古人無復洛城東
今人還対落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
≪ あの人はもはや洛陽にはいない今、また、(あの時とは別の)人が風に散る花を眺めています。昔年と同じように花は美しく咲くけれど、一緒にこの花を見た人はもはやこの世にはいない。≫
唐代の詩人、劉希夷の有名な一節です。花は毎年同じように咲くけれど、それを見に来る人は同じではない。しかし、視点を変えれば、花だって去年のものとは違います。去年見た花は既に散ってしまって土に還ってしまい、今咲いている花は去年のものとは全然別のものであるはずです。このように私たちは、同じ事象を「変わるもの」と「変わらないもの」というふうに、二つの視点から見ることがあります。
同じ事象を見ながら、ある時は「変わる」と見、またある時は「不変」と見る。この変わるものを「色(しき)」、不変のものを「相(そう)」と言います。色は不断に変わり続けとどまることがありません。その中で相が生まれてくるのは、類似パターンの反復があるからです。反復というものがなければ世界はカオスであります。いかなる概念も生まれてくることはなく、そこでは思考も不可能でありましょう。反復があるから概念を同定でき、そこに相という観念も生まれてくるわけです。
仏教では「色即是空」といいます。これは「色は不断に変化し続けとどまることがないので、いかなる概念も成立し得ない。」という意味です。類似パターンはあくまで類似に過ぎないのであって厳密には同一ではありえない、したがって、概念というのもあくまで「仮」のものであって究極的なものではあり得ないということなのです。
プラトンは、いろんな人間が「みな人間である」と分かるのは人間の「イデア」というものが実在するからだと言います。だとすれば、人間と人間以外を厳密に区別することができるはずです。ネアンデルタール人は人間でしょうか? ジャワ原人は人間でしょうか? 進化論的には最初の人間は人間以外の親から生まれたことになってしまいますが、その境界を引こうとすれば恣意的にならざるを得ないはずです。どんな反復も厳密には同じではないし、永久に続くこともまたあり得ないのです。だから、(大乗)仏教はイデアは実在しないと主張します。究極的には「色不異空」と言わざるを得ないのです。
梅の花は毎年同じように咲いているが、どの花をとってみても厳密に同じものは存在しない。