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before dawn

青年海外協力隊でトンガにて活動、インドの大学で教壇に立つなどしていましたが今は母国で働いています。笑うことが一番大事。

エウアを去った日のこと

2008-09-30 23:23:43 | トンガ 青年海外協力隊活動記
はい、ということで トンガ再訪についてアップする前に、

任期を終えて日本に帰ってきてしばらくは思い出すだけで涙がでてきたので 書けなかった任期終了時のことについてのアップ。
「サプライズSchool magazine」  「卒業式」 につづいて 今回は 第三段「エウアを去った日のこと」をアップします。
「しつこい」「飽きた」という声も聞こえますが、当時日記すらかけていなかったので、忘れないためにブログにアップさせていただきまんもす!


2007年12月5日、エウア高校での卒業式を終え、
6日は 学校の先生たちが開いてくれた私の送別会
7日 出発準備 掃除
8日の早朝5時の船でエウア出発

8日の朝8時に本島につくと ダンボール7箱ほどをJICAドミに運び、パッキングしなおし、全てエアパシフィックオフィスに持っていって アナカンで送る手続きをし その後 放心。
9日も 放心。→ 頭痛 発熱 半日休養
10日 いくぶん気持ちも落ち着き トンガを出国いたしました。
というスケジュールでした。

エウアを出る1ヶ月前くらいから 信じられないほどの忙しさのなか暮らしていたのと エウアを去ったというショックと24時間泣き続けた疲れで本島に上がった時は もやしのような状態でした。エアパシフィックで アナカンの手続きをしている時など、話を聞いているうちに気がついたら数十分(?)寝ていたらしい。 隣にいた同期に助けられアナカン手続きは無事終了したが。


感動の卒業式の翌日6日の朝のエウアの風景。 エウア高校から町へと続く坂道。
見慣れた景色も 違って見える。
「お別ーれのとーきが きーたのをー みなにー おしえー たのさー」しんみり。。。


6日は 朝から島の人達に挨拶周りをしたり 学校のストアルームの片付けをし 夕方からは 学校のホールで先生達が私のお別れ会を開催してくれた。

↓男の先生達に 「泣け」と言われ 泣きまねしてみた。


お別れ会の会場に行くと、mea`ofa(プレゼント)が机の上にどっさりのっていた。トンガの文化では、去る人にmea`ofaをあげるのが慣わしです。
トンガンマットやら タパ(和紙のようなもの) キエキエ(女性用の腰に巻く装飾品)とか とにかくたくさん!!
しかも どれも「I Kyoko」とか書いてある・・・

↓校長先生から受け取ったのは・・・


「クメテ」です!これは カバ(大洋州でアルコールの代わりに飲まれているもの)パーティーをするとき カバをこのボールに入れて飲むのです。

クメテは 絶対持って帰りたかったので すっごくうれしかった!
しかも 名前入り!
でも この後、同僚や友人から 更にクメテを2つもらった・・・多すぎ。。。


結局 持ちきれないほどもらいました。みんな いつこんなの作ってたのか・・・
感謝です。



で、プレゼント贈呈の後は、お食事ターーーイム!!バーベキューです。




ガツガツ食べた後は、男性陣はカバパーティーを始めます。

女性陣はおしゃべり。すると 校長先生が いきなり タオルンガを踊りだしたんですねえ・・・ タオルンガとはトンガの伝統的なダンスです。
トンガ人の女性なら誰でも踊れます。
でも 校長先生がタオルンガ踊るなんて キャラ的には なかなかないことで、
「Kyokoのために 躍らせて!」と 踊ってくれました。



taolunga


普段はこんなことしない校長が 「一肌脱ぐか!」と踊ってくれて
なんだかねぇ~・・・・・

じーんと したんです・・・

で、その後、隣の家にすんでいた悪仲間のレルと二人で作ったエウア高校の歌(英語)を披露!!
でも 二人とも歌詞を忘れて大笑い。


で、その後、レルが 「涙そうそうを 歌おう!」といい 歌いました。

2年目の7月に開催したJapanese weekのとき、生徒と「涙そうそう」を歌おうと決めました。
でも 日本語履修生だけでなくエウア高校の全生徒にこの歌を歌ってほしいし 同時に歌の意味を知ってもらいたくて 悪友のレルといっしょに「涙そうそう」のトンガ語バージョンを作ったのでした。

レルの家で まず私が「涙そうそう」を英語に訳し、それを二人でトンガ語に訳し、更に音楽に合わせて歌詞を調整しました。
二人で あーでもないこーでもないと言いながら 歌いながら作った思い出。

それを 愛する生徒達と ギターに合わせて歌った時の思い出。

放課後 みんなで練習した思い出。

  ↓Japanese weekで 全校生徒の前で発表するために 放課後練習。
Nadasoosoo with Tongan sutudents



下校時に 生徒が涙そうそうを 歌ってるのを聞いたときの思い出。

Japanese weekのとき、全校生徒の前で 日本語履修生と このホールで歌った時の思い出。

日本語の生徒じゃない子達が トンガ語バージョンを歌っているのを見たときの思い出。

ぶわああああああああああああああああああーーーーーーーっと

押し寄せてきて

歌ってる途中 胸がグーーッとなって 苦しくて 歌えなくなってしまった。

ガン泣きです。。。

トンガ語バージョンを作った時、最後の「会いたくて 会いたくて 君への思い涙そうそう」という歌詞を
レルと二人で アレンジをして
「Nofo a  Nofo a  Si'i ’Eua high ko hoku ‘Ofa anga」
(さようなら 私の愛する愛しいエウア高校よ)にしました。

涙でぐちゃぐちゃ 胸がズキズキしながら
「Si'i ’Eua high ko hoku ‘Ofa anga」と 2年間の思い出に向けて歌いました。



そんなこんなで しんみりしつつも まあトンガらしくハッピーな感じで送別会も終わり、後は片付けに没頭するのみ!

と 思いきや、その夜から、来客が来るわ来るわ・・・
みな mea`ofaを届けにきてくれるのです。。。

↑ レルの家に一緒に住んでいた学生達。毎朝 奴らに「キオコー フライパン貸してー!」と起され、夕方は家にいりびたられてました(笑)
夜中に私がギターを弾いて みんなで歌を歌ったりしたな。
二人で同じ柄をタパに描いて持ってきてくれました。
ちなみに トンガではタパは非常に価値のあるものです。

プレゼントを持ってきてくれたら やっぱり思い出話に花が咲き 別れを惜しんでいると軽く一時間経ってしまう。
ぜんっぜん片付けがはかどらん!!
明け方4時くらいまでねばるも 片付けて 諦めて寝る。

すると翌日 早朝 ドアの外から 「キオコーーーー!!」と怒鳴られる。
8時。
あけると 生徒達が!
mea`ofaを持ってきてくれた。 そして あまりに散らかっている私の部屋を見て
「手伝う!!」と言い出した。私と生徒で 格闘。 でも昼過ぎても終わらず。
生徒がかわいそうなので、とりあえず「後は もう大丈夫よ!」と強がって 生徒を帰す。

↓ 生徒と mea`ofaたち。


家の片付けが 少し落ち着いたので、今度は PEACE DAYで生徒達と作った「平和の木」を図書館に貼りに行く。ここでも 生徒に手伝ってもらう(笑)


じゃあーーーーーーーん!! いいでしょ いいでしょ?!



Peace dayで 原爆に関する資料を展示し、それを生徒が見た後、千羽鶴を折ってもらい、更に「平和な世の中になるためには何が必要か」「平和とは 何か」を考えてもらい
緑の葉型に切った小さな紙に「平和を作るためのアイデア」を書いてもらい
それを大きな紙に貼って、一つの大きな木を作ったのです。

懐かしいなあ。Peace day開催も すごく大変だったけど 予想以上の反響で、大成功だった。
トンガで2006年暴動が起きたことで このPeace day開催を思いついたんだけど
生徒達が すこしでも「平和」について考えてくれたことが 嬉しかった。

そして 私がいなくなっても この図書室の「平和の木」を見て Peace dayで学んだ戦争の恐ろしさ、平和の尊さを思い出してくれたらいいなと思った




そうして どんどん日が暮れていきます。



エウアで見る最後の夕焼けです。 胸に染み入る橙色ですねえ。



エウアで見る夕日と夕焼けが 大好きでした。
次に この太陽を見るとき 私はエウアにはいないんだなあ。 最後の夕日。

日が暮れても まだ!まだ!まだ!片付けが終わらん!
しかも 来客数は増す一方!!

↓ ちなみに右の女性教師、このとき妊娠6ヶ月。本人も妊娠していることにこのとき気がついていませんでした。 どんだけ日頃 太ってんねん! でもトンガではよくある話。。。


↓こちらは single committee(独身委員会)のメンバーの先生。



↓そして アヒ! 泣きましたよ。ええ、ドバドバ泣きましたよ!!



結局 エウア高校を出る10分前 つまり朝3時40分に片付けが終わりました(笑)

家の扉を閉めた時

もうこのドアを開けることがないんだな。と思いました。

後ろにいた校長が

「明日の朝になって この家を見たら 外観はきっといつもと変わらないのに
 きょうこはいない。きょうこの 明るい笑い声が聞こえない。
 私の家からは きょうこが干している洗濯物がいつも見えてたんだけど
 もう その洗濯物は 明日からは干されることがなくて
 洗濯物のかかっていないロープを眺める時のことを思うと、、、、」

といって 号泣し始めた。
 「本当に 切ないのよ。きょうこのいない 空っぽのこの家の前を通るたびに
  きっと あなたを思い出すんだよ。 とても辛いけど でもこれが人生なんだ  よね。」
といって ポロポロ涙が落ちていた。いくらトンガ人が涙もろいとはいえ、本当に 私との別れを惜しんでここまで泣いてくれるなんて びっくりした。

うれしくって せつなくって くるしくって かなしくって 泣ける。
数日間 泣き通しなので 涙も枯れはてる頃なのに 全然枯れない。
むしろ 枯れてくれと思った。

先生の車で港まで行った。出発ギリギリまで船の外で同僚や生徒、友人と別れを惜しみ hugとuma(kiss)の嵐だった。

出発間近になって 船にのりこんだ。
席から必死に身を乗り出し、窓の外のみんなを見た。
アヒがボロボロ泣いていた。アヒを見て 私もボロボロ泣いた。
いつまでも いつまでも 泣いた。肩を震わせて泣いた。

船が出発して、窓の向こうに見えるみんなが小さくなっていってしまうのが
たまらなかった。

次会うのはいつだろうか。 また会えるのだろうか。 

またエウアに来ようと思えば いつでも来れる。
でも次来る時は 私はもうここの住人じゃない。エウア高校の現役教師でもない。
旅行でおとずれるだけ。
小さいことかもしれないけど 大きな終わり。

やり残したことは ひとつもないし 本当に満足のいく活動ができた。
全力投球の2年間で 全部出し切って やろうと思ったこと やれることは全部挑んできたからもう思い残すこともない。

ただねー・・・  エウア人となってしまったために エウアが故郷となっただけに 別れは それはそれは辛いものだったんです。

燃え尽きました。涙もついに枯れ果てたけど 結局船では一睡もできず
本島に到着。

↓港に着いた船。

その2日後 トンガを旅立ちました。

私にとっては トンガで過ごした2年間というより エウアで過ごした2年間という感じだったので、本島から飛行機で旅立つ時は 正直全然さみしくなかった。

なんもない島だけど エウアでよかったっす・・・

愛の島 エウアです。

帰れた。

2008-09-30 08:56:49 | トンガ 青年海外協力隊活動記

↑ 南国の花といえば プルメリア!!大洋州の人達はこういう南国の花を髪の毛にさします。日に焼けた肌に南国の花はよく似合う!


昨日夕方6時、
ついに
やっと 
日本にたどり着きました。

エアパシフィックにはこれまで何度となく落胆させられてきましたが、

(例1:トンガから送ったエアカーゴが一つ行方不明に。トンガ人からもらった民芸品を入れた箱 一つ 紛失。   
  トンガの担当者がいなくなったといわれ、泣き寝入り。
 例2:フィジーにて バックパック 勝手に開けられて 中身が盗まれる事件

やれやれ、今回もまた エアパシにやられました。
そもそもの予定は
金曜 : トンガ → スバ(フィジー) → ナンディ(フィジー)
土曜 : ナンディ → 日本 のはずだったのに、

金曜日の トンガ→スバ便がキャンセルになったため、すべてrebookしなおして

土曜 : トンガ→ ナンディ
日曜 : ナンディでぼけーっと過ごす
月曜 : ナンディ → 日本 となったわけです。

おかげで、昨日は 空港から新宿まで出て、インドへの買い物を全て済まし帰宅後、ひたすら荷造りやデーター整理に追われる始末。
友人達とも会う約束をしていたのに、、、 うえーん。

そもそも なぜ金曜のエアパシがキャンセルになったのか。
「機体の故障」と説明されたが、 土曜日、飛行機に乗ってわかった。
機体の故障なんかじゃない。

乗客数が 非常に少なかったからだ!!

もともと土曜の便をとっていた乗客と 金曜のフライトの振り替えで土曜の便を利用した乗客、足して 30人ほど!!!

少な!!
たぶん金曜日のフライト、10人くらいしかいなかったんじゃん?
飛んだら赤字になるから、それならキャンセルして、乗客に無料宿泊券等を渡したほうが安いという決断だったのでしょう。
やばいね エアパシ。。。

しかし、そのおかげで、トンガで1泊、フィジーで2泊しなくてはならなかったのですが、なんと、全てエアパシが手配し、支払い。三食付!!さらに、ナンディ → 日本 便は エコノミーが満席だったから 初 ビジネス クラス!!

にゃはは~

にゃは~

まあ とにかく 明日のインド行きに何とか間に合ってよかったわ。

さっそく体重をはかったら たった1週間の旅行でまさかの2キロ増

コアリズムで せっかく痩せたのに・・・。
1週間で2キロのペースなのに、 2年間のトンガでの活動で、たったの6キロしか増えなかったのは奇跡だろう。
自分で自分を褒めてあげたい。だって だれも褒めてくれないから。

 では 「あの人は今!? トンガ編」をアップしていきましょう。 の前に もう一個だけ トンガ活動終了前の思い出をアップさせてください!!だってぇ~・・・ まとめたいんだもん。


帰れない。

2008-09-26 14:04:48 | トンガ 青年海外協力隊活動記
今 まだ トンガにいまーす。
今日、フィジーに飛ぶはずだったのに。。。。
明日には日本だったはずなのに。。。
リコンファームも 当日の朝したのに。。。。
トンガ人の友人に空港まで送ってもらったら、、、、誰もいない!!

飛行機の故障で
明日の夕方 トンガからフィジーに飛び、
あさっては日曜日なので飛行機がないので(大洋州はキリスト教国家が多く、安息日の日曜日は飛行機が飛ばない)フィジーのナンディで一泊せざるをえず
翌月曜日 朝ナンディを出て 夕方に ようやく日本につきます。

やだーやだー

だって 水曜日の朝、インドに行くんだよ?!

準備 間にあわねー
友達と会う時間ねー

やばいよやばいよやばいよやばいよ(出川風)

というわけで まだ トンガの南風に吹かれています。

あまりに凹んでいる私を見たトンガ人の友人たちが なんとか励まそうとしてくれてるので、から元気の私。

トンガ旅行記は これまた涙 涙のもののになりそうよ。
 

トンガのエウア高校を卒業した日のこと

2008-09-20 05:44:21 | トンガ 青年海外協力隊活動記
はい!前回に引き続き 当時は思い出すだけで 胸が苦しくて涙がボロボロでてくるので 思い出すこともブログに書くことも避けていた、トンガを去る直前のお話 第二弾!

今回は 私にとって エウア高校で働く最後の日になった卒業式(Prize Day)のことを書きます。

トンガの卒業式はPrize Dayといって、成績の良かった生徒を 科目別、学年別に発表し 賞を与えるというものです。

そして、Form1から6までを2学年ごとに別けて それぞれがトンガの伝統ダンスを踊るのです。
この日の為に 期末テスト後は授業はなく、ただひたすら朝から昼過ぎまで汗だくになってこの踊りの練習をします。

そして、私が本島で日本語部会(JOCV日本語教師で構成されている)の会議に出席している間に、エウア高校では、先生たちが会議で「今年は きょうこが最後の年だから、Form5、6と一緒に踊らせよう!」と勝手に決めていた・・・。

私がエウアに帰ると、「そーいうことで、あんた 今年は踊るわよ!むちゃくちゃ練習しなきゃだめよ!」と同僚に言われた!

それからというもの 帰国準備、書類の整理、Magazine committeeの徹夜の作業と同時進行で、踊りの練習もしなければならなかった。

しかも 「こんなに下手な奴は見たことがない」と言われたり 爆笑されたりされながら 先生や学生とともに 踊り練習は続いた。

そして 卒業式当日。

やはり トンガの正装スタイルで バッチリ決めます。
このさ、タオバラ(下半身に巻いてるゴザみたいなの)は、例のごとく親友の同僚アヒが貸してくれた。一人じゃ巻けないから、巻いてもらった。
んでさー このネックレス。全部花や草で出来てるんだけどね、アヒがさ、前日の夜にがんばって作ってくれたんだよ・・・
任期中、イベントがあるたびに 私の為にネックレスを作ってくれたアヒ。
「あたしの作ったネックレスが一番綺麗なんだから、他の人が作ったのをもらっても つけちゃだめよ!」と言うアヒ。

アヒの家で 製作を手伝いながら、これまでアヒが作ってくれたネックレスのことを思い出してったけど なんかさー 愛を感じてさ・・・涙。

で 完成して、翌朝まで冷蔵庫に保管。だって 生ものですもの。

翌朝、 タオバラとネックレスをアヒの家で装着した後、アヒの旦那が買ったばっかりの自慢の車の前で 無理やり写真を撮らされる。
彼ら的に ベストな背景は 買ったばかりの自慢の車より他に考えられなかったのだろう・・・


で、そのまま敷地内の学校へ。

ちなみに サングラスしてるのがアヒです。

そして 式が始まりました。
ホールに Form1から6までの全校生徒が列をつくり、ちょうど、全校生徒が 教師、親と 向き合うのです。

始まった時点で、あたしは もうすでに半泣きでした。
全校生徒の顔が見える。
自分の日本語クラスの生徒はもちろん、2年もいれば全部の生徒との思い出があります。

そして 自分の隣には大好きな同僚達が並んでいます。

そして 私たち教師陣の後ろには 生徒の親、島の人達が並んでいます。

私はなんで、こんなに大好きな空間から いなくならなくてはいけないのだろう。
そう思うと とても辛かった。

式の流れは
Form1、2の科目別成績優秀者の表彰 → 総合した成績優秀者発表

Fomr1と2による Tongan Dance.

Form3、4の科目別成績優秀者の表彰 → 総合した成績優秀者発表

Fomr3と4による Tongan Dance.

Form5、6の科目別成績優秀者の表彰 → 総合した成績優秀者発表(ここが一番盛り上がる!!)

Fomr5と6による Tongan Dance  で 校長挨拶、賛美歌、お祈り で終わり。

成績優秀者として発表された学生の親戚は、その学生の体にお金を貼りに行きます。
私は、成績優秀者じゃなくても 自分の生徒 ほぼ全員に貼ってしまいました(笑)

↓Form5の私の生徒が表彰されたときの様子。


各学年の表彰とダンスのたびに 必死に涙をこらえていました。
で、式はいよいよクライマックスへ!
Form6の最優秀者(DUX)の 発表です!!

校長先生が マイクで挨拶をし、、、いよいよ発表!!・・・・かと思いきや



え? あれ? は?

なんで、校長先生、私のことを話してるの?
なんか、「がんばってエウア高校に尽くしてくれた きょうこが任期を終え 日本に帰ってしまいます。」とか 言ってる。。。。

えええええ?! ちょっとー こんなクライマックスで 私なんかの話されても、気まずいよーーーー! みんなDUXの発表を期待してるのに・・・!

と かなりパニクってたら 隣にいたアヒが
「This is your moment」と言って 私の背中を押すではないか。。。
他の同僚も みんなニコニコして こっち見てる。
「ほら、早く!」とせかされて 前にでると、、、

なんと、今まで成績優秀者が賞状と商品を受け取っていた場所に 出ていかされた。

そして、そこにはなんと・・・・

大きな大きな 大きな大きな 南国の花束と
賞状が用意されていました。

涙が どっと溢れました。

前回のブログ記事で書いた、magazineサプライズに引き続き、またまたサプライズ。
これまた 本当に知らなかった。 こんなサプライズを用意してくれていたなんて・・・

↓花束と賞状を受け取る私。



でねー・・・・そんでねー・・・受け取った賞状にはね、、、
こう書いてあったんです。

Special Award
Presented to Kyoko Inoue for your dedication,commitment and for implementing your professionalism at `Eua High School


もう 呼吸ができないほど涙がでてきました。

毎日深夜3時、4時まで翌日の授業準備や採点、ノートチェックに追われ 翌日授業を5時間こなし、いつも汗びっちょり(日本語教師って 授業中すっごくエネルギーとテンションが必要なんです。)になって、ヘロヘロになりながらも、愛しい愛しいあたしの小猿ちゃんたちの為、彼らの心を成長させる為と思えば どんな苦労も どーーーんと来い!と思ってやっていました。
すべては 愛する生徒のため。 エウア高校のため。

でも、そう思えたのは、私が 生徒と同僚に助けられていたから。
彼らの存在がなかったら 私がここにいる理由がない。
そして 私がどんなにがんばっても 彼らなしでは生きていけなかったから。
辛くて苦しくて 投げ出しそうになったときも、 
孤独を感じていたときも、

学生の「きおこーーーー!おはよございます!おげんきですかー」という声、その声を聞くだけで、スイッチが入って、教師モードに切り替われた。

彼らに何かしてあげたいから 一生懸命がんばってきたけど

結局 私が彼らからもらったものの方が、何百倍大きかった。

どれだけ 私は 君たちに助けられてきたことか・・・
どれだけ 幸せをもらったことか・・・
どれだけ 感動をさせてもらったことか・・・

それなのに、こんな賞状と花束をもらうなんて・・・

賞状と花束を受け取って、もといた場所に戻る前に 学生のほうを向いて、
深く お辞儀をした。

ありがとう。 ありがとう。愛をいっぱい ありがとう。

そしたらさー・・・
学生全員がさ、立ち上がってさ、拍手してくれたんだよ。自ら。
それもさ、もう 大拍手なんだもん。
ホールに響き渡る。
なんなんですか・・・。これは。どっかにカメラとかあんの? 映画撮影かよ!!
なんなのよー 君たち・・・ やめてー・・・ 泣きやめないよー・・・

教え子が、眉毛をハの字にして、私を見ていました。
ちゃんと、しっかり顔を上げて、全校生徒の顔を見たら、

もう、もう、もう、駄目でした。

肩を大きく震わせ、声を出して 大泣きしてしまいました。
息はうまく吸えないし、鼻水はすごいし 隣にいたアヒがティッシュをくれたので、ふとそっちを見ると、アヒも泣いてる!!!
ちょっとーっやめてー それでまた 泣ける。。。 



2年間、苦しいことも たくさんあった。
言うことを聞かない生徒たちの前で 怒って泣いてしまったこともあった。
生徒を本気で平手打ちしそうになったこともあった。
平手打ちの代わりに 机を何度も叩いた。
血管が切れるほど 怒ったことも何回もあった。
反省文なんて 何枚書かせたことか。
本気で叱って、生徒を泣かせたこともあった。

でも 諦めなかったら 伝わった。いつも 最後には 必ず伝わった。

どんなに怒っても、愛があれば伝わった。

伝わったら前よりももっともっといい笑顔が教室に溢れていた。

笑顔がたくさんあって 笑い声もあって 心があった。

苦労した分、手を焼かされた分、たくさん一緒に笑った分、あんたたちが 先生はむちゃくちゃ愛おしいよ・・・


その後、真のクライマックス DUXの発表!!
今年は、男の子が受賞しました! おめでとう!

首の周りを覆っているのは 飴とサランラップで作ったネックレスの束です。。。

で、その後、ついにFORM5、6のダンスです!
私も 教師の列から学生の列へ移動します。

そして 踊りました。


私は前列にいます。見つかった?

Tongan dance by F5 and 6 @ tanakitu'unga 2008




歌いながら 踊りました。

ずっと一緒に練習してきた高学年の生徒たちと踊るのも最後です!
間違わずに踊れました!

踊りの最中、同僚達、学生、学生の親が、hugとUMA(ほっぺにちゅー)をしに来てくれました。飴とサランラップのネックレスや、お金を体中につけてくれました。

学生たちと笑いながら 泣きながら踊って むちゃくちゃ楽しくて 一体感があって 最高でした。

そうして 式は終わりました。
結局 式が終わるまで泣き通したあたし・・・
最後に トンガの国家を歌ったとき、

あー・・・・ きっと 今 この瞬間が 「何かが終わってしまった」時なんだなあ。とおもった。

世の中の全てのものに 終わりがある。
そんなの知ってる。

でも こんなに終わってほしくないことは 今まで経験したことがなかった。
この終わりだけ。 エウア高校で働くことの終わりだけ、それだけでいいから「終わり」を なくしてください。 お願いします。
そう思った。

かなーしくーてー かなしくてー とてーも やーりーきれーないー
という歌、そのものだった。

でも 式が終わって、泣きつかれると、気分が楽になった。

どんなに去りたくなくても さよならを言いたくなくても

去らなくてはいけない さよならを言わなくてはいけないことがあるんだ。

そういう時は 限界まで泣くしかない。
そうすれば とりあえずは涙が出きって すっきりする。
それからは 時が解決してくれるもんなんだよねー

ほら、時がたった今は、こうして当時のことを振り返ることができるまで 気持ちに整理がついたもん。

そして また今回トンガにいって、当時のことを 「思い出」として しっかり消化できるようになると思う。


























やっぱり 私は行きます。 トンガへ。

2008-09-19 12:22:08 | トンガ 青年海外協力隊活動記

インドに行く前に、トンガに行くことにしました。
先週決めました。
で、チケットがとれちゃったんで 行ってきます。

明日20日に日本を発ち、27日に帰国します。
で 10月1日にインドへ出発します。

なんで、急にトンガに行くことにしたかというと、
そもそも今年の12月の年末休みを利用してインドから一時帰国してトンガに行くことを考えていました。
12月のエウア高校の卒業式を見に行こうと思っていました。
でも インドには年末休みがないことを知り、 また、来年は来年で、いつ日本に帰ってくるかまだ未定だし、

それだったら 「今しかない!」「今 いかなかったら きっと後悔する!」と直感で思ったので(笑)貯金もあんまないのに チケット購入。17万円也。いいのいいの プライスレス。

「後任の人の邪魔をしちゃわないかなあ・・・」というのが一番心配だったけど、後任の方は快く受け入れてくた。まあ、私の前任者も私の一年目の9月にエウアに来てくれたことを思い出し、「よし!行っちゃえ!」と覚悟を決めた。

自分の教え子や 仲の良かった同僚がまだエウア高校にいるうちにもう一度 エウアで会いたかったのです。

エウアの風景、島の雰囲気も好きだけど、そこで一緒に暮らした「人」があってこその 第二の故郷なのです。

教え子や同僚、友人がいないんだったら、いく意味がない。

今でも 時々夢を見る。「おー 久しぶりー!!!やーーーっと会えたねえ!」って みんなでhugして ずーっとみんなに会いたかったから、すっごいすっごい幸せなんだけど 目が覚める。夢かあーと テンションが下がる。

でも ようやく会える!!インドに行く前に、教え子の笑顔を見て、パワーをもらって、インドでの活力にしよう。

んで、本当の意味で、トンガの2年間に一区切りつけられるような気がします。

今までは、エウアで撮った写真や、動画や、当時聞いていた音楽とかに触れるのが怖くて避けてたけど、きっとこれからはちゃんと「思い出」として触れられる気がします。

その一つとして、このブログには載せなかった「トンガを去る直前」の話をご紹介。 

トンガを去る2ヶ月前くらいから 寝る暇もないくらい忙しかったです。そんな忙しい時期を、さらに忙しくさせていたのは「Scool magazine作成」でした。

詳しくは
ああ 青春
完成
をご覧ください。
私は1年目、2年目、ともにMagazine committeeのメンバーだったのですが、毎年 生徒や同僚と学校のPCルームに泊り込んでみんな徹夜で作成していました。

↓左が1年目の文集。 右が2年目の文集。


で、2年目の文集作りは、1年目よりも本当に楽しくて、楽しすぎて これから私はもうこの場にいなくなるんだと思うと 切なくて苦しかった。
そんなこんなで 製作し、卒業式前日に印刷も終わり、(印刷は本島の出版社にやってもらう)届いた文集。

↓表紙は 生徒が描きました。



↓ ページをめくります。これ 1ページ目。


↓ さらにめくります。これ 2ページ目。ん?んん?!あれれ?!何だ!?全ページの作成に関わった文集委員の私が知らないページがあったんです!


そう、これ。これを見たとき、思わず

ぎゃーーーーーーーーー!!! ナニコレ?!
絶叫。
 



私は記事作成、編集業務、写真の貼り付け、全部関わって、全部チェックしてたから、こんなことありえないのに、出来上がった文集に「この文集は きょうこに捧げる」って書いてあるページが入ってた。 すんげー びっくりした。

「This magazine is dedicated to the One and Only and to the Best of all volunteers ,Miss Kyoko Inoue from all Eua High members,staff and students,we wish to extend to you our most sincere gratitude for all that you given us. We have learned a lot from you . In fact,you had become just one of us. You wil be remembered for a long time. Our regards to your parents as well. 」

と書いてあるんです。
泣きました。

そして よーくよーく思い出してみたら、文集作成も終盤にさしかかり、あたしは自分の仕事がひと段落着いたから 学生とおしゃべりしてたとき、 校長先生と同僚が、個室にこもってPCに向かって 必死に作業していたのです。

ああ そん時だあ。と思った。

でも 印刷前 データーをチェックしたとき、やっぱこのページなかった!
一体 どんだけ巧妙にしくんだんだ(笑)

しかも、エウア高校のPCは正常に作動しないので、たった1ページ差し込むだけで、他のページに微妙にズレが生じたり、いきなりフリーズしたりして、すっごくやっかいなのに、あの忙しい中、同僚達がこっそりこんなサプライズを企画してくれていたなんて、今思い出すだけで泣けてくる。

このページを見て泣きまくってる私を見て、同僚が「校長が、どーしてもこのページを作りたいっ、絶対作るって言い出したんだよ。」と教えてくれた。
ちなみに校長はPCが使えないので、いつも同僚の脇にちょこんと座っていただけ(笑)

私の任期中、校長先生が1年目と2年目では別の人でした。
1年目の校長先生は すっごい意地悪だったし 嫌がらせも受けたけど
2年目の校長先生は すごく理解のある人だった。

だからこそ日本語教育に限らず、自分の知りうる限りの知識、出せうる限りの情熱と労力をエウア高校にそそごうという気持ちで活動できた。

私は 2年間の活動中に日本語の授業以外にも、Japanese weekや、Peace Dayという行事を企画して実行したんですが、そのときの一番の理解者が校長先生だった。。理解して、ちゃんと評価してくれた。
Peace Dayを開催したときなんかは、校長先生が感極まって泣いてくれた。
Peace day の様子は こちら。

そんな校長がこんなすばらしいプレゼントを通して、私の仕事と情熱を評価してくれた。私にとって この文集は、人生で最高の「成績表」「金メダル」になりました。 で このページの最後に書いてあった言葉。

「We all wish you luck in wherever you may be working in the future.」

エウアにいる生徒や同僚、友人がいるから、新しい場所でもがんばって情熱注いで仕事ができる。 
インドで がんばるよ。 きょーこ先生は。

インドでの仕事が終わっても どこに行っても 自分らしく がんばるよ。と思わせてくれるメッセージです。

でも ひとつ気になるのが、3つ並んでる写真、真ん中のやつ。豚の丸焼きを ちぎってかぶりついてる写真・・・・。チョイス・・・


↓おまけ    編集後記のページ。


言語切り替えスイッチ

2008-09-10 00:28:32 | トンガ 青年海外協力隊活動記
言語切り替えスイッチが 私の頭の中にあったらいいのにな。

今日 トンガ人の友達に電話をした。

懐かしくて 涙がでそうだった。

そして 相変わらずトンガ人は話が長かった。同じ話を何度もしていた(笑)

「キョーコ!!トンガ語 どうしたの?!忘れたの?!」と 言われてしまった。

トンガから帰国してから 外国語は「英語」しか使ってないから
日本語と違う言葉をしゃべろうとすると 「英語」がでてきてしまう。

あんなに必死になって習得したトンガ語。

忘れちゃう。 忘れちゃうよー ・・・

結局 いろんな人に電話が回され 結局45分しゃべってた。
最後のほうには 少しトンガ語の感覚を思い出せてきたけど。

ただ単に、「単語が思い出せない」ってことだけじゃない。
言葉って文化だから、どういう風に感情をこめるとか、どういう風に相槌をうつとかそういう全部のこと。そういう感覚的なものを思い出すのって時間かかる。

言語って 本当にむずかしい。

トンガにいた時、離島だったからトンガ語をがんばって習得しなくちゃという焦りと、でも学校では英語を使わなきゃいけないから英語も伸ばさなきゃという焦りがぶつかって、

トンガ語を 英語の文法で話したり、
英語を トンガ語の文法で話したりしてしまって

話してる相手が「?」って顔をしているのがわかって 辛かったりしたっけ。

もっとひどいときは 自分が何語を話してるのかわかんなくなったりして

すっごーーーーーーい ストレスだったな。

英語もトンガ語も どっちも 話せなくなってしまったこともあった。

完全に ふたつの言語がクラッシュして 焦ってしまって 言葉がでなくなった。

んで、日本語教師だけど 日本語を使う場所は教室以外にないのだから、日本語にも影響が出始める。

久しぶりに日本人と話すと、日本語がでてこない!!

例えば 壊れてる時計を見て、当時の言語スイッチは英語かトンガ語だから 頭の中で「This watch doesn't work」という英文がつくられる。それを 日本語に訳して「この時計 働かない」と言ってしまう。

そういうことが多発。

私達日本人は、生まれてからずっと「日本語」ただ一つに囲まれて生きているから
「言語切り替えスイッチ」なんてなくても 日本で暮らす分には問題ない。

でも 多言語社会に生まれた人々は 成長過程で「言語切り替えスイッチ」を習得していくんだろうなあ。

バヌアツで、普通に村人が 英語、フランス語、ビスラマ語、自分の部族の言葉を操っている様を見て そう思った。

言語切り替えスイッチが 習得できるように、マルチリンガルな環境に自分をおいて 修行でもするかねー^^;



はい、では 今日の一曲。 最近ギターで練習中、GO!GO!7188の「こいのうた」



懐かしい!! 高校生くらいのとき 聞きまくってた!だって 片想いしてたんですもの! ふられまくってたんですもの!(笑)なつかしーねー
「片想い」のせつなさは この曲が一番伝わるねー
でも私は、GO!GO!7188は この歌しか好きじゃない(笑)

最後の方のフレーズ
「教えてください神様 あの人は何を見てる? 何を考え 誰を愛し 誰のために傷つくの?」なんて 一見 aikoのブリブリな可愛いPOP的な歌詞なんだけど、この人達が歌うと しつこくなくて すごいいい! こんぐらいの低温感がいい!

トンガ王国 「戴冠式」

2008-08-04 22:39:36 | トンガ 青年海外協力隊活動記
8月1日トンガでGeorge Tupou V(ツポウ五世)の国王戴冠式が開催された。私がまだトンガにいた2006年にツポウ4世が亡くなった時、大規模な国葬が行われたので、今回の戴冠式もそれと同じくらい盛り上がるのだろう!そして 日本のメディアも取り上げるのだろう!、、、、、 と 期待していた。

8月1日、できるだけニュースを見る。見る。見る。

ぜーーーーーーーーーんぶのチャンネル 内閣改造特集やん!

なんちゅー バッドタイミーング!

一応 日本の皇太子様も行ってるんだからさあ、、、もっとニュースに出るかと思った。とっても 残念だった。

でも、この前 家の近くを歩いていたら 地元仲間のれいこのお父さん、お母さんに偶然会って
「あ!きょーちゃん?!え? 日本にいたの?! いやー 数日前ねえ、ワイドショーで皇太子様がトンガに行ったっていってたから、きっときょうちゃんも通訳としてトンガに行ったんだろうねーって話してたのよー。」

いや、いや、いや、いや! それは ないっ!ないわー!!
いくらトンガ語話せるからって、皇太子の通訳に選ばれるなんて絶対ないやん!!
そんな ロイヤリティですか?わたしは?
まー 東京の小さな市では そうゆう飛躍的な発想も生まれちゃうのねー

でも おばさん、おじさんがワイドショーで「皇太子 トンガへ」ってのを見たって言ってたから 一応 日本のメディアにとりあげられたんだねえ。

もちろんBBCのHPには トンガの戴冠式の話、載ってますよ!しかも 王様へのインタビューもムービー画像で載っている。さすが BBC。

で Yahooニュースで調べたら なんとか発見。
「トンガの戴冠式に 皇太子参加!」みたいな記事。
その記事に対する感想を閲覧者が、役に立つ、興味深い、びっくりした、誰かに教えたい、考えさせられる のそれぞれに5点満点でチェックしていくんだけど

「興味深い」が まさかの 3,5点。 トンガにゆかりのない人にとって、そんな興味深いのか?!
でも 「誰かに教えたい」が 2,5点。これを 低いとみるか、高いとみるか。

サクラサク @ トンガ

2008-01-26 04:58:07 | トンガ 青年海外協力隊活動記
今日は 教師にとって とても嬉しい情報をゲットしました。

トンガでは 今週から新学期がスタートしました。でもまだプランニング ウィークといって 学校に行くのは教師だけです。
でも まあ とにかく学校は 始まったわけです。

そこで、、、、
ついに してみました。
そうです。 我が愛しのエウア高校に電話をかけたのです。
というのも、昨年度末にForm5とForm6(5年生と6年生)が受けたTSC(トンガ中等教育終了認定試験)とPSSC(南太平洋共通試験)の 結果を聞きたかったからです。この2つの試験は高学年のForm5,6にとっては日本で言うセンター試験のようなもので、進級、卒業がかかっているし とにかく大きな試験で、1年間このテストを通るために勉強していました。

ドキドキしながら 電話をすると。。。。。
プルルル プルルル ガチャッ(受話器をとる音)
第一声 「アハハハハー」
・・・・ おいおーい 井戸端会議をちゃんと終えてから 受話器とろーよ・・・
でも こんなとこも 変わってなくて 嬉しかった。
しばらくガサゴソして
トンガ人「マーレイ エウアハイ (はい エウア高校です)」
私   「マーレイ コ きょうこ アウ (こんにちは きょうこです)」
トンガ人「アウエーーーー! キオコーーー!オイアウエーーー!キオコ エニ!
        (あらまあ!きょうこ! あらあらあら!これ きょうこだよ!)」
もう 受話器で大声で叫ぶから耳が痛い 痛い!
でも 受話器の向こうで 「アウエー!(あらまあ!)」とか「キオコー!」とか叫んでる懐かしい声が聞こえて すっごーーーーく 嬉しくなった。
で、もちろん受話器リレーが始まった。
「キオコがいないから 男性教師に覇気がないねーーって今ちょうど話してたとこよーーー!」とか 「はーい!男好き!」とか 「カーセーレー(便所野郎)」とか相変わらずみんなくだらない話で 本当 懐かしかった。

できることなら、受話器の向こうのエウアで 新しい年のスタートを みんなと一緒に向かえて 一緒に1年の学校の計画を立てたいな・・・・なんて思ってしまう。

で、で、で、本題の PSSC(6年生が受験)、TSC(5年生が受験)の結果・・・
結果は Grade1から10で評価され Grade1が最高得点です・・・

ジャカジャカジャカジャカ

ジャン!!

出ましたああああああーーーーーーーー!!!

Grade 1 をとった生徒がでましたああああああああ

それだけではなく
Grade 2 をとった生徒もいましたあああああああああああ

これはですねーーーーーー!とおおおおおおおおおおおおっても
すごいことなんですよーーーーーーーーーーー!
ちょっと エウア高校史に残るんじゃない?!ってくらい すごいぞ!!!
正直 私も 「あり得ないことが おきた!」と 受話器を持ったまま吠えてしまいました!!

つまり、政府系学校(公立学校のようなもの)の中で 我がエウア高校はどんな教科でもたいてい ビリなんです。 教育省の人も「エウア人は 怠け者だしねー」と言うほど、とにかく 「エウア人=決してトップになれない」というイメージを持っているトンガ人が多いんです!!!
正直 他の学校との共通テストをしても たいてい一位は他の学校の生徒がとっていました。

でも でも でも
やってくれたんですよーーーー!あたいの 生徒はーーーーーーーー
これはねー すごい すごい 快挙なんですよ!
校長先生にも 「キオコ、改めて あなたのHard workに感謝します」って言ってくれたよー うひゃー 感動!感激!

確かにさー むっちゃしごきまくったし、過去問を全部網羅したハンドアウトを作って渡したり とにかく 対策は出来る限りやりつくした。
でも 生徒自信がやる気をださないと どんないい練習をさせたって意味がない。
試験直前になっても 全然やる気を見せない生徒達に 何度 説教したことか・・・「あんた達は一体誰の為に、何のために勉強してるの?自分のためでしょ?自分の将来のためでしょ!」とね。

でもね、試験当日、「キオコ!見て見て!こんなに勉強した!」って見せてきたノート。すんごい たくさん練習してたね。
「キオコ!この問題は こう答えるんだよね!」って自信満々の顔。
おどろくことに 全員の生徒がそんな感じだったからさ
あたしは それだけで 本当に 本当に 感動したんだよ。
「どんな点数でも どんな結果でも みーーーんなは私の誇りだよ」って試験の前に生徒に言ったっけ。

だから 本当に どんな結果でも 満足だったんだ。
でも まさか Grade1、2をとるとは。。。。

よく よく よく がんばったね・・・・

Grade1、2じゃなかった生徒達も、予想以上にいい点数だった。

一緒に 喜びを分かち合えたら どんなに 幸せか。。。。
一緒に試験勉強をして 休みの日も私のうちで勉強したり 私に怒鳴られながら課題をこなしたり もう とにかく一緒に戦ったね。
本当は みんなを 抱きしめたいけど 
それが できなくて やっぱ 寂しいけど。

でも 通知表をもらって 「お!日本語の試験いい点数だ!やった!きっと キオコもよろこんでるな!」って 思ってくれるでしょうよ。
あんだけ 手をやいたんですもん あなたたち。

でもそんなことよりも
どんな教科でも どんなことでも 全力を尽くして取り組んだ後の 達成感
それを わかってくれたら それでいいんだー
それが 一番 教えたかったことで 何度も何度も彼らに言ってきたことだから。

いい点数を取った子も あんま良くなかった子も
とにかく みーーんなに サクラが咲いたよ。

でも 試験の直前に 彼らの充実した顔を見た時点で 「サクラサク」だったかもね。

ありがとー 私の愛しい小猿ちゃんたち。
あんたたちのおかげで あたしの心にも サクラがさいたよ。 
おめでとう。



2年間海外にいた人の現実

2008-01-23 22:47:46 | トンガ 青年海外協力隊活動記
みなさんこんにちは。
2年間南国の人口5000人の小さな島に住んでいました。
先日 大学のサークル同期と会い 写真を撮りました。
さて 私はこの写真の中で どれでしょう?

巷では 私が「チャーリーとチョコレート工場」にでてくるウンパルンパに激似だという レベルの低い声が聞こえてきます。
そんなことは おいといて

もー 日本に帰ってきて1ヶ月になるのに、いまいち日本人っぽくない!!
私の顔は弥生系ではなく 縄文系らしいので つまり顔が濃いので 小学生の時も「グリーク(ギリシャ人)」とか「首長族」(今気づいたがこれは顔の濃さに関係ないじゃないか)と 皆に慕われていました。イジメではないはずです。きっと人気者だったのでしょう。

でも2年間 輝く太陽の光を浴びて のーんびりとした南の国の雰囲気をたっぷり堪能したおかげで 肌の色は黒いし 髪は2年分のびたし 以前にもまして、何人??!!という雰囲気が漂う。
それだけじゃなく、なーんか 垢抜けない。

この前びっくりしたのは、中目黒の駅で 黒人にいきなり肩をつかまれて
「Could you help me?」と言われたことだった。ふつう「Can you speak english?」だろう。ちょっと不思議だったが、まあ まあ おいといて、
とにかく 彼が道に迷っているというので 助けてあげた。
すると、「ありがとう!君はよく知ってるねー で、何処から来たの?」
といわれた。「え?東京出身です。」と返すと「いやいや、出身国だよ!」と言われ「日本です。」と答えた。
するとその黒人男性は「え!?君もしかして 日本人?!」 
「そうだよ!日本人!」
もうもう、いくら肌がちょっと基準値より黒いからってー エディーマーフィー(なんとなく黒人だから)大げさだなー
しかしそのエディ(仮名) まだまだ懲りずに
「そっかー 日本人だったんだー で どこの国とのハーフ?」

しつこいっ!エディ(仮名)しつこい! 思わず突っ込みたくなったよ。

まだ他にも
帰国後研修のためJICA広尾でうろちょろしていたら 技術顧問の先生に「あ!君か!いやーフィリピンからの留学生が道に迷っていると思って 今助けてあげようと思ってたんだよ!」
よかった。助けられる前に気づいてもらえて。もし「May I help you?」なんていわれていたら 相手が技術顧問の先生なだけに 気を遣ってカタコト日本語しゃべってしまうとこだったよ。

まだまだ他にも
先週行ったカンボジアでは カンボジア人、タイ人、フィリピン人、韓流スター(意味不明)に間違えられた。

まだまだまだ他にも
昨日あったダンにも 「きょうこは 日本人っぽくない」といわれた。

あー 日本人になりたい。そろそろ なりたい。
これが 二年間海外にいた現実なのか。日本人らしくなるのは大変だ。日本人になるために必要なことは 何だ?

まあまあ そんな外見のことよりも
昨日 家族でトンガでとった映像をDVDにしたものを見ていた。


見なきゃよかったー

DVDの内容は 私の生徒の映像や ギター片手に「涙そうそう」の日本語版とトンガ語版を生徒と一緒に歌っているものや よさこいソーランの練習を放課後生徒とわいわいやっているのとか もう私の活動の全てがつまっていた。

まだ 見るタイミングじゃなかったよー

帰りたいなあ。私の居場所は そこなんだよ。自分で言うのもなんだが、生徒と一生懸命向き合ってて すんごく いい顔してた。おいら。
会いたいなあ 生徒に。 またみんなの前で 教壇に立ちたいなあ。みんな元気かなあ。先生は みんなのことが心配です。
「会いたくて 会いたくて 君への思い 涙そうそう」
なんて よく言ったもんだよ。

おーい 生徒たち。先生は今 みんなに会いたくて 会いたくて 涙そうそうだー

でも これが現実。 過去が大きすぎるから それを乗り越えるのは 大きなパワーが必要だー 
いつか あのDVDとちゃんと向き合える日が来るのだろうか。
きてください。がんばりますからー

2年ぶり買い物天国!!

2008-01-10 03:24:36 | トンガ 青年海外協力隊活動記
どこの店にいっても同じ商品しか並んでいない。
天候の悪い日が続いて 船がでないと 島から物資がなくなる。
新品の洋服を売っている場所がない。
古着も日曜の朝市でだけ購入可。

そんな離島から 大消費社会 TOKYO に 帰ってきたのですっ!!!
帰国したら その翌日くらいからデパートに買い物に行くだろうと 思っていたが その逆で なんか 物がありすぎて 行く気がしない!
で、前にも述べたけど 2週間くらい ボーっと引きこもっていた。
2年間切らずに伸び放題だった髪も放置。美容院に行くのもめんどい。

が!ついに わたしは 一歩を踏み出した!いや 踏み出さなければならなかった。
トンガに行って6キロ太った体にあうボトムスは 自転車に乗ってこけて空いてしまった穴がチャームポイントのジーパンだけ・・・
帰国してから毎日それ履いてる。まじ毎日。
絶対 ジーパンも 私に嫌気さしてるね。  ジーパンにやる気が感じられないもん。 履いた瞬間に まず生地がやる気を出していない。
だから そう、私は 決意した。
都会のギャルなら 必ず参加するアレに行くことを。そう、おバーゲン様に!!

行った先→ 新宿ミロード。
でさ、すごいよ。まじ すごい。
1万2千円も使ってやった!!どーだ どーだ! で5着ぐらい買った!5着も買えた! すげー

しかし なーんかさ デパートに並んでる服 どのブランドも ぜーんぶ同じに見えるよ。どのブランドも 同じデザインを売ってるからさ 消費者は それを流行りだからって 買うしかないのよねー
あー 古着の方が いいよ。 古着には 物語があるもん。

でもさ やっぱさ Patagonia はいいよ! Ladysのブランドって やっぱ流行を追いかけてるからさー 今年買ったのは 来年には時代遅れになっちゃうし。

その点 アウトドア系のブランドはいい! 飽きない!

トンガに行く前に 貯金はたいて Patagonia の DUSパーカー買ったんだけどさー いいねーー やっぱいいねー 私の DUSちゃん。

あとねー ビルケン!いいよねー 家族には「そんなサンダルつっかけて 街にくりだすなんて・・・」といわれるけど いいのよ ビリケンだもん。

あとねー 「お父さんはセレブと名乗れるが お前はセレブではなくデブだ」といわれたけど いーの いーの 24時間デブは地球を救う。

今日テレビで 小林昭一さん(何をしている人か忘れてしまったのが残念)という70歳くらいのおじいさんが 「僕は 民主主義じゃなくて 貧主主義だよ」と言っていた。
ちょこっと貧乏が 幸せを感じさせるのだというようなことを言っていた。
戦後の混乱期を経験した人が言うから 重みがある。
豊かだと 物を使い捨てて 新しい物へと走る。 
貧しいと 物をすごく大切に感じる。そういう心こそ豊かなんだろうな

日本は物がたくさん溢れてるけど こんなにたくさん溢れる必要があるのだろうか。けど そういう物質の流れの上にいろんな人達の生活がある。
貧主主義で必要なものを必要な分だけ生産しましょう なんていったら仕事を失う人であふれちゃうなあ 

まー とにかく 私は 少しずつ 買わなくてはいけないものを買い始めてる。
例えば そう ファンデーション。
2年間で 地肌の色が 変わってしまったし、もうすぐ大学同期の結婚式だし。
で、マツキヨで店員さんに聞いてみた。
私 「海外にいて 日焼けしてしまって いつも買ってる色じゃ あわない気がして」
店員 「じゃ この色がいいですよ。つけてみますか?」
私 「そうですか。でも すぐまたフィジーに行くので また日焼けしそうなので もう少し暗い色ありますか?」
店員 「これが 一番 暗いお色です」

なにいーーーーーーーーーー!
まさか 一番暗いお色ファンデ が似合う色まで日焼けしていたとは・・・!!
ええーーー でも こんなに物が溢れてるのに 色黒さん 向けの 暗いお色ファンデは なんで売ってないのさ!!
地黒の人は 一生 おてもやんで過ごせと言うの?!

でも 仕方ないから メーカーが出してる一番暗いお色ファンデを試しに塗ってもらう。

店員 「あんまり 違和感ありませんよ」

・・・・・あんまりって!?ちょっとはあるんかい。

店員 「今のお肌のお色ですと このお色で大丈夫ですね。」

・・・・・大丈夫じゃなくても このお色しかないやん! 

ってことで そのファンデを買ったんだけどさ
今日 朝 塗った後 よくかがみ見たら 塗り損ねたおでこと 塗った後の肌と 明らかに色が違う。 顔面二層式。 あーあ もう なんでもいーや


帰国して

2008-01-08 00:10:26 | トンガ 青年海外協力隊活動記
2週間くらいが過ぎたみたい。 何かしてても時間がたつのは早いが 何もしてなくても時間がたつのは早い。

12月10日にトンガを出て 2週間ほどフィジーとサモアを旅して12月22日に帰国しましたー



なんか ほんーーーーーーっとに やる気が起きず 引きこもり生活。風邪もひくし JICA広尾センターでラーメン無理して食って吐くし そんなこんなで気がついたら 年が明けていた。

あー 「燃え尽き症候群」とか「リエントリーショック」とかとか 人々が形容するのに まんまとはまっているのでしょうか? うーん

帰国前エウアの家で 猫の手だけではなく ヤモリの手さえ借りたいほど忙しく 毎日徹夜の日々だったので 帰国して時間がある今、まとめきれなかった資料をまとめなければいけないのだが、
トンガでのことを 整理するということは、これまで現実だったことが もう現実ではなく、思い出として扱うということになり
なんだか そんなの 耐えられそうになくて なあーんもしてねー
トンガの写真とか なんか見たくないもん。

思い出じゃないんだよなあ。
違うのだよ。 あたしの2年間は。 思い出なんかじゃないんだよー
じゃあ なんなんだ。

日本に帰って驚いたこと。

水道水が飲める。 水道からお湯が!? シャンプー リンスをするだけで髪の毛がシルクに。テレビがちょー薄い。 電車の中であんなにたくさん人がいるのに皆が無言。 誰からも声をかけられない。 行きかう人々がみな女優のよう。でも なぜかみな 同じ格好 同じ髪型。 

でもさー 一番驚いたのは 行きかう人が皆挨拶なしにすれ違うことだよね。
あたしなんて 東京の某市で 引越すこともなく20年以上住んでるのにさ
近所歩いてても だあーれも 声かけてくれないからね。
てか あたしも 皆知らん。 誰? さびしぃーよねぇー T・O・K・I・O。
ジュリーも悲しむよ。 今のT・O・K・I・O は空なんて飛ばないからねー

けどさ エウアなんて たった2年間すんでただけなのにさ 島中の人たちが あたしのこと知っててさ すれ違うたびに いや すれ違わなくても 遠くに棒人間くらいの大きさで私を見止めるたびに みな「キオコ エー」って叫んでくれるんだよ。日本人がみんな山登れば「やっほー」って言いたくなるのと同じもんよ。
小さな島だからさ ちょっと歩けば すーぐ 声かけられて 世間話が始まるのよ。道端で。
無言で歩くなんて あり得なかった生活を2年。
なんか みんなが無言で歩いている 東京砂漠を なんだか異様に感じてしまう。

南の島トンガのそのまた離島エウアで過ごした2年間ってなんだったのかなーと
考える。いろんな答えがあるけど
うーん 日本での生活と比較して答えるなら

生きてた。

っちゅーことかもしれん。

なんか トンガでの生活は あたしは「生きてた」んだよ。 たぶん。

もちろん 東京でだって この通り元気に生きてますけど
でも なんか 肉体的な意味じゃなくて 精神的な意味で 今 「生きてる」って感じが なんとなく 湧かない。 薄い。
おいしいレストランでたらふく食べても かわいい服を買っても カフェでケーキ食べても SO WHAT???

エウアでは レストランも かわいい服も ケーキも なかったけどさ、
毎日 毎日 くだらないことで トンガ人と大笑いして 大喧嘩して 仕事もバリバリして 生徒に大激怒して たくさん食べて みんなで昼寝して だれが 一番さいしょに うんこするか とか どーでもいい話を真剣にしたりして なんかさー

生きてたんだよ。 絶対。
あたしだけじゃなくて 周りにいたトンガ人、仲のいいJOCV、みーんな 生きてて
生きてることが 仕事で 生きてることが 生きてるだけで 楽しかった。

トンガでとった写真を見ると 確かに日本にいるときより 太ってるし 汚いし 髪の毛ぼさぼさだし 新庄選手並みの 黒さだけどさ
いー顔してんだなあー あたし。


私を知っている人は ご存知だと思いますが 基本的に 私は 「やりたい」と思ったことには もうわき目もふらず 全エネルギーを注ぐ 猪突猛進タイプで
高校受験のときも ハンドボールがやりたいからって 滑り止め受けずに ハンドボールが強い国立一校しか 受けなかったし
大学時代もも JOCVに参加するのだ! と 就職活動一切しなかった。
よそから見たら
「あら あの子 また勝負に出て、大丈夫?」といった感じだろうが
当の本人は
例え 失敗しても また なかなか夢が叶わなくても 全力で走ってるから
最高に楽しいし マゾだから 苦労も嬉しい。
だから これまでの人生 いっつも「今が一番!!」って言い切ってこれたけど

なんか 生まれて初めて 過去がとても恋しいっす。
トンガにいた時に流行った曲を MP3で聞いてたりすると ふっとトンガ人の友人や 生徒の顔が思い出されて 涙が出てきちゃうのさー
よく トレンディードラマで 大人になった主人公が 久々に大学の同級生とあって「あん時はよかったよなー」なんて言う場面があるけど(あるのか?)
正直 これまで そんな発言 ぜんっぜん 理解できなかったけど
生まれて初めて 「あん時にもどりたい」って思ってしまう。

もちろん 「あん時」ってのは あん時ね。島っ子ライフん時。

まー 過去をさらに振り返ると 学生時代世界を放浪して 「国際援助って必要ないんじゃん?!」なんて思って これは自分がやってみなきゃわからん っつーことで 青年海外協力隊として海外に出ることが 自分の夢になったわけでして、

3回目の受験で合格し 不合格通知に涙した暗黒時代に終止符がうたれ「夢が叶ったー!」という気でいたけど

2年間 実際の活動を終えて、かつ 自分のやろうと思ったこと全部をやりきってすべて 終わった今が、夢が叶った瞬間なのかもしれぬのぅ。

だから 正直 今人生が終わっても いいな。
極論だけど。

でも あたしは まだ死にません。当たり前か。
これも 人生、人生。 This is how life goes on.... 

ぼーっとしてたら 本当に トンガでのことが 単なる思い出になってしまうよー
トンガでの2年間を ゴールじゃなくて スタートにしたいの。 あたし。

だから そろそろ 進まなくっちゃー

写真 : 真冬の日本に 到着したよ フィリピーナ
     両親の言葉 「近くに来ないで」
 





PEACE DAY 8 目的達成!

2007-12-09 13:35:55 | トンガ 青年海外協力隊活動記
とにかく 任期の最後の最後に 生徒はもちろん 同僚ともすごすことができ
本当に いい思い出となった。
いい意味で 期待を裏切られる結果となった。
振り返って思うことは、やはり、2年経って 同僚との関係も深くなったからこそ
今回のように成功したのだと思う。
トンガに限らず、どんな国だって、よその国から来た小娘が あれこれ新しいことや、目立つことをしたら、バッシングしたくなるのは当然だ。
トンガには トンガのやり方があるし、よその国の小娘が一体何ができるんだ?と鼻で笑われて当然だ。
だから 2年という期間だってとても短いものなのに、それなのにエウアの人たちは私を理解してくれ 受け入れてくれた。 それは 本当に 感謝すべきことだ。

そして 今回 PEACE DAYをやって 本当に良かったと思うことがある。
私がこのPEACE DAYをやろうと思ったきっかけは
昨年11月の暴動後、トンガタプの街が廃墟と化した。その後始めてのエウア高校全校集会で
「トンガはかわいそうだ。こんなことになってしまって、トンガだけでは立ち直れない。でもどこの国もたすけてくれない。日本はラッキーだった。原爆が落ちても アメリカが助けてくれたから今のように発展した。でもトンガは違う。かわいそうだ。この状況が少しでもよくなるように 皆で祈ろう。」

と校長先生が全生徒に向かって言った事が きっかけだった。

暴動後、常に私が疑問だったことは トンガ人みんなが他人事のような意識でいることだった。今こそ トンガ人が力を合わせて頑張るときじゃないの?!と勝手に熱くなっていた。そんな中、校長先生の発言を聞いて、
「おいおい!違うだろ!確かに日本は戦後いろんな国に助けられたけど、大事なのは日本人が自分達の力で国を立て直そうとしたことだよ!自分達の力で立ち直ろうとしない国に援助したい国は世界中どこにもないよ。第一、暴動と戦争、原爆を一緒にするのはどうなのさ?!」
と 思った。でも トンガ人は 「知らない」んです。
既に書いたように、歴史は選択科目の一つだし、教師でも歴史を学んだことがない人だっている。特にエウアは 情報源が乏しいから 今世界で何が起きているのかを 知ることができないし、知ったとしてもそれをリアルに感じることができない。

そういった経緯で開催を企画した。
「過去に起きたことをしる大切さ」「人間は間違いを起こす生き物だから、大事なのは二度と同じ間違いを起さないよう努力すること」ということを 伝えたかった。

PEACE DAY 初日、私がポコ教師の一件で大泣きする前、
校長先生が 展示を見に来てくれていた。長い時間かけて展示を見た後、
校長先生は 私のほうに来て
「キオコ、本当にすばらしいね。今日エウア高校は ミュージアムになったよ。
 生徒達をみてごらん。すごく真剣だね。生徒達だけじゃなく 教師陣もだよ。
 キオコに感謝してもしきれない。
 キオコ、私はね、歴史をきちんと学んだことがないんだ。だから、日本は原爆が
 落ちてラッキーだったという見方をしていたの。というのも、原爆が落ちて戦争
 が終わって 原爆を起爆剤に日本は今のような発展を成し遂げたと思っていた  の。でもね、今日、私が どれだけ間違った見方をしていたかわかったんだよ。
 焼け焦げた人の写真、水を求める人々の様子を見てね、ああ これは実際に起き たことなんだ。これが原爆、戦争なんだ。そして実際被害にあっているのは私達 と同じ人間、家族なんだ。と思って すごく胸が痛くなった。
 原爆のことだけじゃなく、今までラジオで聞いていたイラクの戦争とか今世界で
 おきている紛争が、今日 初めてリアリティを持って感じられたの。
 これまでは どんなにひどい戦争の話を聞いても 自分とは関係のない世界のお 話という捉え方しかできなかった。でも これからは違う。
 本当に ありがとう。
 今日、キオコは エウア高校を世界のレベルに持って行ってくれたよ。エウア高 校史に残るね。
 私はこのことを一生忘れないし、生徒も一生忘れないよ。
 本当に 本当に ありがとう。」

と 涙を流して言ってくれた。
私の方は、私にこの機会を与えてくれた学校に本当に感謝していたので、
逆にそんなことを言われて また泣いた。

このPEACE DAYの開催のきっかけは 校長先生の一言だったので、
校長先生一人でも このPEACE DAYを通して 見方を変えてくれたことが
本当に 嬉しかった。

また、「キオコ、こんな原爆がトンガに落ちたら、絶対トンガは全部の島が壊滅だね。ひどいね。なのに大国はまだ原爆を持っているんだよ!信じられない!」と言ってくる生徒、教師が何人もいた。

なんでも まず「知ること」から始まる。
彼らが、次にラジオで 戦争の話を聞くとき、少しでもそれがリアリティを持って伝わったのなら、少なくともトンガでそういう悲しい事件が起きる可能性は減るのではないだろうかと思う。

あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
忙しかったけど でも ほんっとーーーーーにやってよかった!
そして、やっぱりいい思い出になった。
結局 また幸せをもらった。いつも エウア高校の為になにかしたくて 頑張るけれど 結局最後には またエウア高校の生徒と教師から
幸せをもらったことに気がつくのだった。

PEACE DAY 7

2007-12-09 13:03:04 | トンガ 青年海外協力隊活動記
今回 同僚がみな 本当に協力的だった。
というか、皆本当に興味を示していた。
自分の仕事をほったらかしにして、ずーっとDVDに見入っている教師、データーをちょうだいといってくる教師、など等。
私の姉のような存在の同僚のアヒも なんと鶴の作り方を覚えて それを生徒に教え、千羽鶴作成を手助けしてくれた。
外国人に鶴の作り方を教えたことがある人ならわかると思いますが、外国人が鶴を覚えるのって本当大変なんですよ!しかし 同僚達はみんな鶴の作り方を覚え 一人10羽は作っていた・・・すごい。
鶴の羽に 平和へのメッセージを自主的に書く同僚や 「KYOKO I LOVE YOU」と書く小学生知能レベルな同僚やら さまざまですが、鶴を作ってくれたことに本当に感謝している。

しかし やはり いいことだけではありません。人生というものは。はい。

私が 生徒の対応でむちゃくちゃ忙しい時に
「キオコー こいつがキオコに一言言いたいってさー」
と 教頭がニヤニヤして言ってきた。教頭は本当考え方や行動がガキ(同僚のほとんどが認める)なので、嫌な予感がして 無視していたら
その教頭に促されて 別の教師が「キオコ じゃあ パールハーバーはどうなんだ?」と言ってきた。しかも ニヤニヤして。

あーーーーーーーーーーーーーーーーー
もう 絶対からかってるだけだよ こいつら。
と思い 完璧無視した。
そしたら 教頭が 私が怒っていることに気づき 私の機嫌をとろうと(注 こんなことしてるけど教頭は 私のファン だから私が怒るとオロオロする)わざわざ展示の方までやってきて いかにも関心があるようなふりをしてる。
んで しまいには「Don't touch」と書いてある展示物に 触り、「おー ソーリー」なぞと 言っている。
この ガキ!!
と思い 沸点に達し
「さっき なんであんなこと言わせたの!?ただ 私をからかいたいだけなんでしょ?! 言いたいことがあるなら どうしてはっきり言わないの?!」
というと 「へ? だって 僕はあいつが何言うかしらなかったんだもん。あいつがキオコに何か言いたいっていうから促しただけだもん」
というので
「二度と あたしに話しかけないで。二度とここにもこないで。今 私が展示して生徒に伝えようとしていることは、ジョークのネタにできるようなものじゃないの!」と言い、 他の資料をとりにPCルームに行った。
PCルームに入ったら

怒りと 疲れと なんかすべてが ごっちゃごちゃになって
泣けてきた。泣き始めたらとまらなくなった。
まだ スタッフルームでは PEACE DAYが続いているから 早くもどらなきゃいけないのに こんな泣き顔では戻れないよー と思い ドアをそっと開けてスタッフルームの様子を伺うと

同僚数名が こっちを見ている!しかも 心配している!

だーーーー 絶対あたしが泣いているって気づいてるよー あーバレたくなかったのにー

と思っているうちに 今度は 校長先生とレルがPCルームにやってきた。
校長が 「今日一日 本当に大成功だったね。」
というので「はい!はやくスタッフルームに戻らないと・・・」と PCルームを出ようとしたら「キオコ、Is everything allright?」というので、「うん」というと「本当に?」といわれ、また泣いてしまった。

校長いわく、私と教頭のやりとりを聞いていた同僚が、そのいきさつを他の同僚に話し、「教頭は なんて失礼なことをしたんだ!きょうこがかわいそうだ!」と同僚のみんなが大騒ぎしているのだという。それで、キオコがいなくなったので 絶対どっかで泣いているに違いないと 校長の方まで話がきたので 私を探しに来たのだと言う。
「キオコ、エウア高校の一教師として 本当に誤りたい。あんなポコ(ハゲ野郎)どもの一言で このエウア高校史に残る一日を台無しにされてたまるもんですか!
キオコが知ってるように、ここトンガでは 少しでも変わったことや 目だったことをすると、それをバッシングしたがる人が多いのよ。でも ポコ以外の同僚みんな 今回のPEACE DAYをすごく楽しんでいるし、教頭達の行為に 怒りを覚えているんだよ。」

と言ってくれた。校長でもある人が、ポコ(ハゲ野郎)という汚い言葉を使ったことに驚いた。
「私は 彼らの発言に怒っているんじゃなくて、彼らが戦争をジョークのネタに使ったこと、深く考えずにただからかったことに腹が立ってしかたがなかった。
彼らがジョークじゃなくて、真剣に質問してくれたら 全然問題なかったのに。
私だって、今回 本当はもっともっと第二次世界大戦のことも深く説明したかったし 原爆のことだけを取り上げて、生徒が(アメリカはひどい国だ)とか(日本はかわいそうな国だ)と言う捉え方をしてほしくなかった。でも本当に時間がなくて、レルと相談した結果 原爆だけ取り扱うことにした。
それでも日本が始めた戦争だし、日本だって他の国にとてもひどいことをした。歴史、とくに戦争にはいろんな側面があって 原爆は第二次世界大戦の一側面にしかすぎないことを 伝えたかった。だから一生懸命 生徒に (これは日本が始めた戦争なんだよ)とか アメリカはひどい という生徒には(それは違うよ。日本も悪いことをしたんだよ)と言っていた。朝の朝礼の時だって そういうことを言ったのに、教頭達は遅刻して朝礼に参加してなかった。協力もしなければ 聞く耳も持たないくせに そういう人達に ただからかわれて 本当に悔しかった。そして 何より 戦争を実際に経験した国である 私たち日本人にとって 戦争をジョークのネタにすることは あり得ない」

と言って 愚痴を聞いてもらった。 
校長先生は 「キオコ、私がさっきスタッフルームで言ったこと覚えてる?(後に記述)今日 私は 本当にあなたのしたことを誇りに思っている。そしてわたしだけじゃなく、もちろん生徒だけじゃなく、ポコ以外の全同僚がそう思っている。あんだけ 自主性もやる気もない教師が 自分の仕事をほっぽらかして あんだけ真剣に展示物を見ている姿を わたしは始めて見た。ポコの発言に 同僚みんなすごく怒りを覚えていることからも それがわかるよ」

といろいろ優しい言葉をかけられ また涙が出た。
で、そろそろ片付けの時間だ。とおもい スタッフルームに戻ると・・・・
なんと・・・・・

同僚10名くらいが皆スタッフルームにたまって 片づけを手伝っていてくれた。

こんなこと トンガではあり得ないことなんですよ。

それを見た瞬間 また泣けてきた。
私を みた同僚達は 「あんなポコの言うこと 気にするな!」「あいつらは カセレ(便所野郎)だ!」と口々にいい、「本当に キオコにすまないと思う」と真剣に言ってくれる人もいた。
みんなで わいわい言いながら 片付けた。私は また涙 涙 だった。こんどの涙はうれし涙だった。私の泣き顔を見て、男性教師陣はテンションが上がり、「キオコ、キオコ、アイシテイマス」と言ってきて 大笑いだった。
片付けた後も、同僚達が 楽しそうに一緒に鶴を折ってくれた。

生徒だけじゃなく 教師といっしょに なにかできたことが 任期の最後の最後に本当にいい思い出になった。

写真は 同僚と。

PEACE DAY6

2007-12-09 12:57:39 | トンガ 青年海外協力隊活動記
これも 生徒と同僚みんなで作った「平和の木」

平和な世界になるためのアイデアやメッセージを書いてください。

というコンセプトで、緑色の葉型の紙を用意した。

さすがに2年もトンガで働くと たいていのトンガ人の行動はよめる。
なんで、開催前は「どーせ みんな I LOVE PEACE! とかそういう簡単なことしか書かないだろうな。また、趣旨を理解せず 自分の名前だけ でっかく書いたりするんだろうな。」と思っていた。
木が 葉っぱで埋まるかどうか心配だった。

ところが! ところが! ところがーーーー!
予想を 180度裏切る結果に!

みんな紙を受け取ると、一生懸命考えて書いていた。
トンガの生徒って 本当に自主性がないのだけれど
この平和の木は 私が「書きなさいよー!」と言うまでもなく、勝手に生徒達が書いて 木に貼っていった。
生徒達が書いた内容を読んでみると、意外にもしっかりしたことを書いていて
感動した。
本当にやってよかったと思った。

PEACE DAY5

2007-12-09 12:48:09 | トンガ 青年海外協力隊活動記
みんなで折った 千羽鶴。

二日間で320羽もおりました!

中にはずーーーっと折り続けている生徒(私の日本語クラスの生徒)もいました。
出来上がる度に
「できたよーー!見て見て!」と持ってくるのでした。

「これを 広島にもっていって “トンガからです”って渡すんだよ。」
というと、皆  「本当?!」とすごく嬉しそうにしていた。