禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (後編)

2016-04-27 12:48:37 | 読書感想文

 (中篇の続きです)

メイヤスーはカント以降の哲学者のほとんどが「相関主義者」であるという。彼は相関主義者を「我々は思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、どちらか一方のみへのアクセスはできないと考える人」と定義している。彼はこの相関主義を乗り越えるために、「祖先以前性」と言う概念を持ち出してきます。

人間と言う種の出現に先立つ ― また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ - あらゆる現実について、祖先以前的[ancestral]と呼ぶことにする。≫ (p.24)

人間の主観を中心とする相関主義と、祖先以前性を客観的な事実として受け止める科学は、両立しないとメイヤスーは言います。そして、相関主義者に対して次のように問いかけるのです。

「45億6千年前に何が起こったのか、地球の形成は起こったのか、イエスかノーか」

メイヤスーは相関主義者の答えを予想して、次のように述べます。

ある意味ではイエスだ、と相関主義者は答えるだろう。なぜなら、そうした出来事を指示する科学的言明は客観的なもの、つまり、間主観的な仕方で検証されるものだからである。けれども、ある意味においてノーだ、とそのものは付け加える。なぜなら、そうした言明の対象は、素朴に記述されたような仕方では存在し得なかった、つまり、意識に非-相関的には存在しえなかったからである。そうなると、私たちは次のように十分常軌を逸した言明にたどり着く。--祖先以前的言明は真である、客観的なものであるという意味において、しかしながら、その言明の支持対象が、その真理が記述するような仕方で実際に存在しえたということはあり得ない。それは、真なる言明なのだがしかし不可能な出来事を現実のものとして語っているのであり、思考可能な対象をもたない『客観的な=対象についての』言明なのである。≫

つまり、相関主義者の答えは無意味だと断定しています。そこで、相関主義と科学の客観性のギャップを解消するために、思弁的唯物論と言うものを提唱します。数学的に思考可能なものは絶対的に可能であるという立場、数学的に記述されたものは人間の存在に関わりなく「何か」として実在し得るという考え方であります。これは科学に対してそれなりの絶対性を与えたいということでしょう。

メイヤスーは、ガリレオが力学を発見して以来は「世界は余すところなく数学的に処理されることが可能になった。」と言います。また、祖先以前性についても、放射性元素の崩壊速度の測定や熱ルミネセンスの諸法則などにより、年代測定は絶対的なものになったと言います。そして、数学的言説によって打ち立てた祖先以前性のものについては、そういう測定技術なども含めたうえで実在論的な意味を持つと考えるべきであると主張します。それが究極の意味であり、それ以上の(相関主義者の主張する)意味を付加するのは無益であるということです。

メイヤスーは、現在の「私の」思考から抜けられない相関主義者は祖先以前性について思考することはできないというのですが、どうでしょうか。祖先以前の過去については、(メイヤスーが「原化石」と呼ぶところの)証跡をもとに現在からさかのぼって追及するしかないのです。その遡及は今行うのであって、その原化石と言うのも今あるものです。私たちが過去と呼んでいるものも私たちが今想起しているものであります。つまり、「過去」とは今私が思考の中に構成しているもの以外はどこにも存在しないわけです。当然、祖先以前のものも今構成されている過去の中に位置づけられるわけです。

それと、メイヤスーはしきりと「数学的」ということを口走るのですが、数学的言明は法則を通じてなされるのであります。しかし、その法則はすべて経験から帰納されたものであることを忘れるわけには行けません。ガリレオの運動に関する法則も、同位元素による年代測定法も、全て観測(経験)をもとに帰納したものであります。そもそもヒュームが提出した懐疑は「帰納法に論理的な根拠はない」ということでした。したがって問題は法則の安定性などというものにあるのではなく、法則そのものに理性的な根拠が見いだせないことにあったはずです。その法則をもとに記述した世界を「絶対」視するというならば但し書きがいろいろと必要になってくるような気がします。

現に、科学者に対して先ほどの質問「45億6千年前に何が起こったのか、地球の形成は起こったのか、イエスかノーか」を投げかけたらどのような答えが返ってくるでしょうか? おそらく単純に「イエス」と答える人はいないはず、たぶん次のように答えるはずです。

  「45億6千年前に地球の形成は起こったと推定される。」


アマチュアである私の反論などメイヤスーにとっては当然予想の範囲なのでしょうが、どう考えても私には相関主義は乗り越えられないような気がします。もしかしたらメイヤスーの主張する「絶対」について、私が彼の意図を正確には把握しきれていないのかもしれません。読者の方でお気づきの点があればご教示願いたいと思います。

 

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