中下車の旅をする今の舞の海は、身長169cm、体重85kgだそうだ。新弟子検査の当時の規定173cmをクリアするため、頭皮の下に袋を埋め込み、シリコンを注入して検査をパスしたそうだ。

身長も体重も、舞の海とほぼ同じでおまけに血液型まで同じ所為か、私は舞の海のファンになったようだ。

今朝、早速アマゾンで彼の著書を1冊注文した。