ブログを更新しなさすぎて、テンプレートが勝手に初期化されていたー
このところFacebookのみ使っていたので、ブログをすっかり更新していませんでした。
2月末から仙台に異動になり、主任に昇格して、復興支援関係の仕事を担当しています。
毎日深夜残業できついですが、あたしゃ、今、東北でがんばっとります!
という近況報告まで!(^^)
ブログを更新しなさすぎて、テンプレートが勝手に初期化されていたー
このところFacebookのみ使っていたので、ブログをすっかり更新していませんでした。
2月末から仙台に異動になり、主任に昇格して、復興支援関係の仕事を担当しています。
毎日深夜残業できついですが、あたしゃ、今、東北でがんばっとります!
という近況報告まで!(^^)
タイトルの通りです。
地震後 東北に行くのは今回が3度目。
もっと行きたいけど 仕事の忙しい時期は東京を離れられないので。。。
今は繁忙期の一歩手前。
少しですが余裕があるので行ってきます。
今回は 瓦礫撤去、泥撤去などのハード面でのボランティアではなく
メンタルケアや地域の人の手による地域コミュニティ復興のアイデアシェアといったソフト面のボランティアです。
私の協力隊の同期コロンビア派遣の友人が 今働いているNPOの活動です。
http://www.standup2015.jp/event/ishinomaki.html
それをお手伝い(役に立つのかどうか、、、)しにいくというか、私自身もお勉強させていただくつもりで行きます。
今日は そんな関係で 東大に震災関係のシンポジウムを聴きに行ってきました。
非常に興味深かったです。
東北以外の地域に住む人は、まずこういうシンポジウムやセミナーに足を運んで ご自身の情報をアップデートし
引き続き東北への意識を向け続けることが大事かなーと思う今日この頃。
また帰ってきたらシンポジウムのお話をアップします。
祝日の日曜日、月曜日に ボランティア休暇を一日プラスして火曜日まで行ってきます。
寒そうだなあ。東北。
仮設住宅の人、寒くってしんどいだろうなああ。。
わたしの周りには 個性的で おもしろいおともだちが多い。
普通の社会人なら 躊躇してしまうことも
平気でやってしまう人が多い。
たぶん協力隊に行けばそういうエネルギーのある人と出会える確率が高いからだと思う。
8月30日は 私のお誕生日でした。
自分の誕生日を若干忘れていて
その日の仕事後に 本当に 「なんで敢えて誕生日に?!」と 人が聞いたら笑うような
くだらん用事を入れてしまった私。
ここ数年 誕生日は海外で過ごすことが多かったので
なんだか久しぶりに誕生日を国内で過ごす。
去年はカンボジアにいたなあー
久しぶりに国内で過ごす誕生日なので過ごし方がよくわからない。
だから なんとなーく誕生日だなーって思って一日が終わるのかなーなんて思って
職場の同僚と ランチタイムにCoCo壱でカレーを食べてたら
職場の近い Kりんちゃん(トンガの協力隊仲間)から電話があり
Kりん 「きょんちゃん 今なにしてる?」
きょ 「え?CoCo壱でカレー食べてる。」
Kりん 「わかったー」
といって 数分後に ケーキを持って 汗だくのKりんちゃんが CoCo壱に入ってきた。
こんなことは このCoCo壱店舗史上初めてだろう。
真夏に 汗だくで ケーキを届けるOLが乱入。。。
つーか
もし私がオフィスに携帯を忘れてたらどうしてたんだろう。
もし 電話に気がつかなかったら?
もし この日 外勤務だったら?出張だったら?休暇を取得していたら?
いったい どーしてたんだ?! 君は!!
と聞いてみたら 「えー だって事前に電話したら サプライズじゃないじゃーん。」
そうだけど!!
そうだけども!!!
・・・
いやー こういう無鉄砲なおともだち大好きです。
おばさんになっても おばあちゃんになっても こういうお友達たちと 無鉄砲なこと や くだらないこと アホなことを 全力でやっていきたいなー
と思いました。
Kりんちゃんが男だったら 確実に恋に落ちていたね。
Kりんちゃんの あったかいハートに感謝。
いつも日本で誕生日を迎えないので、なんだか携帯メールや電話でお祝いされたり プレゼントをもらったりするのは
なんだか新鮮です。
正直 「まあ 私なんかの誕生日を祝うほど 暇な人はおらんがね。」なんて思っていたけど
意外とみんなお祝いしてくれるので こんな私の誕生日をお祝いしてくれるあたたかい仲間たちに心から感謝。
誕生日は 親と友達に感謝する日だなあ。
とくに わたしは みんなの優しさと愛で 命を繋ぐことができたので。
もう31歳になっちゃいましたが
生んでくれてありがとう。
そして31年という人生の中で 私に笑顔をくれ続けているともだちみんなに
ありがとう。
みなさん、まずは、これ ↓ を読んで 素直にやってみてください。
************************
あなたにちょっとやってもらいたいことがあります。
バカにせず 必ずやってください。
必ずですよ。
ではいきます。
「はい、まず右手を頭に載せて!」
「乗せましたか?」
「ちゃんと乗せましたか?OK?」
「では その手を右回りに回してください」
・・・・
「よしよし あなたはよくがんばってるよ ^^」
************************
↑ は 私のトンガ時代の協力隊同期Aちゃんが 送ってくれた小包に入っていた言葉です。
「名言セラピー」という本のページをコピーしたもののようなんだけど、
私は この文章の言うとおりに 何も考えず 頭の上に手を乗せて 右回りに回したんだけど
右回りに回しつつも 意味がわからず、、、
ん、、、で 次はどうしたらいいんだ???
と読んでいったら
「よしよし あなたはよくがんばってるよ^^」という一文にたどり着き
うぁぁぁ・・・・ と なんだか グッときて
そして その「よしよし あなたは・・・」の文章の横に「←きょんちゃんに伝えたい言葉です♪」との Aちゃんのメッセージが手書きで書いてあるのを見て
手を頭に乗せながら 涙が出ました。。。
実はAちゃんからの小包は 一ヶ月半くらいまえに届いていたんだけど、
私は7月一杯まで 徹夜残業や休日出勤、出張続きで 自分をコントロールできなくて
部屋もゴミ屋敷、洗濯もままならず全部クリーニング、食事も三食コンビニという生活で
プライベートのスケジュール管理もできず メールも読んだか読んでないかわからなくなり 自分に届いた手紙や荷物を開ける気力もなく 毎日 出勤することに必死だった。
だから 小包も今になってようやく紐をほどいた。
自分をマネージできないダメダメな私にいつも優しさと愛情をくれるAちゃん。
小包には 栄養ドリンクやお菓子 韓国のお茶(私が好きなやつ)がたくさん入ってた。
小包には 愛が たくさんたくさん詰まっていた。
私が事故にあったあとも、Aちゃんは一緒に泣いてくれたり 心の底から 「大丈夫」って言葉を送ってくれた。
いつも助けられてばっかりだ。
情けない。
今の仕事は 繁忙期(5月~8月)は 人間らしい生活ができないし
いろんな意味で負のストレスが ドシッ ドシッ と 襲ってくる。
負のストレスや 嫌な出来事が続いて 卑屈になったり 嫌な気持ちを持ったりする日が多い。
日本語教師の時は、自分の理想(=生徒の為に いいと思ったことは全力でやる。)に向かって突き進めばよかったし
それを校長を始めとした同僚はもちろん、何より生徒がしっかり受け止めて理解してくれたから ピュアに頑張れば頑張っただけ成果が出た。
けど、今は ピュアにがんばったら逆に評価されないことも多いから
「心を込めすぎずに仕事をしよう。そうすれば後で傷つかないもん。」なんて 保守的になったりする。
傷ついても 落ち込んでないフリをしたり はたまた やさぐれた感じで諦めたり。。。
そんな自分が嫌いだけど
とにかく 最近は 何も考えず 心も込めず 目の前の仕事を黙々と一生懸命やってきた。
実際 一生懸命やらないと終わらないし。
仕事のスキルがアップしたとか
国内外の政治関係のVIPと接する機会が増えたとか
残業ばかりで給料が増えたとか
そんなことで 自分が頑張ったことを評価してもらえたとは思えない。
やっぱり 「ありがとう」って 笑顔で言われることが 何よりのご褒美。
日本語教師の時は 毎日3時4時まで残業だったし、しかももちろん残業代は出なかったけど
でも 学生たちの笑顔や 校長や同僚の理解があったから どんだけ辛くても 苦じゃなかった。本当に。
なんなんだろうな。。。
なんて思いながら ようやく繁忙期が終わりに近づき 今日 数カ月ぶりに部屋を掃除し 小包も開けたら
Aちゃんからの 言葉。
トンガで一緒に苦楽を共にしたAちゃんから
「よしよし きょんちゃんは よく頑張っているよ。」
って本当に頭を いい子いい子されたみたいで
涙が出た。
トンガでの協力隊時代から 4年が過ぎた。
あの頃から 私は何か変わったのかな。成長したのかな。
よく わかんなくなってきたけど
自分らしく生きているのかどうか わからない。
海外で働いていたときは 「This is MY life!!」って胸を張って言えたが
今は 悩むなあ。
「人生で “笑うこと"が一番大切だと思ってます!」
これが私の生き方だけど 最近は トンガの時みたいに心から笑顔で笑うこと あっただろうか。
この前 一緒にお仕事をしたミャンマー人の通訳さんと話していたときに
その通訳さんが
「私は 心が落ち着かなかったり 疲れたりしたときに ブッダの言葉を読みます。そうすると心が落ち着くんですよ。
今日も電車の中で ちょっと嫌な事があったので ブッダの言葉が書かれている本を開いて 一節を読みました。気持ちが落ち着きましたよ。」
と言っていて
そういえば、私 ブッダの言葉が書かれた本を3冊くらい持っているけど、いつも読もう読もうと思って読んでないなあ。と思い 家に帰って読んでみた。
確かに これはいいかも。と思い それ以降 心がざわついたときには読むようにしている。
Aちゃんが教えてくれた 「いい子いい子」は、
今の職場の同僚や 疲れている友人達に さっそく教えようと思う。
日々の忙しい生活の中で 忘れてしまいがちな 他者への優しさ。
Aちゃんは いっつもそれを教えてくれる。
私の先生のようなヒトだ。
自分が辛いとか 苦しいとか言う前に 周りの人に優しくしよう。
自分が笑える様になる前に、周りの人を笑顔にしよう。
私の大好きなAちゃんのような女性になるために!
疲れている皆さん、肉体的にというより精神的に疲れているみなさん!
まずは手を頭に乗せて 右回しにまわしてくださいね!
そうです、あなたも 一生懸命がんばっています。すごいことです!いっぱい 「いい子 いい子」しましょう!
今週末も 休めんかった、、、
昨日は休日出勤で 21:00まで働いてしまった。
平日は23:00過ぎに仕事を終えるのが常だが、
休日出勤は18:00までには帰宅するのが 自分の中のルールだったのに、、、、
もちろん 昨日もハッピーターンを一袋とコンビニのコロッケのお決まりの夕食。
ハッピーターンは ただいま ハッピーパウダー増量中。
だから 私もハッピーになれるはず。
ただ 「何これ、前より塩っ辛くない?」と、私の同僚は増量されているハッピーを邪険に扱う。
家に帰って たまった洗濯物を片づけ、
先週の出張後、そのまま開けたまま放置して 部屋のど真ん中に堂々と横たわっていたスーツケースを片づけ、
ゴミなども回収。
いつもだったら 汚くても 疲れが勝り 片づけなんかできないが、
昨日はどうしても掃除しなくちゃいけなかった。
だって、翌日にお茶のお稽古があるから、着物広げる時に床が汚いのはNGだから。
で、結局 片づけだして、明日のお稽古の準備をして、洗濯物干して、アイロンかけて、ってやてたら 夜が明けていた、、、、
1時間半寝て 起きる。
急いで 着物を着て お茶のお稽古へ。
今日は入門・習事という御許しを受けたので(細かい説明は省きます。お茶の資格のようなもの?かな。) その講習会も兼ねていたので
休めない。
けど、着物着て、湿度のある空の下 まる一日お稽古は途中で気を失いそうでした。
頭が かなりの大工事だったよ。ガンガンガンガン。。。。
んで、17:00頃 帰って着物を脱いで
明日から続く外勤、出張、打ち合わせに備えて 夏のスーツを買いに行く。
夏のスーツはもちろん持ってるけど 今年は訪問先でも(とくに ●●省、、、)クーラーきいてないし
裏地付きのスーツじゃ 無理!!
スーツ買って、出張用の先方への手土産買って、、、
って気が付いたら 22:00帰宅。
もう。
いや、、、
ちきしょー
明日からまた こんな日々が続く。
来月が終わるまでつづく。
でも 負けない!
気力で乗り切る!
もう
やけくそだーーーーーー!!!
んで 来月は習い事は ちと控えます。まじで倒れるよ。。。
ふ~ろ~にはいって~ ねるだけ~
ねむることさえ で~きない~
おもいだすことが できない~
ねむることしか できない~
・・・・・・
今年もまた この季節がやってきた。。。
↓ ↓ ↓
いちねんまえのわたし
今年は 3月の地震後に 私たちの実施しているプログラムは全部キャンセル OR 延期になった。
先の読めない日本国内の不安定な状況は 年内には解消されるわけではないので、
今年は きっと一番の繁忙期である6月、7月もプログラムはほとんどないんだろうなー なんて同僚と話していたんだけど
大間違いでした。
3月、4月に延期になったプログラムが今のタイミングで
どどどーっと再会決定となった。
しかも実施日まで ほとんど仕込みの期間なし。
去年と同じ忙しさじゃん。。。。
まいにち まいにち 働きすぎです。
外勤も多い。
出張もある。
休日出勤もつづく。
夕飯を家で食べたのはいつだろう。
部屋をそうじしたのはいつだろう。
洗濯が山積みだよ。
頭いたいー
なんか 時々 手足がしびれるー
これ マジにやばいんじゃん?って思ったら
同僚の何人かが同じ症状。
よかった。あたしだけじゃないのね。、、、、、 って 安心していいのか?!
今週は 風邪ひいて 微熱がずーっと続いてたけど 休めんかった。
明日、本当はとある研究会に参加する予定だったけど 休日出勤決定。
明後日は お茶の夏期講習だけど、行けるかな、、、怪しい。
乙女として 夏を楽しみたい。
最近の楽しみは、深夜残業時に食べるハッピーターン。これ食べるとハッピーになる。
疲れてるわ。
私。
今日、
先週に私が担当したプログラムの事後作業に入っている通訳さんが 「この文章読んでください!感動しますよ!」ととあるホストファミリーさんの感想文を持ってきた。
「私のうちに滞在した◯◯くんは すばらしい子でした。一緒に過ごして 彼から教わることがたくさんありました。
私の息子が ◯◯くんに “言霊”という言葉を教えました。すると ◯◯くんは “僕ハ マタ日本ニ来ル。絶対来ル。僕ハ このおうちに マタ来ル。”といったので家族全員で涙を流しながらその言葉を繰り返しました。」
という内容で 目頭が熱くなり
「遠い◯◯という国から はるばる日本まで(そしてこのタイミングで)来てくれたことに 本当に感謝します」と書いてあって
就業中に 泣けてしまった。
地震の後、海外から日本に招くプログラムは全てキャンセルになり、若干日本の状況が落ち着いても 相手国から「実施不可」という回答をもらい続けていた中
実施にこぎつけるまでには それはそれは長い道のりだったわけで
かつ
自分の中でもいろんな葛藤や迷いがある中 ただただ 目の前の仕事を片付けて 片付けて 片付けて、、、、。
そしてなんとかそのプログラムを無事に一つ終え、 ホッとするまもなく次のプログラムの仕込みにとりかかっていたんだけど
なんか 一瞬気が緩んだ。
その後 何度か その感想文を呼んで ウルウルした。
いろんな 思いがあるのです。
癒されたい。
5月2日から7日まで 石巻に行ってくるよーという記事をアップしてから、はや1ヶ月。
あっという間に 時間が過ぎてしまいました。
石巻から帰ってきてから、
心が不安定で ちょっとブログを書く気になれなかったことと
さすがに仕事が山積みで、毎日深夜残業の日々。
週末は、寝貯めするか 3つの習い事のお稽古やらで ずーーーーーーーーーーーーっと休むまもなく今日に至ってしまった。
明日は、1ヶ月ぶりの 一日全く予定なしの日。選択しなきゃ。掃除しなきゃ。
さすがに 心も落ち着いたので 石巻で思ったことを書いてみようと思う。
深夜バスで石巻に着いた日には、石巻に住む、大学時代の友人と再会することができた。
「おめー ここ危ねえんだぞ!よく来たな!?」と怒られながらも
久しぶりに友人の顔を見て安心した。
友人のお母さんが作ってくださった ナッパ。野菜ジュースもいただいた。
まだ、何も貢献出来ていないのに、いろいろご馳走になってしまって申し訳なかったけど、
友人ご家族のあたたかさ、やさしさが ナッパと野菜ジュースと友人の顔から伝わってきて えらく感動した。
以降、私は6日間、石巻に滞在し、ボランティア活動をしたわけですが、
前回の宮城県亘理町での3泊4日のボランティアの時とは、感じたことや 心に迫ってきたものは違いました。
これは別に、被害の大きさの違いを比較して言っているわけでは決してありません。
実際 石巻も亘理もどちらも相当の被害を受けていたし
また もし、たとえば、被害が小さいものであったとしても、少しでも誰かを苦しめているのだから、被害は「大小」というスケールでは測れませんし。
では何故、亘理町のときと感じたものが違ったのかというと、
・滞在日数が倍だったこと
・滞在先が地元の方々のおうちの近くだったこと
・友人の故郷だったこと
に起因するのだと思います。
6日間の活動中、石巻のあちこちに行きました。
数日間かけて活動したおうちの人たちと いろんな会話をしました。
ご近所の方たちとも 交流がありました。
毎日 30人ほどのボランティアと一緒に寝泊りをして いろんなことを話して 活動しました。
いろんなことを見て、知って、感じた結果、
これが自分の友人の故郷で起きていることなんだと思うと、どんなに頑張っても涙がこらえられませんでした。
涙の理由を考えたんだけど、
それは 「かわいそう」とか そういう類のものじゃなくって、
自分の友人や その家族、 その友人、お手伝いをしたおうちの人、その家族、その友人、この町の人、みんなの身にこれが現実として起きていて
そして、自分ができることなんて この大量の泥やその他のものの、ごく一部を片付けることだけで、
被害の大きさからしたら 役に立っているのか 立っていないのかわからないくらいのことしかできないってことが苦しくて、
それ以上に、
ここにいる方達が抱えている苦しみや悲しみ、ストレス、怒り、無気力感などを、 どんなに頑張っても分かってあげることができない ということが
本当に 苦しくて 情けなくて 泣けてきた。
自分は家を失ったことも、家族や友人を災害で失ったことも、愛する町を失ったこともない。
だから、ここの方達の苦しみを想像することはできても、本当の意味でわかることはできない。
そんなことわかっていたことだけど、
なんだか 石巻に滞在して、心の底からそう思った。
石巻の方とお話ししているときに、「他人にとっては”瓦礫”でも、私にとっては それは家であり、生活であり、思い出であり、、、”瓦礫”じゃないんだよね。」と仰っていて
本当だなと思った。自分だったら、絶対に「瓦礫」なんて呼んでほしくないなと。
5月5日は こどもの日だったけど、 いろいろな意味で 軽率にお祝いできないなとも思った。
私は 今までテレビやネットのニュースで、胸を痛め 涙を散々流してきたけれど、現実は その 数千倍、数万倍以上の涙を以てしてでも足りないんだってわかりました。
東京にいると、
3月の地震後のピリピリしたムードが もう ほぼ無くなってきていて 普通の生活が動いている。
ニュースも 3月、4月よりは 東北について扱う時間が少なくなってきている。
だから、「もう 東北は落ち着いたんじゃん?」なんて思ってしまう人もいるとおもう。
でも、
東北では まだまだ まだまだ まだまだ 力が必要だし、 落ち着いたのは 東北以外の人たちだけだと思う。
まだまだ まだまだ まだまだ 人の力も、時間も、お金も 全然足りていないと思う。
だから なんというか、 とにかく 機会があって 気持ちのある人は 東北にいってボランティアをして欲しいと思う。
本当に そうしてほしいと思う。
日本人として、同じ日本人が向きあって、戦っていることを 実際に見てほしいし、知ってほしい。
私は 東京に戻ってきてから、
キラキラ輝く新宿のビル群を見ると なんだか泣けてきてしまいました。
東北の状況とは まったく別世界で もう日常が完全にもどってきている東京に
なんだかついていけなくって 整理ができませんでした。
相変わらず 「東北の方達の苦しみを 少しでも私たちが背負えたらいいのに、、、、」と思いながらも、実際はやはり同じ境遇じゃない私たちが気持ちを察することなんてできないわけで、
なんだか 苦しいし 悲しいし 申し訳ないし、、、というのもあった。
でも 石巻で知り合ったボランティア仲間の人にその話をしたら
「自分もそういう思いを抱えていたけど、でも石巻で活動して思ったけど、東北の人は苦しみや悲しみを背負ってほしいなんて思っていないんじゃないかな。
ただ、一緒に手をつないで前に進んでほしいって思っているんじゃないかな。」
と言っていて、その人は私よりも長い期間石巻にいて、石巻の人たちともたくさん仲良くなっていたので、この言葉には とても納得しました。
この人の意見も この人、私、またその他のボランティアが 希望する答え に過ぎないのかもしれないけど、
でも 「なるほど」と思いました。
私は また東北にボランティアに行きます。 今は仕事の繁忙期なので 夏あたりに。
泥だしボランティアでも 炊き出しボランティアでも 仮設住宅サポートのボランティアでも、観光促進に寄与するための観光であっても
とにかく 完全に復活するまで 行き続けたいと思います。
亘理町でもそうでしたが、
石巻でも、住民の方たちが 本当にあたたかくて、話しかけてくれて、ボランティアの私たちのためにお茶やジュースをふるまってくれたり
「おれんとこ来たからには 絶対昼飯はくってけよ!くってかないと とっつかまえるからな!」と 顔をくしゃくしゃにしていうお父さんがいたり
「活動中 トイレに行きたくなったら、いつでも うちのトイレ使いなさい!うちのトイレは大丈夫だから!」と 女の子達に声をかけてくれるお母さんがいたり
活動後 歩いて帰っていると かならずすれ違う人たちが 「ご苦労様!」「ありがとうね!」と言ってくれたり
本当に 素敵な場所です。
美しい場所です。
笑顔もあります。 少しずつかもしれませんが 生活が動き始めています。
そういう元気な面も 東北以外の人たちには知ってほしいと思いました。
あと、やはり世界各国から 一般ボランティアが来ていました!
カナダ、スイス、フランスなどなど。
なかには 「この震災を知って 会社に3ヶ月休みをもらって やってきた。」というヨーロッパ人がいて、毎日真摯に活動をしていて 尊敬をしました。
あと、今回は NPO団体の活動に参加したわけですが、このスタイル、結構効率的だと思います。
GW中は 各自治体のボランティアセンターはパンク寸前だったらしいので そういう大型連休時には 個人がボランティアセンターから仕事を割り振ってもらうよりは、
ボランティアセンターが いくつかの団体に大まかに仕事を割り振り、その各団体が ボランティアを募集して 委託された仕事を割り振るという作業をすれば
元締めのボランティアセンターの負担はかなり軽減されると思います。
ちなみに私の参加した団体は、今も活動中です。
私たちができることは、日々の生活の中で 東北の現状を忘れずに 各人が無理のない程度で できることをする。
規模の大きいことをすることも大切かもしれないけど、同時に 長期にわたり 少しずつでも続けることも大事だと思いました。
ということで、亘理町の次は 石巻に行ってきます。
活動期間は5月3日~5月6日。
実際は移動の関係から 2日の朝から7日の午後まで石巻にいます。
GWは たくさんのボランティアが集まるということで、
各地のボランティアセンターが ボランティアを捌くのが不可能になるということだったので、
GWは
①ボランティアをせずに東京にいる
②NPO、NGOなどの団体を通して参加する(=現地のボランティアセンターには迷惑をかけない)
このどちらかにしようと思っていたところ、
予てから注目していたNPO団体の「泥かきボランティア」に採用されたので、行ってきます。
亘理町でも思ったんですが、人の手はあればあるほどいいと思うんです。
まだまだ手付かずの場所がたくさんあるから。
でも それを取りまとめる各地のボランティアセンターさんは 本当に大変です。
例えば 100人の個人ボランティアがやってきたら、その100人に対して対応しなくちゃいけない。
中には 「せっかく来たのに 仕事を割り振ってもらえない!」と文句をいうボランティアさんもいるそうです。
なんだか変ですよね。
仕事がないっていうのは それだけたくさんの手がある、もしくは復興活動が順調ってことなのに。
そういう苦情なんかにも対応しなくちゃいけないボランティアセンターさんは大変です、、、、。
だったら、NPO,NGOなどの団体を通して参加すれば、その団体には100名単位のボランティアがいたとしても
実際に ボランティアセンターさんとやりとりをするのは団体の担当者1名だけになるので、ボランティアセンターの負担は減るのではと思います。
もちろん、これはGWなど ボランティアがたくさん集まるときの話であって、通常は 個人でもどんどんボランティアに行ったほうがいいと思います。
今度は NPO,NGOがどういうふうに関わっているのかもお勉強させていただきたいと思っています。
自分にとって こういうのに参加するのは ご飯をたべるのと同じくらい当たり前のことなんだけど、
東海沖地震が起きたときは 自分たちが主体になって東京を建てなおさなくちゃいけないんだからいろいろノウハウも身につけるってことを
頭の片隅にいれえおかなくちゃと思います。
これは 私が亘理町のボランティアに参加したとき、某区の福祉協議会のご担当者がおっしゃっていたことですが。
某区福祉協議会が募集した「宮城県亘理町災害支援ボランティア」に同僚と一緒に応募をし、
4月16日(土)~4月19日(火)まで活動をしてきました。
19日(火)の夜に東京に戻って、翌日から出勤しドタバタと働いていたのでアップするのが遅くなりました。
いろいろと思うところがあります。
今回は、行き帰りのバスのアレンジは某区がしてくださった。(現地に着いた後は、その福祉協議会の職員さんは亘理町のボランティアセンターの運営補助に入るので、活動自体は自分たちが自主的に行う形でしたが。)
そのお金は福祉協議会をサポートしている方々が納めているものなのだから、
私の義務は、現地の活動を報告すること。
でも、活動中あまり写真を撮る気持ちになれなかったし、
撮ったとしても、その中に個人宅が映っていると やはり公開するのを躊躇してしまいます。
でも可能なかぎり 津波の威力や被害の爪あとを 共有したいと思います。
一番必要なのは、長期的に東北が注目され続けることだと思うので。
↓線路に流された瓦礫
宮城県亘理町の状況ですが、
4日間という短い滞在で、全容を把握できるわけもないので、多少現状と違う部分もあるかと思いますが、
私が4日間で見た状況や様子をまとめてみます。
津波に来た地域は、テレビで見るような状況。いやそれ以上。
しかし 津波が到達しなかった地域は、少しずつ普通の生活が始まっています。上下水も電気も復旧し、スーパーや飲食店も営業をはじめています。
東北に物資を優先的に送っているので、水、ヨーグルト、納豆といった関東ではなかなか手に入らない物資も整っていました。
津波が来たところには 何も無い。 津波が来なかったところは、少しずつ日常が始まっている。
ある一線を境に、この二つの全く違う世界が 同じ場所に存在しているのです。
津波の被害に遭う前の景色を知らない私でも、被害の状況を見ると 苦しくなり怖くなりました。
そして テレビの報道だけでは感じられない被害の規模。
見渡すかぎり荒野になった地域に佇むと、
「復興までにいったい何年かかるんだろうか。そもそも、本当にこれほどまでの規模の被害を 復興へと導けるんだろうか。」
と、不安になりました。
しかし、同時に 安心した部分もあります。
まずは、宮城の人たちが思った以上に元気だったこと。笑顔も見受けられたこと。
もちろん、無理をしているんだと思う。頑張らなくっちゃ、笑顔でいなくちゃって無理をしているところもあるんだと思う。
でも、その無理した元気と笑顔すら見ることができないんじゃないかと思っていたので、
たとえ無理していたとしても 元気と笑顔が出始めていることに安心した。
あとは、経済が回っているということ。
スーパーにはお惣菜がたくさんあったし、ほかほか弁当や回転寿司も営業していた。
亘理町よりも北にある地域の状況はわからないけど、亘理町は通常の生活ができるくらいの物資はあった。
そして、何よりも安心して感動し、驚いたのは
日本全国から、老若男女がボランティアに集まっていること!!!!
私たちは 某区福祉協議会を通して亘理町までやってきたんだけれど、
実際に亘理町に行って、活動しているボランティアさんと話をしてみると、
皆さん、自家用車、深夜バス、電車などを使って自力で来ている方たちばかり!!!
震災の影響で入学式が延期になっている新大学生もたくさんいた。
中には、一人でやってきた女子大生もいた。
大手企業にお勤めの方もいたし、67歳のおじさまも。
私の知りうる限り 北は北海道から 南は長崎まで。
一番驚いたのは、高校三年生!!
これにはびっくりした。
同じ高校の同級生二名が、ボランティアに参加することを決め、
学校の先生に話したら、こんな状況だから行ってきなさいと、先生に後押しされたんだとか。
学校も欠席扱いにはなっていないそうで、学校のサポート力、「可愛い子には旅をさせろ」という精神に感動した。
何よりもすごいのは、彼らの親。
よく出したなと思う。すごいなと思う。
年頃なのか、口数は少ないコ達だったけど、泥だらけになって頑張っている彼らを見て 日本もまだまだ捨てたもんじゃないって思った。
↓ お昼休み中
亘理町での活動は
泥だしがメインでした。
体の上から下まで泥だらけ。
泥の中から魚が出てきたり、かなり匂いがキツイときもあったけど、
グループのメンバー(当日仕事を割り振られて 即席のグループができる)と一緒に、依頼主(家の持ち主さんなど)と話をしながら
作業をしているとあっという間に一日が終わる。
気がつけば 泥の山が無くなっている。
人間一人でできることなんて ちっぽけなことだ。
でも 「何かやろう!」と思っている人たちが日本全国から集まれば
家から泥がなくなって、泥まみれの家が綺麗になって、家の持ち主の気持ちが明るくなる。笑顔が出る。
そして、
東北以外の地域に住んでて 「自分も力になりたい、自分には何もできないのか、、、、」と自分の無力さに苦しんでいた私たちの気持ちも明るくなる。
私の愛するトータスが言っている。
「日本は強い国。みんなでがんばれば 絶対に乗り越えられる。日本の力を信じてる」
こういったセリフを、今回の活動を通して 素直に信じられるようになった。
自分は元協力隊員だから 自分の周囲には協力隊関係の「熱い人」、「誰かの為に自分を犠牲にしてお手伝いをすることが当たり前の人」達が多い。
でも、そういう人たちが、協力隊関係者以外にもこんなにたくさんいるんだってこと、知らなかった。
私の職場では
ボランティア休暇を取得して東北に災害ボランティアに行ったのは私たちが初だったので
「なんだかんだいって、みんな冷めてるのねー」なんて思ってたけど、
日本人、意外と すごいじゃん。
数年ぶりに日本人好きになった。
テント生活も ボランティアの人たちで助けあって過ごしたので 困ったことはなかったです。
とはいえ、いわゆる普通の女子には キツイと思います。
バックパッカー経験者とか、超体育会系女子とか、途上国でのボランティア経験アリとかの女子なら 問題ないかと。
日々 ニーズは変化していきます。
泥かき以外にも 物資仕分け、り災証明書の問い合わせに対する受け答え業務などなど。
実際に私も、「一人暮らしのおばあちゃんと一緒に寝る」というのも担当しました。
一夜だけでしたが、身寄りの無いおばあちゃんが余震が怖くて眠れないというので 一緒に寝るというもの。
震災直後は まずはライフラインの確保のみだったニーズが、
これからは細分化される。
だけど、日本の人たちが それぞれ得意な分野で支援をすれば 絶対乗り越えられる。
日本の力、日本人の心意気を感じた4日間でした。
私も まだまだ まだまだ 支援活動を続けます!
なんだかんだいって、まだまだまだまだまだまだまだまだ時間がかかります。
まだまだまだまだまだまだまだ 人の協力、力、義援金、支援金必要です。
一番大切なことは、東北の人たちが本当に心から笑える日まで 支援をやめないこと。注目をし続けること。
これに尽きます。
最後に 某区の福祉協議会の方たち、一緒に活動したボランティアの皆さん、亘理町のボランティアセンターの皆さん、自衛隊の皆さんに心より御礼申し上げます。
毎日 ニュースを見て、新聞を見て、グっとこみ上げる。
涙が出る。
自分には何が出来るだろう。
募金は自分が払える金額 MAX支払った。
救援物資も たくさん送った。
関東でできるボランティア(泥撤去や物資仕分け)もやった。
でも、もっともっと力になりたい。
これまで 海外の途上国で 現地の人達のために 自分の全てを捧げるような生き方をしてきました。
だからといって 日本国内のことを軽視してきたわけではありません。
「困っている人や 悲しんでいる人 厳しい状況にいる人がいたら 一緒にがんばりたい。
そして一緒にがんばった後 一緒に最高の笑顔で笑いたい。」
それだけのシンプルな動機で 活動してきただけ。
自分にとっての最高の幸せは、一緒に頑張った人たちとキラキラとした笑顔で笑いあうこと。
舞台が途上国だったのは、そういった厳しい状況にある人たちが 途上国に多いから。
ただ それだけのこと。
国際協力をして、国内協力をしないのは、私のポリシーに反するのです。
これまでやってきたことと 同じことを 国内でもしたいのです。
そして よく考えたら 私のこれまでの人生
◆風呂なし生活 → 経験済み
◆テント生活 → 苦ではない
◆電気がない生活 → 日常茶飯事
こういったこと 当たり前だった。
つまり、私はいわゆる日本の一般女子よりもサバイバル生活に慣れている。
・・・・・
行きましょう。
東北に行きましょう。
外部のボランティアを多く受け入れる体制が整い、
とにかく人数が必要な今となっては、 もう 行かない理由が見つからない。
そう思って
JOCA災害救援ボランティアに登録
東京都民ボランティアの応募にチャレンジ
などなど 現地に行くルートを探していましたが
JOCAは登録したはいいが、応募人数が多いのか 「待ち」の状態
都民ボランティアなんて、説明会(100名募集)にweb応募しようと、応募開始日にwebサイトを開いたら大量のアクセスが集中してサーバーダウン。
1時間画面の前でねばるも、応募すらできぬまま 締め切られてしまった。
なんだかなあ。
行きたい気持ちが強いので、なかなか行くことができないと 消化不良になってしまうけれど、まあ、希望している人がたくさんいるということは よいこと。
長期に渡る援助が必要なのだから、焦らず タイミングを測ればいいのさー と思っていたところ、
これまで一緒に宮城入りのルートを探していた職場の同僚が
「これ 応募してみます?まあ 無理だろうけど、、、」
と言って 持ってきた募集案内。
都内のとある自治体の募集。
活動場所: 宮城県亘理町
期間: 3泊4日
募集人数: 5人
5人!?
「都民ボランティアの説明会 100名枠のところ、応募することすらできなかったんだから 5名枠は まあ無理だね(笑)」
とはなから諦めつつも、FAX応募だったので、都民ボランティアのweb応募とは違い、「応募すること」はできるので 応募してみた。
私も同僚も 元青年海外協力隊員だったので、一筆 その旨 書いておいた。あと、泥撤去ボランティアと物資仕分けの経験アリとも。
締切りは翌日だったので、不採用通知がくるのは明後日かしらねー そしたら また別の団体探さなくっちゃねー
なんて言いながら、仕事後 その同僚と一緒にアウトドア専門店に行って ウィンドーショッピングしていたら同僚の電話が鳴った。
「お二人 採用です。」
とのこと。
応募締切りまで まだ1日あるのに、 その締切りを待たずして私たち二人とも採用が即決されたのは
ズバリ
「元協力隊員なんですよね。厳しい環境での生活には慣れていらっしゃいますものね~ (笑)」
という理由だそうです。
民主党の仕分け事業以降、世間の目は協力隊に対して冷たかったのに、
こういうとき重宝がられるのね。
世論って 不思議。
ということで 見事 5名のうち2名の枠をゲット。
テント生活、風呂なし生活なので、バックパックに寝袋、マット、水、コンロを詰め込み 準備OK。
明日から火曜日までの3泊4日。
月曜日と火曜日は ボランティア休暇を取得した。
東北には うちの団体の支所があるので、支所の方への寄せ書きも作った。
支所の方が手伝っているボランティアセンターが 私たちの行く亘理町の近くにあるので 寄せ書きと差し入れを持っていくのだ。
協力隊で学んだこと。
それは
現地の人の目線で、現地の人手動で、現地の人の気持を思いやることの大切さ。
そして
焦らず 丁寧に 慎重に 常に思いやりを持って 相手の立場で動くことの大切さ。
そしてそして
決して無理をしないこと。
一番大事なのは 自分が健康で無事に活動を終えること。それが一番 迷惑をかけないために必要なこと。
2年間の協力隊生活で学んだ上記のことを、活かそうと思う。
たぶん それが 私にできること。
元協力隊の 私ができること。
同じにおいのする 元協力隊の同僚と二人で 行ってきます!
やっぱり 協力隊のOB OGって価値観があうから いいね! OB OGってだけで 結束できる。
現地までのルートが確保できなかったり、
仕事の都合がどうしてもつかなかったりして 東北に行きたくてもいけない人たちがたくさんいる。
そういう人たちの分も 心を込めて 東北の方達のお手伝いを 微力ながらさせていただきたい。
微力だけど 微力がたくさんあつまれば 巨大な力になる。
みんなが それぞれが できることをやればいい。
東北に行かなくったってできることはたくさんある。
ただ 私は 人よりサバイバル生活に慣れているから 行くだけ。
そして 日本国民の税金で協力隊という活動をすることができたのだから、日本に恩返しする義務があるのです。私たち 協力隊には。 と 思う。
義援金、寄付金、支援金、、、
どこが違うの? 全部同じ意味?
答えはNOですね。
義援金 も、支援金も 寄付金の種類です。
では 義援金と支援金の違いはなんでしょうか。
義援金
日本赤十字、報道機関、被災自治体などで募っている義援金。
この義援金は、上記の団体などで構成される「義援金配分委員会」でまとめられます。
そして被災状況の全容が明らかになった後、この「義援金配分委員会」が、被害の規模(全壊か半壊かなど)によって配分を決め、
被災者個人(世帯)に「お見舞い金」のようなイメージで口座に直接振り込まれるのです。
つまり 被災者に平等に分配されるしくみです。
しかし、公平、平等というメリットと共に、
各自治体が被災者数や被災状況を正確に調査してからの分配なので、実際に被災者に届くまでに数ヶ月かかってしまうというデメリットもあります。
支援金
ボランティア団体、NPOなどの民間の団体が募っているのが支援金。
各団体が集めたお金は、その団体が必要と考える人々、地域に対して、物資援助、避難所への物資、炊き出し、心のケアなどの取り組みという形で使われます。
つまり、直ちに緊急の各種支援活動に使われるます。
しかし、即効性があるというメリットと共に、
お金の使い道が団体によって異なるので、「万人に対して渡される」という義援金と比べると不公平さが発生します。
募金する人が、各団体の活動をよく調べて、必要だと思う団体に募金することが大事です。
義援金と支援金。
どちらもとっても大事ですね。
義援金は、被災者の未来をサポートしていくものだから、とっても大事。
でも、未来は現在がなくては成り立たない。被災者の現在を支えるのは支援金。
私は、義援金と支援金の違いなど深く考えず、
地震の直後、日本赤十字の義援金募集に賛同して 指定口座に入金しました。
その後、義援金には即効性はないことを知り、都庁やその他の団体に物資を買って送りました。
義援金は、かなり高額を入金したのですが、
後で考えると 義援金と支援金 に半々で募金すればよかったなあーと思った。
いろいろ学びますねー。
今回の地震で、 いろんなことを考えるきっかけになっています。
うん。
自分らしく生きよう。
今日 そう決めました。
私は 元 協力隊だあー
東日本震災で孤立した石巻市の雄勝半島。医師がいない状態が続いたこの地域に、国際医療支援に取り組むNGO「ジャパンハート」(東京都台東区)の医師石田健太郎さん(28)が入り、
避難所で診察に当たった。「大丈夫の一言が何よりの薬」。こう振り返る石田さんは、前向きに生きようとする被災者の姿に感銘を受けたという。
雄勝半島は津波により通じる道路が崩れ、インフラも途絶した「陸の孤島」となった。
ヘリコプターなどで医療物資は届いたが、人が出入りできるのは干潮時のみ。長時間診療する医師はおらず、医師が来る前に避難所で亡くなった高齢者もいたという。
石田さんが駐在した大須小学校の避難者は約600人。みな不安な表情で、診察が始まるなり100人以上が殺到した。
石田さんは安心させようと、診断を告げる前にまず「大丈夫だよ」と声を掛けた。症状はさまざまだったが、その一言で、みんな生き返ったように表情が和らいだという。
声をかけ続けた結果、翌日以降は混乱も収束。石田さんは「薬よりも安心できる一言が大事なんです」と強調した。
私には 大切な「心の家族」がたくさんいます。
その人達は、一緒に苦楽を共にして 一緒に泣き笑い、励ましあい、生きてきた人たち。
「友達」という表現では その存在感を表現しきれず、
「仲間」という言葉でも まだ足りない。
一番 しっくりくるのは「家族」でしょうか。血のつながりはないけど、心は繋がっている「心の家族」
今までも これからも ずっと繋がっているであろう人たち。
以前、このブログでも書きましたが、
事故のあと、
私の肉体の命を救ってくれたのは お医者さんですが、
私の心の命を救ってくれたのは 「心の家族」たちでした。
事故に遭ったとき、
肉体が助かっても、心が助からなかったら、「生きている」って言えないんだと 知りました。
そして
人の心を助けるのは
心を込めた「言葉」なんだと 知りました。
私を救ってくれた「心の家族」たちの 一人は今 韓国にいます。
私の大好きな人です。
人を思いやる清らかな心、温かい心を、ナチュラルに持ち合わせている人です。
こういう人になりたいな。と 思い 私が尊敬している人です。
上の写真は、その人が 当時の私に送ってくれた言葉。
その人は 電話口で、泣いている私に
「大丈夫だよ」と言ってくれた。
その人の その一言は、不安と恐怖の闇の中にあった私の両肩を ガシっと掴み 闇の中に落ちていきそうな自分を止めてくれた。
その人が ありったけの想いを込めて言ってくれた 「だいじょうぶ」という言葉は 本当に魔法みたいだった。
その一言を聞いただけで、パーッと 光が差したような 地に足がついたっていうかなんというか、、、 とにかく見ている世界が変わった。
「安心」したのかな。ひとことで言うと。
後日 「あの日言ってくれた"大丈夫”という言葉、本当に私を救ってくれたんだよ」と その人に言うと、
その人は すぐにその言葉を色紙に書いて(上の写真)送ってくれた。
その色紙が届いたとき 泣きました。「えーん」と子供みたいに泣きました。
私の宝物です。
「言葉」ってすごい。
だから 東北太平洋沖地震の被災者にも、寄付金、義援金、救援物資、瓦礫撤去のマンパワーだけでなく、「言葉」が必要なはずと思っていたところ、
冒頭に貼ったニュースを見つけて、やっぱりそうなんだー。。。と改めて「言葉」の力、必要性を感じました。
そして 昨日テレビで、阪神淡路大震災に被災した人も 「医療よりも"言葉"、人と人とのつながりが感じられる”言葉”が救ってくれたんです。」というようなことを言っていた。
もちろん、
医療は一番 大事。
肉体の命を救うことは 一番大事。
それは大前提。
でも 医療だけでカバーできないことってある。 悲しいけど、「心の命」は「体の命」と連動していないこともある。
「心の命」を救うと、「体の命」が救われることもある。
「言葉」の力で。
でも ただ やみくもに 「大丈夫。」「ずっとずっと一緒にがんばっていこう。」「ひとりじゃないよ。」と言えばいいってわけじゃない。
その言葉に力を持たせるには、「心」を込めなくてはいけない。
「心」がこもっていない言葉は、ただの文字。
結局のところ
やっぱり 本気で相手のことを思いやれるかどうか なんだなあ。
私の大好きなその人は、今 韓国で「被災者に何も出来ない自分が無力でもどかしい。辛い。」と言っている。
でも 私は 思う。
その人の心は、思いやりの心は きっと被災者に届くと。
真の思いやりの心を持っている人の優しさや愛は、たとえ物理的な距離があったとしても、時間がかかったとしても
何らかの形で絶対に届く。
なぜなら その人には その力があるから。
そして その人にも 言いたい。
「大丈夫、ひとりじゃないよ。 私たちが一緒だよ!」と。
「一緒に 東北を支えていこう」と。
名もないネコ (トータス松本)
名もないネコ おまえは何故鳴くの
行きたいとこが みつからないの
名もないネコ お前は何を見てる
信じる人が だれもいないの
名もないネコ おまえは何故行く
俺の気持ちも 知らないで
さあ おいで
ひとりじゃないんだよ
もう大丈夫
ひとりじゃないんだよ
http://www.tortoisematsumoto.com/news/2011/04/post-35.php
やっぱり
こういうときは、
元青年海外協力隊としては、
現地に行って何か手伝いたい。
自分の身を捧げてでも 何か力になりたい。
と思ってしまいます。
しかし、今行ったところで素人の私にできることなどなく、逆に現地の人達の貴重な食料や石油などを消費するだけで邪魔になるだけでしかない。
ということで、自分に出来ることを一つずつやっていくことにしている。
まずは 赤十字に募金した。
先週の土曜日は、知人の会社が有志で千葉県の液状化の影響で積もり固まった泥を かき出す作業をするというので、その会社の人達に混じって 6時間 泥をかき出した。
で、都庁が救援物資を受け付けていたので 仕事のお昼休みを使って 都庁にダッシュし 同僚と一緒に 大人用オムツと 生理用品、体もふけるウェットティッシュと ホッカイロを届けた。
そして 今日は、とある団体が 救援物資を受付ているので、これまた職場の同僚と一緒にお手伝いに行った。
業務は 物資の受付と仕分け。
東北の人が、苦しんでいるのに、福島の原発では命をかけて作業をしている人がいるのに、自分は毎日普通に暮らしていていいのか、、、という思いは日に日に募るばかりだけど、
こうやって 何か行動をしていると、ちょっと気持ちが落ち着く。
結局のところ自己満足なんだけど でも一つ一つの行動が 少しでも東北の人に役に立てば、、、と思い 心を込めて作業をしている。
それにしても、それぞれのボランティア受け入れ先で、関東の人達が こうやって結束して何かをしようとしている姿を見るのは ちょっと感動だ。
泥かき作業は、ある会社の有志の方たちが発起人となって活動をしていたのだけど、本当にみなさん思いやりのある人で、
一緒に泥をかきながら、「東北の人たちはもっと辛いのよねー」なんて言いながら みなさん ほっとんど休まず6時間泥と格闘した。
都庁には 山のような物資が届いていて、仕分けボランティアは 毎朝 わずか20分でボランティア受付が締め切られたらしい。
そして 今日は某団体のお手伝いだったけど、朝9時から夕方5時まで、途切れることなく物資が届いた。
そしてボランティアのみなさんは これまたほとんど休まずに仕分けをした。
関東も捨てたもんじゃない、、、
自分は東京に生まれたので、よく地方の人から「東京の人は冷たい」と言われてきたし、自分も そう思っていたけど、
東京の人も やっぱりあったかいじゃん!と 思う今日この頃。
さてさて、本題。
今日、実際に仕分けして思ったこと。
都庁の物資受付の際に、都庁のホームページに掲載されていた「受付物資」について、なんか 制限が厳しいなあー と思っていた私。
---都庁の受付品目(未使用のもの)-------------
-------------------------------------------
「こんな事態なんだから、洋服とか毛布とか、食料も受け付けてくれればいいのに」
とか
「なんで、未使用の物だけしか受け付けてくれないんだろう。湯たんぽとか、ランプとかだったら 使用後のものでもいいじゃん」
って思ってたんだけど、、、、、
今日、痛感しました。
やはり、「洋服は新品もしくはそれに準ずるレベルのものがよい」「洋服以外も 出来る限り新品及び新品に準ずるもの、未使用、食品は必ず 新品、未開封のものがいい!」
ということを、、、
というのも
今日の団体は、今日の団体は 洋服も受け付けていました。 洋服は 新品 OR 選択済み のもの という制限でした。
その他の生活雑貨も 食料も 幅広く受け付けていました。
その結果、
やはり 仕分けていく段階で、、、、
「これは、、、、さすがに、、、、送れないよね、、、、、」 と 仕分けした人ほとんどが そう判断せざるを得ないレベルのものがたくさん出てきてしまうのです。
いくら 非常事態だからといって、、、、、
「これは、、、、 単にいらないもの、捨てる予定だったものを 持ってきていないか?」と 思ってしまうような残念なものも、、、
これは自省も含めててですが
自分が使った物、着ていた物って 愛着もあるし やはり贔屓目で見てしまうけど、他人から見たら、やはり古着なのです。
いくら非常事態でも、着ることに躊躇してしまうような状態の服を送るのは、、、、
髪の毛がたくさんついたピンや ゴムとか、、、
かなり汚れたぬいぐるみとか、、、
食料も同じで、使いかけの調味料とか、、、正体不明の海外の食品とか、、、
ちょっと 「うーーーん。どうなの?」 と迷ってしまいます。
これまでの災害支援では、物資を送る側のみでの協力だったので、
今回 仕分ける側、実際に取りまとめる側になってみて、初めて学ぶことがたくさんありました。
これまでは 自分も、「現地の人は きっと 物資がなくて困っているから 使い古した毛布や洋服でも きっと無いよりはましだろう。一枚でも、一つでも多く送ってしまおう」と思っていたけど、
自分の持ち物に対する基準は やはりちょっと緩かった(贔屓していた?)と思う、、、(^^;)
こういう線引きって 難しい。
そして 今日 作業していて得た情報ですが、
こういう時
自衛隊が かなりの量の毛布を持って行っているので、毛布などは十分足りているということだし、
洋服も、他のどんな物資よりも集まりが良く、これ以上受け付けても配布しきれないほど届いているということだったし、、、、
そうなると、、、、
量をたくさん送るのではなく、 必要なものを必要な分だけ そして求められているレベル(状態)のものを 送ることの大切さを学びました。
だから、、、やはり 可能であれば 新品、もしくは ほぼ新品に近い状態のものがいいと思う。
特に 洋服などは提供者が非常に多いので、ちょっと状態の悪いものならば送らず、いいものだけを送っても 十分足りるのだということが わかった。
実際 今日の団体でも、 もう洋服は新品しか受け付けない(可能であれば 洋服以外の提供をお願いしたい)という方向に変わりましたし、、、
何がいいたいかというと、
都庁とかその他の自治体が 受付物品の間口を狭くしていることは、ある意味正しいと感じたということです。
そして、都庁が 約1週間ほどで物資の受付を閉めきった(必要な量が集まったから しばらく見合わせる)判断も 正しいと思いました。
人々は、各団体が規定した物資に合ったものを持ってくること。
そして、各団体は、個々人によって基準がまちまちになってしまう物品指定の仕方はしないこと。
これ、大事です。
実際に活動してみて 初めて学ぶことがたくさんあった。
加えて、
繰り返しになるが、
こんなに みんなが物資を持ち寄り、そしてボランティアでたくさんの人が仕分けを手伝っている様子はとても素敵だった。
中には小さな子供を背負ってボランティアをしているママもいた。
あ、
あとね、どこのボランティアでも 「子供」が がんばっているんだよ! しかも小学生くらいのコ達がさ!
泥かきの日も、汗をかきながら、水を含んだ重い泥を 小学生が文句も言わず 泥を運んでいるんだよ。泣けるよね、、、
東京にいる小学生の多くは、四六時中DSやってる子ばかりだと思ってのに、、、
あと、腰痛持ちのおばさまも 泥かき がんばっていた。 なんか すごい。
日本はひとつ。
本当にそう思う今日この頃。
あ、あと 積み上げられた物資の山を見て思った。
一人ひとりが 一つずつ協力すると でっかいでっっかい山ができる ということ。
人の力って すごい。(;△;) かんどー
この度の東北太平洋地震で被災された方、ご家族、ご友人が被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
地震が起きてからもう10日以上経つというのに、テレビのニュースを見て涙を流さない日はありません。
こんなことが現実に起こるなんて、、、
一瞬にして全てが失くなってしまうなんて、、、
人の命が こんなにも儚いなんて、、、
そして 一度失ってしまった命は、どんなに願っても お金を積み上げても戻ってこないなんて、、、
1年半前、九死に一生を得た自分は、そんなこと身を持って知っていた筈なのに、それでもやはり受け入れられません。家族や友人達を失った方達の苦しみを思うと、心がズキズキ苦しいです。
地震、とってもとっても怖かったです。
地震発生時、私は上司と一緒に、今度のプログラムでお世話になる中小企業の町工場で打ち合わせの最中でした。
相当な揺れで、机の下に隠れましたが、上から額縁が落ちてきて割れたり、花瓶が割れたり
「これは、、、マジでやばいかも、、、こ、恐いかも、、、」と思ったけど
打ち合わせ先で 取り乱すわけにもいかず
「きゃー」などと一言も発せず、黙って揺れが収まるのを 机の脚をしっかり握って待ちました。
大きな揺れと余震が収まった時点で、上司と「とりあえず オフィスに戻ろう」とタクシーに乗り込んだ。
(地震直後だったので まだタクシーをつかまえられた)
タクシーの中で上司のワンセグで 津波の映像を見たとき、息が止まりました。
タクシーのラジオからは、
「津波到達時間は◯時◯分です。急いで高台に逃げてください!あ、すでに津波到達時刻です!映像でも大きな津波が次から次へと陸に近付いているのが分かります。今すぐ高台に逃げてください!あ、今、津波が到達しています!」
と 繰り返す声。。。
怖くて 怖くて、、、
自分の家族、友人達は無事か、、、
ドキドキしました。
結局 家族とは公衆電話から連絡がついて、一安心。
帰宅難民になったものの 夜中3時にはなんとか自宅到着。
本当に怖かった。
でも東北の方達が感じた恐怖、そして今も持ち続けている恐怖と苦しみに比べたら
関東の私たちの恐怖心や苦しみなんて ノミよりも小さいです。
一瞬にして 愛しい人たちの命がこの世から消えてしまう。
そんなこと 絶対に耐えられるわけがない。
私だったら 泣いて 発狂して 心が壊れてしまうかもしれません。
--------------------------------------------------------------------------
人が本当に苦しい時、人生でおそらく一番キツい状況、強い悲しみに襲われているとき。
周りの人は 何をすべきか。
芸能人やスポーツ選手が
「俺達はお笑い芸人だから、こういうときは笑いを届けるのが俺達の役目だ!」
とか
「私は歌手だから、この歌声を被災地に届けるつもりで歌をうたう!」
とか
「私たち選手が 精一杯プレーしている姿で被災地が元気になれば、、、」
とか
言う人がいるけど 私は そういうの「うーん どうかなあ。」って思っちゃう。
人って、本当に辛くって 苦しくって、悲しくって、不安なときは、
どんなに 面白い話を聞いても、元気の出る歌を聞いても 一生懸命プレーしている姿を見ても、
一切 受け付けられないと思う。
そういうことを受け付けられるようになるのは、一つ段階が落ち着いてから。
そうなる前に、無理やり面白い話を聞かされたり、ジョークを言われたり、元気の出る歌を聞かされても
「私の気持ちなんて わからないくせに!」と 感情を逆撫でるだけなんです。
人が一番辛い時、人生で一番苦しい時は、 「だいじょうぶ、一緒にいるから。ずっと 一緒にいるから。 私たちがあなたと一緒にがんばっていくから。」って 側で言ってもらうことだと思う。
これは 自分の実体験から感じたこと。
1年半前 事故に遭って意識不明の重体になり、死んでいてもおかしくなかった状態から、私は奇跡的に生還しました。でも 生還したからといって 全てがすぐに元通りになったわけではありませんでした。
頭から顔、口、腕、全てがもう傷だらけのぐちゃぐちゃで、「もう誰にも会えないのかも。」「外にも出れないのかも。」「もう働けないよ。」という恐怖と不安、悲しみは日に日に強くなっていったんです。
だから毎日泣いていました。
最初は 「やだねー フランケンシュタインみたいー(笑)」なんて冗談をいって強がっていたけど、そのうち強がることもできなくなって、人の優しささえも 時には受け入れられないこともありました。
そういう苦しい時期を助けてくれたのは、
地元仲間が「ずっと側にいるから。一緒によくなっていこう。」って言ってくれたこと。
トンガの同期が 「大丈夫だよ。」と言い聞かせてくれたこと。
家族が諦めずに側にいてくれたこと。
この時 「言葉の力」って本当にあるんだと知りました。
本当に 傷がよくなる保証もなかったし、後遺症だって どうなるかお医者さんだってわからなかったけど、
大事な友人が心を込めて言ってくれた 「大丈夫」「一緒に」というキーワードが
どれだけ私を救ってくれたか、、、
言霊?言葉って ただ文字が並んでいるだけじゃなくって 本当の思いを込めることができる。
友の言葉は 「うん、そうだね。」って思って 信じることができた。
そうやって たくさんの人たちが 諦めずに ずっと私と一緒に歩いてくれて
少しずつ元気になってきて、
その時点で、初めて お笑い番組、歌、スポーツの力を受け入れるようになった。
だから、
今は まだ余震も続くし、生存者の懸命な捜索が続いているし、原発もどうなるかわからないし、
家族を失って絶望の中にいる人がたくさんいる。また、遺体が見つかっていないから気持ちの整理すらつけられない人がいる。
そういう中で
お笑いや歌、スポーツで 被災者を元気づけよう!って考えは、、、、、
うーん、、、
そういうのって まだ早いよなあー って個人的には思っていたんだけど、
ビートたけしが
「こういう時にさ『芸人は被災地に笑いを届けることしかできない』なんて意見も あるけどさ、そういうのは戯言でしかないんだよね。飯がちゃんと食えてさ、
ゆっくり眠れる場所があって、初めて人間は心から笑えるんじゃないかな」。
「所とも話したんだけどさ、こういう事態の時にさ、着ぐるみなんか着てやってられないよ、って。こういう時には芸人は何にもできないよ。粛々とする
しかないんだよ。この震災が何とか落ち着いてから『これから頑張って立ち上がっていこう』って時に、芸人が役に立つんだ」
と言っていたとニュースで知り、
こういう本当の意味で 被災者を思いやることのできる心を持っている人が著名人の中にいるんだなと
ちょっと嬉しかった。
あとACのサッカー選手のCM、海外にいる選手が応援メッセージを言っているやつ。あれもいいと思う。
今必要なのは、スポーツ選手がスポーツをすることなのではなく、
「私たちが応援しています。側にいます。日本全体が見方です。」という言葉をシンプルに送ること。
私は今回 被災したわけじゃないし、大切な人を失ったわけじゃないけど、 事故のあと 立ち直れなかったときの状態を振り返るとビートたけしの言っていることは正しいと思うし、ACのサッカー選手のCMは素直に受け入れられると思う。
「救援」が「復興」にシフトしてきたら、そのタイミングで初めて スポーツやお笑いや歌の力が必要なんだよね。
私自身も、当時はウルフルズに助けられたし。でもそれは 体も心もある程度元気になってからの話。一番のどん底にいたときは歌なんて聞く気力さえもなかった。
今 自分たちができること、届けるべきことは
お笑いでも歌でもスポーツでもなく、そういった派手なパフォーマンスではなく
義援金を送ること、物資を自治体を通して送ること、節電すること、現時点で許される範囲のボランティアをすることだと思う。そして、そういうアクションを通して 被災者たちに 「ひとりじゃないよ。みんながいるよ。」と 伝えることかなと思う今日この頃。
ビートたけしと江頭、すごいと思う。
年末は 忙しく 1月はやや体調を崩し 2月は こりゃまた忙しく
ということで しばらくお茶のお稽古に行けませんでした。
なんかねー 体力がないんですよね 最近。 土曜か日曜 どっちかは休みたい。でも休めないのです。
で、運良くどちらか休めたら 一日寝こむ。
うーん。
体力がないなあ。
部屋の中に溜まっていく洗濯物。見て見ぬふりでまた一週間が過ぎていくー
夏が終わったら 夏が終わったら お稽古事、ちょっと休まねば体がもたん、、、
そんなこんなで 今日 やっとお茶のお稽古に行けることになったのですが、
疲れが溜まっているのでぎりぎりまで爆睡。
で、パッと目が覚めて 桐の箪笥から 長襦袢を出したら
ありゃ~
半襟 付け替えてないから 汚いー
けど 付け替える時間がない。。。
うー 恥ずかしいけど 仕方ない。
半襟も付け替える余裕ない生活、ダメだよねー 乙女として、、、
お茶の先生のおうちについて、3ヶ月ぶりのお茶のお点前。
意外にも 思ったよりお点前を覚えてた。
あー やっぱりお茶は いいねえ~
心が浄化されるなあ。
いつもドタバタしている生活の中で 唯一の「静」だわー
いつもの自分とは違う もう一人の自分でいられるのです。
今日は、お稽古するお部屋に、7段のお雛様が飾ってあった。
代々 受け継がれてきたお雛様。
お軸は、先生のお父様が詠まれた お雛様の詩が書かれたものだった。
お庭の椿は 美しく咲いていた。
主菓子は きれいな鶯色。その上に桜の花。
先生の帯には 桃の花と菜の花。
いいな。
美しいなあ。
日本って。