高2男子が自殺、携帯掲示板の中傷で教師に事情聞かれた後(読売新聞) - goo ニュース
北海道の高2の男子生徒が携帯電話の掲示板に他の生徒の中傷を書き込んだことについて、同校の教師たちから指導を受けた後、自宅で自殺を図り、死亡した。ノートには「おまえの罪は重い。死ね」と言われたとあったとか。
さて、とても困ったことになったものだ。学校から自宅に「停学処分」の電話をしたそうだが、「『死ね』と言った事実はない」と校長は弁明している。
まあ、「はい、言いました」とは口が裂けても言わないだろうが、実際には厳しく叱責する過程でそのような言葉に類するものがあったとしても別におかしくはない。しかし、そういうことを差し引いて考えても、おそらく学校側の言うことには、今回あまり矛盾はないように見える。問題はそう言って自殺してしまった当の高校生の側にある。
もし教師に問われることがあったとすれば、そういう高校生の心理状態をあまり考えずに(なぜ彼は携帯で他人を中傷するような真似をしたのか?)、一方的に非難してその高校生を逃げ場のないところまで追いつめてしまったことではないか。軽々しく「殺す、死ね」という言葉を遣う高校生である。彼の行為への厳しい叱責(たぶん他の高校生にはさほど厳しくは感じない程度であったかもしれない)を彼は「死ね」という意味と受け取ったかも知れない。
さらに問題があったとすれば、「停学処分」はまず口頭で伝え、本人の様子を見るべきであったということ。やはり学校の教師から咎められて、処分を電話で伝えられた後に自殺してしまったという似たようなケースがある。電話での通知はこれで人間的な繋がりが途切れてしまったように当人には思われるのだ。
その意味でー結果論ではあるが、教師たちはその高校生の心のありように対する想像力と配慮に欠け欠けていたと言われても仕方がない。たとえ厳しく断罪すべき事柄であったとしても、口頭での触れ合いをないがしろにし、非人情的な形で一方的に電話で伝達した場合、どういう事態が想定されるか、たとえカウンセリングのプロではなくても、教育のプロなら当然考えていてしかるべきである。
何が正しく何がいけないか、成長期の子どもたちに大人や教師の責任において厳しい叱責も時には必要である。しかし、叱るだけなら誰でもできる。相手はまだ年端の行かない高校生の子どもである。厳しい叱責の後には彼のどうしようもなく悶える心を受け止め、フォローすることは絶対に欠かすことは出来ない。それが出来なければ子どもの専門家とは言えない。
それにしても、その高校生男子の何という命の軽さだろう。それはある意味我々の想像を超えている。ここで敢えて「今時の高校生は…」と一般化はしないが、そのように言い切ってしまいたい誘惑に駆られる事件である。自分を殺すにせよ、相手を殺すにせよ、「今時の子どもたち」の命に対する感覚の軽さは驚くべきものがあると言わざるを得ない。
これはまた、項を改めて考えたい事柄である。
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