産経新聞に海外特派員の伝える「外信コラム」があって、いつも楽しみにしている。
南朝鮮の特派員のコラムは、「ソウルからヨボセヨ」というタイトルで、南朝鮮の文化を様々なエピソードを交えて伝えてくれる。彼の国が距離的に近く、見た目も似たような連中なのに、如何に我々とは異なる生き物かが分かって面白い。
今週のそれは、焼き魚の食べ方についてであった。ソウルの名村特派員が同僚となじみの食堂に行き、焼き魚を食べるのを見て、店の主人が「まるで魚の解剖だ。」と言って驚くのだった。
我々日本人は、小さい頃から「残さず全部きれいに食べなさい。」と躾けられるものだ。特に秋刀魚などは頭と骨と尻尾だけを残して、すべて食べつくすのが極普通の食べ方だ。これは、誰に習うわけでもなく、いつの間にか自然に身につく習性だと思う。
しかし、数年前シンガポールに赴任していたとき、私も良く目にしたが、日本人特有の文化のようだ。
シンガポール高島屋の地下にある、日本の水産会社が出している魚料理の食堂で、昼食によく秋刀魚定食を食べたが、地元の客の食べた後は、まるでまだ箸を旨く使いこなせない幼稚園児が食べ散らかしたようで、見るたびに何だか自分が誇らしく感じたものだった。
名村特派員のコラムによると、南朝鮮では、残すことが美徳とされるそうだ。
『きれいに平らげることは「料理が足りない」と受け取られ、むしろ接待してくれた相手には失礼にあたるのだ。骨だけきちんと残して食べて、もてなしてくれた韓国人からけげんな顔をされた日本人の知人もいる。よって、韓国人から食事の接待を受ける場合は、必ず意図的に“品良く残す”ようにしている。』
怖いものしらずだった若いとき、私も数ヶ月間出張で南朝鮮に滞在した事があるが、これは寡聞にして耳にしたことがなかった。
当時、私は朝鮮語など話せずとも、英語を話せれば何とかなるだろうと高をくくっていたところ、滞在した晋州という田舎町では英語などまったく通じなくて、冷や汗をかいたものだった。
昼食など、田舎町の小さな食堂に行くのだが、一人ではまったく注文などできず、他の客の食べている料理を適当に指をさして、「これ下さい。ひとつ。」と人差し指を立てたものだった。
テーブルで待っていると、キムチを盛った小皿がいくつもテーブルに並び始め、「ちょっと待って、これは注文してません!いらない!いりません!」と、慌てて身振り手振りで訴えたのだったが、運んでいるおばさんはニコニコするだけで、見事にテーブル一面に小皿をならべたのだった。
後でしったのだが、小皿のキムチはすべてサービスで、無料だった。最後に汁なし坦々麺のようなウドンのような私が指差しで注文した料理が運ばれてきて安心したのだが、出されたキムチはほとんど手付かずだった。
今思えば、残したのが正解だったのかもしれない。
さて、名村特派員のコラムに戻ろう。
『魚の骨とヒレだけが残った皿を見て、店主は「芸術的だ」とも言った。「食べ物は作った人の血と汗。日本では残してはいけないと親から教育を受けるのです」と説明したら、「残飯も減る。学ぶべきだ」と素直に感心していた。』そうだ。
実際、南朝鮮の残飯の量は非常に多く、社会問題になっているそうだ。
『作る側の店主は「料理した者の血と汗を粗末にしてはいけない」という考え方にも、いたく感動していたようだ。』と、コラムは終わっていた。
ところで、きれいに食べた焼き魚を見て、店主は「芸術的だ。」と言ったそうだが、南朝鮮人たちの美的センスを私は当時からいかがわしく感じていたものだった。
それは、「ビビンバ」という料理をたべたときだった。
現地のスタッフと一緒に入った食堂で、同じものを注文して、出された料理を見たときは、正直に「うまそうだ!」と思ったものだった。しかし、一緒に行った彼は、朝鮮独特の食器であるステンレスの柄の長いスプーンを持って、きれいに並べられた具材をグチャグチャに混ぜ始めたのだった。
そして、私にも同じようにやれと目で指図した。卵の黄身をスプーンで潰して他の具材やその下のご飯と混ぜる。それも、とことん混ぜるのだ。
もう十分混ぜたからこの辺でいいだろと思い、手を止めると、彼はまだダメだ、もっと混ぜるのだと目で合図する。
なんでも、『ビビンバ』とは「混ぜるご飯」という意味なのだそうだ。セメントを練る如く、もう嫌になるほど混ぜた。
元のきれいでおいしそうだった料理が悲惨な残飯のような、まるで家畜の餌のような体裁に様変わりし、食欲も少し失せたのだった。
日本の料理屋で、もしチラシ寿司をこんな風にぐちゃぐちゃに混ぜたとしたら、周りの客はきっと私を精神病でも患っているものと勘違いするに決っている。
似たように見えても、南朝鮮の食文化は、我々のそれとは異なるものだと痛感させられた。
南朝鮮の特派員のコラムは、「ソウルからヨボセヨ」というタイトルで、南朝鮮の文化を様々なエピソードを交えて伝えてくれる。彼の国が距離的に近く、見た目も似たような連中なのに、如何に我々とは異なる生き物かが分かって面白い。
今週のそれは、焼き魚の食べ方についてであった。ソウルの名村特派員が同僚となじみの食堂に行き、焼き魚を食べるのを見て、店の主人が「まるで魚の解剖だ。」と言って驚くのだった。
我々日本人は、小さい頃から「残さず全部きれいに食べなさい。」と躾けられるものだ。特に秋刀魚などは頭と骨と尻尾だけを残して、すべて食べつくすのが極普通の食べ方だ。これは、誰に習うわけでもなく、いつの間にか自然に身につく習性だと思う。
しかし、数年前シンガポールに赴任していたとき、私も良く目にしたが、日本人特有の文化のようだ。
シンガポール高島屋の地下にある、日本の水産会社が出している魚料理の食堂で、昼食によく秋刀魚定食を食べたが、地元の客の食べた後は、まるでまだ箸を旨く使いこなせない幼稚園児が食べ散らかしたようで、見るたびに何だか自分が誇らしく感じたものだった。
名村特派員のコラムによると、南朝鮮では、残すことが美徳とされるそうだ。
『きれいに平らげることは「料理が足りない」と受け取られ、むしろ接待してくれた相手には失礼にあたるのだ。骨だけきちんと残して食べて、もてなしてくれた韓国人からけげんな顔をされた日本人の知人もいる。よって、韓国人から食事の接待を受ける場合は、必ず意図的に“品良く残す”ようにしている。』
怖いものしらずだった若いとき、私も数ヶ月間出張で南朝鮮に滞在した事があるが、これは寡聞にして耳にしたことがなかった。
当時、私は朝鮮語など話せずとも、英語を話せれば何とかなるだろうと高をくくっていたところ、滞在した晋州という田舎町では英語などまったく通じなくて、冷や汗をかいたものだった。
昼食など、田舎町の小さな食堂に行くのだが、一人ではまったく注文などできず、他の客の食べている料理を適当に指をさして、「これ下さい。ひとつ。」と人差し指を立てたものだった。
テーブルで待っていると、キムチを盛った小皿がいくつもテーブルに並び始め、「ちょっと待って、これは注文してません!いらない!いりません!」と、慌てて身振り手振りで訴えたのだったが、運んでいるおばさんはニコニコするだけで、見事にテーブル一面に小皿をならべたのだった。
後でしったのだが、小皿のキムチはすべてサービスで、無料だった。最後に汁なし坦々麺のようなウドンのような私が指差しで注文した料理が運ばれてきて安心したのだが、出されたキムチはほとんど手付かずだった。
今思えば、残したのが正解だったのかもしれない。
さて、名村特派員のコラムに戻ろう。
『魚の骨とヒレだけが残った皿を見て、店主は「芸術的だ」とも言った。「食べ物は作った人の血と汗。日本では残してはいけないと親から教育を受けるのです」と説明したら、「残飯も減る。学ぶべきだ」と素直に感心していた。』そうだ。
実際、南朝鮮の残飯の量は非常に多く、社会問題になっているそうだ。
『作る側の店主は「料理した者の血と汗を粗末にしてはいけない」という考え方にも、いたく感動していたようだ。』と、コラムは終わっていた。
ところで、きれいに食べた焼き魚を見て、店主は「芸術的だ。」と言ったそうだが、南朝鮮人たちの美的センスを私は当時からいかがわしく感じていたものだった。
それは、「ビビンバ」という料理をたべたときだった。
現地のスタッフと一緒に入った食堂で、同じものを注文して、出された料理を見たときは、正直に「うまそうだ!」と思ったものだった。しかし、一緒に行った彼は、朝鮮独特の食器であるステンレスの柄の長いスプーンを持って、きれいに並べられた具材をグチャグチャに混ぜ始めたのだった。
そして、私にも同じようにやれと目で指図した。卵の黄身をスプーンで潰して他の具材やその下のご飯と混ぜる。それも、とことん混ぜるのだ。
もう十分混ぜたからこの辺でいいだろと思い、手を止めると、彼はまだダメだ、もっと混ぜるのだと目で合図する。
なんでも、『ビビンバ』とは「混ぜるご飯」という意味なのだそうだ。セメントを練る如く、もう嫌になるほど混ぜた。
元のきれいでおいしそうだった料理が悲惨な残飯のような、まるで家畜の餌のような体裁に様変わりし、食欲も少し失せたのだった。
日本の料理屋で、もしチラシ寿司をこんな風にぐちゃぐちゃに混ぜたとしたら、周りの客はきっと私を精神病でも患っているものと勘違いするに決っている。
似たように見えても、南朝鮮の食文化は、我々のそれとは異なるものだと痛感させられた。