before dawn

青年海外協力隊でトンガにて活動、インドの大学で教壇に立つなどしていましたが今は母国で働いています。笑うことが一番大事。

天丼記念日を祝う with いつもの地元仲間

2009-08-25 00:11:10 | 日本での暮らし・考える事・思う事

             8月22日は天丼記念日です。

               (私の地元仲間にとっては。)



インドで暮らしていたときのご飯事情は、

朝 → ビスケットとチャイ
昼 → ミールス(インドの定番ランチ)
夜 → 自炊(日本食)


だった。

顆粒のだし と 醤油と砂糖さえあれば 日本食って海外でも簡単に作れちゃうしさー

トンガ時代と比べたらさ、インドの外食事情は めっちゃ優れているし 
 (というかトンガで住んでいた離島にはレストランがなかったな、、、

インドには野菜もお肉も豊富に売ってるし、カレーも手軽に買い食いできるし、
 (トンガの時は、島に 茶色い野菜(芋か玉ねぎ)しかない時期が長かった。)

トンガには2年間いたけど、インドには10ヶ月程度しかいなかったから、

インド滞在中は そんなに 日本食が恋しいってことはなかった。

でも 「日本に帰ったら 食べたいなーっ」てものはあった。

そ   れ  は 

  銀だこ と 天丼 !! 

だって、たこ焼きは たこ焼き器がなくちゃ作れないし、
天丼には欠かせないエビが インドで私が住んでいた町では手に入りづらかったし。

日本への帰国日が近づくにつれ、インドの美味しいカレーとの別れも寂しかったが、
銀だこと 天丼への思慕の念も強まる一方だった。
銀だこと天丼に対するテンションは最高潮だった。



そんな中、まさかの事態に陥った、、、
インドで事故に遭ってしまい、歯が8本ほど無くなってしまった!!

歯が無いだけじゃなく、
事故で 顔面のいろんな箇所を骨折したため、
口の中から手術をしたので 口の中はワイヤーだらけで、
口を開けるだけでも激痛が走り

インドの病院では 何も食べることができない日々が続いた。

それでも 生きる為に 「飲み込み」戦法で ヨーグルトやらスープで食いつなぎ
日本へ帰国。

日本に帰国したら、すぐ口の中のワイヤーは取ってもらえて 激痛の日々とはおさらばしたが、
入れ歯作成に 結構時間がかかった。

歯と一緒に 歯茎も幾分なくなってしまったので、傷が安定するまで入れ歯が作れなかったのだ。

しかし 食い意地とはすばらしいもので

「飲み込み」技術は 日に日に研ぎ澄まされ

なんと

入れ歯 完成前に


銀だこ クリア!!

あっぱれ 食い意地!!
(ちなみに にぎり寿司も 飲み込み戦法でクリア!)

しかし 銀だこは 柔らかいから飲み込めたけれど(蛸も飲み込めた!)

天丼は けっこう手ごわい外見をしている。

特に エビ天は 長い。 だから飲み込むにも 一度噛み切らなくてはいけない。

さすがに 天丼は 歯を入れてからだなーと思い

「私の今の目標は 早く回復して、天丼を食べること!!」

と 地元仲間に笑って話していたら、

「よし!! じゃあ 歯が入って初めて食べる天丼は 是非私達がお供するよ!! 」

というではないか。

しかも

「その日まで 私達も 天丼を絶つ!!」

というではないか。

さすが 地元の仲間。ともに、サッカーボールを追いかけてただけあるぜ。

20代後半。女盛り(?)の女性達が みんなで友情のために天丼を絶つ。

美しいではありませんか、、、、


ということで、この度 入れ歯も完成し、新しい歯の皆さんにも慣れてきたので

8月22日、事故から3ヶ月と2日たったこの日、

いつもの地元仲間のうち 独身組の 本ちゃん カナミ と

憧れの てんやに 天丼を食べに行った!!!


ちなみに 絶対 てんや じゃないと嫌だった。 だって てんや うまいじゃん。
はなまるうどん と てんや は 二大アイドルだね。私的に。


念願の 天丼っ!!!!  上天丼!!!


う、 う、 うめぇぇぇぇぇーーーーっ





天丼を発明した人は ノーベル平和賞をもらうべきだね。



ギャルも 天丼に大喜び。


20代独身女性3名、夏の週末に てんやで 熱い友情に感動。

天丼のたれ かけ放題。 そんな てんやの心意気にも改めて感動。

いい仲間に恵まれて あたしゃ 幸せだー 
天丼もうまいしさー あたしゃ 幸せだー



天丼を満喫した後は お洒落カフェ yucca で これまた美味なケーキを三種類オーダーし舌鼓。

あと2,3年経っても 3人ともこのまま独身だったら 3人で部屋を借りて住もう!

と みんなで現実的な人生プランを立てて満足していると

本ちゃんのお父さんが 仕事帰りに 合流してくれた!

本ちゃんのおじちゃんには 小学校のサッカーの時からお世話になってて
しょっちゅう お家にも呼んでいただいているから
こういう風に、子供たち世代と おじちゃん おばちゃん世代が みんなで 
一緒にご飯を食べたり お酒を飲んだりすることが

ごくごく自然なことで

そういう環境で育ってこれたこと、

これを幸せと呼ばずしてなんと呼ぶ。

8月22日を 天丼記念日と呼ばずして なんと呼ぶ。

歯でちゃんと噛めることを 噛み締めた日。
大好きな仲間と一緒に天丼を食べた日。
みんなの優しさを感じる日。

天丼、、、、 
やはり おぬし ただものではない。

エビ天が主役と見せかけて 実は 茄子天が 主役だ、、、。


イレブン祭 with 地元仲間 and 地元のおばちゃん達 in 地元

2009-08-22 02:42:10 | 日本での暮らし・考える事・思う事

今月頭 「イレブン祭」を開催した。

イレブン祭。

この言葉を聞いて ピンとくる人は私の地元で
小学校時代サッカーをやっていた人でしょう。

私は小学校の時、地元のサッカークラブに所属していた。
しかも そのサッカークラブは強かった!!
市で3位(微妙?)の強さだったし、
なんと千葉県代表にも勝った事があった。

メンバーは みんな同じ小学校の友達だし
時代は Jリーグ開催前後!!盛り上がってたなあ。

放課後は週に3,4回練習があったし 夏休みは合宿があった。
そして確か年に二回ほど、みんなで「イレブン祭」という
イベントを開催したのであった。
飴食い競争とか パン食い競争とか まあ「お楽しみ会」みたいなのを
学校の校庭でやって そんで豚汁食べる。
豚汁かカレー。 
懐かしいなあー

とにかく 小学校の思い出といったら このサッカークラブを抜きには語れない。

もし、私が小学校の時、このサッカークラブに所属していなかったら、、、?

きっと私の人生 かなりつまらないものだったと思う。

というのも、小学校を卒業して早10数年、
当時一緒にボールを追いかけていた仲間は 
親友、いやそれ以上、大親友?いや、それ以上。家族同然

私の人生にとって 一番近い場所にいて、絶対に無くてはならない存在。

出会ってから20年以上経つけど、みんなで一緒に大人になってきた。
お互いの苦しいこと 辛いこと うれしいこと 楽しいこと を
これまでたくさん共有して 一緒に 泣き笑い、青春してきた。

そして何より 「お母さん軍団」の存在が これまた凄い!

小学校当時、サッカーの練習には必ず、お母さん達が当番で付き添っていてくれた。
んで、練習の後にお菓子を用意していてくれた。
伝説のせんべい、「ばかうけ」が人気があった。

試合の時も 合宿の時も、イレブン祭の時も 
お母さん軍団は私達を支えていてくれた。必ず来てくれた。

特に 試合のときなどは お母さん軍団は

コーチよりも目立っていた。
コーチよりも恐かった。
コーチよりも二の腕が太かった。
オフサイドを知らないけど 指示を出しまくっていた。
敵が点数を入れると、「あれはゴールじゃない!」と
堂々と審判に立ち向かっていた。


いやいや(笑)、とにかく 深い愛情で私達全員を支えていてくれた。

だから どのお母さんも 他人の子を 自分の子のように可愛がってくれた。
どの子供も 他人のお母さんを 自分の母のように頼っていた。

それは 大人になっても同じ。

今回 私が事故に遭ったとき、サッカー仲間が 一番に駆けつけてくれた。

キャプテンのけつおは 結婚してインドにいるので 
事故の一方を聞きつけてすぐインド国内線に飛び乗り 
私が運ばれた病院に駆けつけてくれて ずーっと ずーっと看病してくれた。

けつおに別れを告げて 日本に戻ったと思ったら

右ハーフの本ちゃんが なんと仕事を休んで 
空港で涙を目に一杯溜めて待っていてくれた。 

空港を出て そのまま一番近い日赤に運ばれたら 
今度は右バックのカナミが仕事を終えて駆けつけてくれた。

介護タクシーで自宅に帰り、本ちゃん、カナミと 話していると
ミッドフィルダーのれいこが 電話してきて 涙 涙。

その後も、ちょくちょく、仕事帰りに 
「ヨーグルトしか食べられないって言ってたからさ」と 
ヨーグルトをどっさり持ってきてくれたり、
「外出できないだろうと思って」と帽子を買ってきてくれたり、、、

小学校の時、サッカークラブに入ったことで、私の人生にとって本当に大事な人達とめぐり合えたこと。これは とっても大きな財産だ。


そして 更に凄いことに
おばちゃん達 みんなが お見舞いに来てくれた

心配して お見舞いに来てくれて 私の顔を見て 涙を流して
「大丈夫よ!しっかり きょうこじゃん!」って言ってくれるおばちゃん達に
私は涙が止まりませんでした。


小学校時代も このおばちゃん達のお陰で 本当にサッカーを楽しめた。
最高の思い出を作ることが出来た。

そして、大人になっても、こうやって私達娘のことを大事に思ってくれる
おばちゃん達と 出会うことができた私の人生は
本当に 幸せなんだなあと 実感した。


ということで、

久しぶりに 「イレブン祭」を開催したのでした。

ああ、開催経緯を書くだけで こんなに長文になってしまった。


気持ちは小学校のままですが、
どことなく 小学校の時と違うのは、、、、

会場が校庭ではなく居酒屋というところでしょうか。

飴食い競争の飴や パン食い競争が無い代わりに
ビールがテーブルの上に溢れているところでしょうか。

キャプテンけつおと れーこと はるこが参加できなかったのが残念だったが、
なんと
おばちゃん達は 欠席なしっ!!!


 

大好きな地元仲間と そのお母さん達。

この地元に生まれてよかった。
サッカーやっててよかった。

人生 幸せなことがいっぱいある。

時に辛い時もある人生だけれど

これまで たくさんの大事な人達にめぐり合ってきた

だから もし
生まれる前にもどって
「あなたは 28歳で事故に遭います。傷が残ります。
それでもこの人生を選びますか。」

と神様に言われたとしても

この大好きな人達と出会いたいから

やっぱりこの人生を選ぶだろうな。

そう思った 楽しい夜だった。




 


Bridge Over Troubled Water

2009-08-01 02:52:34 | インド 生活
Bridge over troubled water 邦題「明日に架ける橋」

いい和訳ですねー サイモン&ガーファンクルの名曲

母とサイモン&ガーファンクルのコンサートに行きました。
60歳前後と思われる彼らの熱い歌声に、涙しました。



このブログに「事故に遭いました」と報告してから一ヶ月以上経ってしまいました。

日本に帰国してすぐ、あらゆる方面の知人から「事故に遭ったって本当?」というメールが多数あったので、「まあ いずれバレることだし、、、」と、ブログという場をかりて報告させていただきました。

しかしその後1ヶ月も放置してしまったので、逆に皆様に心配をかけてしまったことをお詫びします。
本当に ごめんなさい。

帰国直後は、顔の骨折箇所が安定しなかったせいか、視力に問題があったのでPCを使うことを避けていましたが、

視力が回復しても、ブログを更新できませんでした。

どう強がっても 「大丈夫です!」と書くことができなくて、、、。
そのため、ブログどころか、メールを返すこともできませんでした。
ごめんなさい。
みなさん、本当に 本当に 心配をしてくれて ありがとうございました。


実は、インドで事故に遭ってインドの病院に入院していた時、前もってスカイプ面接を受けていた団体から合格通知がとどきました。
カンボジアで、日本の技術を通してカンボジア人の経済自立を促進している団体でした。そこで日本語を教える仕事でした。

カンボジアは、私が国際協力に携わることを決意したきっかけとなった国です。
これまでに4回訪れました。孤児院でのボランティアもしたりしました。
思い入れのある国です。いつか、この国の人達のテンポで、この国の文化を失わず、この国らしく発展できる手助けができたらいいなと 大学生のころから思っていました。
その夢が叶う切符が手に入りました。

だから、「合格」という報せを受けた時、とても嬉しく、自力でベッドから起き上がることもできなかったくせに、
「あと1ヶ月後には カンボジアに行くんだ!」
「カンボジアの生徒の為に がんばるんだ!」という気持ちでいました。

カンボジアでの就職が決まったことは、
長年の夢が叶って嬉しいというだけでなく、
「事故のショックや 傷の大きさなんて 大したことない!」と思える 強い心の支えだったんだと思います。

「カンボジアに行くんだから、こんな怪我 早く治さなくては! こんな傷 大したことない!」と 信じ込もうとしていました。

しかし
世の中そんなに甘くないですねー!

帰国して、日本の病院で検査や治療を続けて行くうちに
カンボジアに行けないことが わかりました。
自分が思っていた以上に、事故の怪我は大きかったらしく
今 このタイミングでカンボジアに行くことは無謀でした。

それがわかってからは、自分の心の支えがなくなって

深い穴の底に 一気にゴロゴロ落ちていってしまいました。

それまで 「カンボジアに行くんだから 大丈夫!がんばれる!」と思って
耐えていたことが、一気に耐えられなくなってしまいました。

「世の中にはもっと辛い状況に直面してる人がいるんだから こんなことでウジウジしてたらダメだ」
「今は辛くて苦しいけど、これを乗り越えたら人として大きく成長できるんだ」
「今は 神様が“休みなさい”と言っているんだよ」

自分でも 頭でわかっているし 周りの人達からも そう言われる。
もっともな意見だし 正しいことなんだけど

頭で理解してても 心が理解できない。

私の本来の性格は どんな逆境でもなんでもプラス思考に考える性格なのに
全てのことが マイナスにしか考えられない。

そういう状況で、事故のショック、傷、治療、不安、恐怖、焦りといったものが
自分の中だけでぐるぐる渦を巻いていき、
その渦を消化することもできず、排出することもできず、
どんどん大きくなる渦に 自分が飲み込まれてしまったんでしょう。

夜も眠れず 情緒不安定の日々で 柄にもなくメソメソした毎日で ごく親しい人以外には誰にも会いたくなくなってしまいました。

そう考えると、ほんと、「カンボジアへ行く」という希望、たった一つの希望だけで いろんなことが耐えられていたんだと思うと 生きることに「希望」って必要不可欠だなあって思います。

「ショーシャンクの空に」という映画の台詞で 
「Hope is a good thing, maybe the best of things, and no good thing ever dies」
という台詞があります。この映画を観たとき、この台詞が気に入って覚えていたんだけど、今回 この台詞に共感しました。



結局 事故から2ヶ月経って、ようやく気持ちが落ち着きました。
今なら
「私は 大丈夫です!!」と 多少強がりながらも(笑)言えることができるようになりました。

ちなみに、身体も心もともに「大丈夫です!」

身体もまだまだ全快ではないし、心も、きっとまた折れることもあるでしょう。
でも 「大丈夫です!」と言えるのは

「希望」に代わって 私を支えてくれた家族と親友達のお陰です。

私は 事故に遭った後の自分を受け入れることができませんでした。
身体の怪我のことはもちろん 自分の精神状態、つまり全てをマイナスにしか考えられず 抜け殻のような状態が 嫌でした。
 
けれど、家族や親友達は、事故に遭う前の私も、遭った後の私も、どちらも同じだと言ってくれました。
私自身でさえも 嫌気がさすような暗い状態を受け入れてくれました。

“存在するだけで意義があるんだよ”と言ってくれた親友。
“きょうこの辛さはきょうこにしかわからないけど、どんなに時間が掛かっても 一緒に良くなっていこう。治していこう。一人じゃないよ。”と言ってくれた親友。
“不安は愛には勝てません”という名言をくださった大先輩。

サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌詞のように
私を支えてくれている人達がいること、そしてその人達の深い優しさ、思いやり、愛情に、心が救われました。 
しかも 日本に留まらず、インド、トンガからも届きました。大好きな人達からの愛が、、、(>△<)

今回事故に遭ったことに、もし意味があるとしたら
それは きっと
人の優しさ、愛情、思いやりを 改めて感じる為だったのかと。

今回ほど 人の温かい心に救われたことはありませんから。

傷が残るのは、それを忘れないためなのかと。


神様が 生きるチャンスをもう一度与えてくれたのは、
今回受け取った人の優しさ、愛情、思いやりと同じものを これまで出会ってきた人々、これから出会う人々に渡すためなのかなと思います。

私も 大好きな人達の「明日に架ける橋」になりたいなと思いました。