禅仏教では「あるがまま」という言葉をよく言います。しかし時々、「ものごとを『ありのまま』に見ることなどできない。」という反論にあうことがあります。我々は感覚を通してものに触れるのであって、その感覚の外にある「ありのまま」の真実には到達できないというのです。
昨夜(10/7)、NHK Eテレの「時空を超えて」というシリーズで「この世界は“現実”なのか?」という番組をみました。その内容は、我々は世界で起きている現象のうち感覚器官で受け止めることのできる情報しか得ることはできない。その限られた情報を脳で加工することによって、再構成されたのが「この世界」であるという趣旨でした。やはり真の「現実」は感覚の向こう側にあり、「ありのまま」の世界を見ることはできないということでした。
「あるがまま」と「ありのまま」の古語的表現で、本来同じ意味のはずですが、ここで使われている「ありのまま」は、仏教でいうところの「あるがまま」とは全く正反対の使われ方をしています。
仏教でいうところの「あるがまま」は、「柳は緑花は紅」というように、体験している世界をそのまま受け止める。再解釈しないという意味であります。禅者にとって世界はその中で生きるものであって、解釈の対象ではないからです。世界は既に成立しかつ現前している、それ以上でもそれ以下でもないのであって、屋上屋を重ねるような解釈は必要ないということです。感覚の向こうに現実があるのではなく、今見ている世界がリアルな現実そのものであるということであります。
「この世界は“現実”なのか?」という問いかけには、我々が見ている世界は脳が作り出した虚像に過ぎないという意味が含まれています。そして、実体の方は我々の感覚の外にある、という構造を設定しているわけです。
仏教における真理観はこれと全く逆で、実在するのは虚像とされたはずのイメージであり、感覚とかその外の実体とかはそのイメージから推論によって構成された科学的枠組みに過ぎないと見るのです。以下に西田幾多郎の言葉を引用します。
≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)
ここで意識現象と言っているのが我々の観ている「世界」のことで、物体現象が感覚の外の「実体」のことである。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり整合的な推論によって構成した仮説であると言っているのである。 意識現象が内在的であるのに対して、物体現象は推論による一種の虚構に過ぎない。ここに至って、自然科学と仏教の真理観では、虚と実が入れ替わるのである。
「無門関」の第29則の非風非幡を思い起こしてもらいたい。 ( ご存じでない方は、こちらをクリックしてください。==>「非風非幡」 )
風にはためいている幡(はた)を見て、ある僧は「あれは幡が動いているのだ。」と言い、もう一人の僧は「違う、風が動いているのだ。」と言う。そのやりとりを聞いていた六祖慧能は「お前たちの心が動いているのだ。」と言った。
幡が動いているあるいは風が動いているというのは、科学的な認識法にこだわるからである。二人とも同じ光景を見、同じ現実認識をもちながら、言葉だけが違う。禅的にはナンセンスである。真実は見たまま、あるがままなのだ。そこに論争すべき問題はない。「心が動いている」というのは、仏教僧としての本分を忘れた論争をたしなめる言葉であっただろう。
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