語を集めたものと言えば辞書である。語を分類して並べるものも辞書である。国語辞典は50音引きで発音順に並ぶ。漢和辞典は字形によって分ける部首引きである。では、日本語辞典ができたらどのように語を集めて分類するだろうか。発音で分けるか、字形にするか、古来、分類体を意義で行ったように、意義分類体になるだろうか。シソーラスが発案されたところで作文または文章のための辞書となる。語彙を考えて、語の集成とその検索の便宜を考えると、いくつもの辞書を兼ね合わせて搭載する電子辞書はメモリーの可能性から人間の能力をはるかに超えた辞書のようである。それがコンピュータにある辞書である。辞書はことばを集めた書物であったが、いまやことばとその用例を引き出す。語だけではない、どのような文脈で使われるかが言語の資料として引き出される。用例検索としてコンコーダンスとなったのである。辞書を引き、言葉を見る、そして意味内容を知るというのは、紙媒体までのことであった、ということのように、それが電子メディアとなってくると、ことばの使われ方をそのままに引き出すことになる。ことばと文脈の資料である。それはコーパスとなる。辞書はさらにどうなるだろう。 . . . 本文を読む
文学は何をおこなってきたか。文学作品を眺めることになるが、それは文学の歴史とともに現代文学の活動を見ても膨大なことである。その文学の表層を眺め渡して、やはり文学ということばに行き当たらざるを得ない。文学が何を意味するのか。文学の分野でどのように何を表してきたのかを見ることになる。文学をふみまなびとする例がある。古くは、ぶんかく と言ったと辞書にあるが、これは表記上のことらしく、発音をどうしていたか、わからない。また文章学にあるとする。後世の文法学に宛てた訳のようだ。この語を、文学するというふうにいいわけて、そこには文学の活動を説明するようである。文学するというのは、学問することとあって、これが原義だとする説明もある。そこには学芸というものもあって、これは言うところの文学作品のことのようだ。すると、文学という語に、何を行ってきたか、その意味するものは、学問と学術のことになる。 . . . 本文を読む
めぐりめぐる
めぐりゆくといいはするものの
ネットサイドできざむながれは
たしかにもどらぬときをしらせ
めぐりつづけることにきづく
いとなむおもいおわれおわれ
こころのありかをことばにして
ああこうでもないああでもない
こるこころにひそみゆくもの
めぐる めぐる
と うたった あのしらべに
やさしさも
かなしさも
はかなさも
すべて めぐって
いつか
まともに みる
したたかさに
あさはかさに
おだやかさに
すべて めぐり
いつか
さえて ゆきめぐる
その日のわれに
めぐる めぐる . . . 本文を読む
学文は学問となった。学文を見ると、辞書の例で、*十訓抄〔1252〕三・道長途上見出大江時棟事「匡衡につけて、学文をせさせられけるほどに、後には大江時棟とて、広才博覧の文士となれりければ」と見える。ほかには、*文明本節用集〔室町中〕「学文 ガクモン」がある。もう少し見ると、*仮名草子・清水物語〔1638〕上「学文と云は、道理と無理とをしりわけ、身のおこなひを能(よく)せんがためにて候」 *読本・春雨物語〔1808〕海賊「歌さかしくよむとも撰びし四人の筆あやまりしは、学文なくてたがへる也」というのがあって、身に着けた学芸に意味解釈をする。時代が下がっても、*小学読本〔1873〕〈田中義廉〉一「人は、六七歳に至れば、皆小学校に入りて、一般の学文を習ふべし」 *当世書生気質〔1885~86〕〈坪内逍遙〉九「仮令(たとへ)学力(ガクモン)がどの位あったからといふて、活発な気力がなふては、何の用(やく)にもたたん道理じゃ」明治期にも学文である。まさに現代の学問について、一定の原理に従って、体系的に組織化された知識や方法。哲学、文学、科学などとして、*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉外・三「経済は畢竟一種の学文にて之を法術と言ふ可らず」、この例では経済も学文である。 . . . 本文を読む