名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

自分を供養する。

2014-10-02 | 宗教



人間死んだら 無 になるのか?
死後の世界はないのか?
霊魂 など存在しないのか?
・・・・・・・・・・
魂 と 霊 は別物
この二つを区別しないと、何も見えてこない。

人間には ‘ 心  ‘ がある
‘ 心 ‘ とは言い換えれば ‘ 想い ‘
想い とは、 
哀しいとか、嬉しいとか、腹が立つとか、悔しいとか・・・

そういった人間の内部で発生する エネルギー
このエネルギー 即ち  「 魂  」

ならば、霊 とは何か?
「 霊 」とは
 永遠不滅のエネルギー

人間の本体は 「 霊 」そのもの
「 霊 」は神と一体であり、仏の分身でもある。
神の姿は、は完全にして円満。


人間の 想い はいつかは変わる。
腹が立っていても、悲しくても、
何かのキッカケがあれば、それは一瞬にして消えてしまう

霊 は永遠不滅のエネルギーであるから
魂のように、あるときは 喜び、あるときは悲しみ、
又、あるときは怒る・・・
そんな不安定なものではない。

霊 は常に極楽浄土の中に存在し
法悦に満たされ、静かに、安らかに存続し続ける。
この、霊こそが 「 人間の本質 」 
これこそが、「 絶対的な因果 」

霊魂 と言う言葉は
便宜的その言葉を使っているだけで
霊 と 魂 をごちゃ混ぜにした単語。

人間は死ぬと 「 霊 」 と 「 魂 」 に分離する。

無念な思いを残して死んで行った人が 幽霊 となったり
怨念となって災いを及ぼすとかいった話を耳にします。
これは、死んだ人の 魂 が起こす現象です。

でも・・・もっと追求するなら・・・
死んだ人の魂より怖いものがある。

それは、
「 生きている人間の魂 」
強い憎しみ、怨み、悲しみ、後悔、不平不満、怒り、
こう言った 念 を持ち続けると、
その念を発した 本人の周りを、「 魔物のようなもの 」
が取り囲む。

この 「 魔物 」とは、自分の外からやって来るものではなく、
「 自分の内 」からやって来る。

でも、これは、実在するものではない。
魔物の存在は 「 事実 」
これが見える人には、見えることもある。

でも、 これは「 真実 」ではない。

魔物とは、その人の 念 ( 魂 )
が作り出した蜃気楼のようなもの。
「 無いものが、あるかのごとく見えたり、悪影響を及ぼす。」
これは 「 事実 」

これは人間の心が作り出した 
虚像(迷い) であり 『 迷いは無い 』
これが 「 真実 」
真実 と 事実 この二つを混同してはいけない。

これは、先に述べた
「‘霊‘ と ‘魂‘ を混同してはいけない 」
という理屈とよく似ている。

厄介な事に・・・・
魔物の根源は、自分の魂であるにも関わらず、
自分の意思とは離れた「 別人格のような」
振る舞いをする。

即ち、自分が作り出した魔物が、
自分に害を与えるような悪さをする。

苦しむ魂が想いを入れ替えれば
ニコヤカになる時も来る。

でも、もう一方の 霊 は
終始一貫して 安らかで、平和なエネルギーしか発していない
それ故、死んだと同時に極楽浄土に行く

供養とは、先祖の ‘ 魂 ‘を安心させ
‘ 霊  ‘に対して 畏敬の念を送る こと。
先祖がニコヤカになると、
自分もニコヤカになる。
なぜなら、‘あの世‘ と ‘この世‘ は別の場所にある訳ではないからだ、

‘あの世‘と、‘この世‘ は今現在、同じ場所で、同時進行している。

更に突き詰めれば・・・
生きている人間にも、霊魂が宿る。

自分で自分の霊魂を供養する必要がある。
これを 私は「 自分供養 」 と呼ぶ。

自分を供養する方法は?

自分を、深い意味で喜ばすこと。
深い喜びとは?

ひとが喜べば自分も嬉しい。
殺されそうになっている生命を、救済できたなら、
自分も嬉しい・・・

これが、自分を供養すること。

当然の事ながら・・・
自分を供養すのは、「自分自身」
それ以外の方法はありえない。

自分自身の内なる声を聞こうとせず、
それを偽ることは、
自分の内に宿る ‘ 霊‘ を隠蔽することである。


 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ミミズを半分に切ったら・・・ | トップ | 意味などありません »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宗教」カテゴリの最新記事