論理哲学論考を初めて読んだとき、確かに禅に似ているという印象を抱いた。しかし、彼が禅の修行を積んだ形跡もなく、思考に明け暮れる彼の生活は禅者とは程遠いもののようにも思える。かけ離れた二者が同様の主旨のことを述べているとしたら、それは普遍に向かう収斂ではないだろうか?
本の帯には「考えるな見よ!」となっている。
ウィトゲンシュタインは我々の言語(概念)による世界構成に問題があると言う。不立文字という視点に立つ禅とは同じ視点に立っているわけである。世界の実像を知るにはまず素朴に見つめることが大事なのだと思う。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)
5.631 思考し表象する主体は存在しない。
坐禅をしていると、私と世界の境界がなくなっていく、独座大雄峰の境地から心身脱落し無我を表現しているように読み取れる。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致
することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた
点に収縮し、自我に対応する実在だけが残される。
独我論は極端に主観的な観念論と言っていいだろうか、それをさらに徹底すると「純粋な実在論」になると言っている。「私が私の世界」となったら、むしろ「私」は剥落してしまうのである。そこに残るのは既に主客を超越した素朴な世界がある、その素朴さが「あるがまま」受け入れるということである。後半の「自我に対応する実在」とは臨済のいう「一無位の真人」を連想させる。
ここで着目したいのは「独我論」と言う言葉である。ウィトゲンシュタインと禅に共通しているのは独我論的視点であることは間違いないことだと思う。
私たちは物事を見究めるには客観的であらねばならないと考えている。それ故学問は客観を旨としているのである。客観とは自分の外側に視点を持つということである。科学は自分も含めたこの世界を俯瞰しなければならないからである。
「世界は自分の外側に広がっており、私はその世界の中の一点景である」という視野をもつこと、それに「自然的態度」と名付けたのはフッサールである。フッサールはその「自然的態度」の中にすでに推論による構成が入り込んでいることを見抜き、その推論をドクサ(憶見)と呼んだ。
私たちは八百屋の店先で赤いリンゴを見たとき、「そこにリンゴがあるから、私の目に赤くまるいものが見えている。」と感じる。しかし、フッサールは逆に「赤くまるいものが見えているので、私はそこにリンゴがあると感じている。」と考えるのである。『見えている』のは事実であるが、『実在している』というのは推論である。自然的態度では、『見えている』ことと『実在している』ことの順序が逆転しているのである。
超越を排除するには独我論的視点から出発するしかない。フッサール以降の西洋哲学者は独我論的視点を意識しないわけにはいかない。そういう意味で西洋哲学は東洋哲学に近づいている。
ウィトゲンシュタインと禅が近い、という全く同じ意味でフッサールの現象学もまた禅に近いということが言えると思う。哲学であろうと禅であろうとそれが普遍を目指している限り、いずれ収斂してくる部分があるのは必然のことであろうと思う。
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