われわれ日本人の多くは、「日本」というものが自然に成立しているというようなイメージをもっているのではなかろうか。もしかしたら、まだ日本列島に人が住んでいないようなときから、「日本は日本だった」ような感覚をもっているのではなかろうか。ヨーロッパのように頻繁に国境の変化があった国々とは国というものに対する認識が根本から違うような気がする。
しかし、この世界に固定的なものは一つもない。「日本」も自然にある地名ではなく、特定の時点で特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前なのである。歴史を俯瞰するにはそのようなダイナミックな視点をもつ必要があることを、網野先生のこの名著は教えてくれる。以下に引用する。
≪ また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部にもいたとみられるが、新羅王国成立後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視できないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
ここで再三の繰り返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国政の下にある人間集団を指す言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でもそれ以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、特定の時点で特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前--国号である以上、これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在せず、その国政の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた厩戸王子は「倭人」であり、日本人ではないのであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人ではなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によって強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人となることを権力によって強要されたのである。≫ (87頁)
網野善彦著「日本とは何か」 誰にも薦めたい、文句なしの名著である。
そうですね。仏教の原理から言うと、所詮「日本」というものの本質はない、ということになりますね。「日本」という言葉を使用すると、どうしても日本という固定的なものが実在すると思い込んでしまうのが私達です。歴史を見る視点はダイナミックでなければならないと思います。