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日本語語彙論

2013-10-05 | 語と語彙
語彙論は一つの論であった。語意の定義に従って議論が起こされた。国語学辞典、国語学大辞典の学的探求の流れにそれが現わされている。いまその語彙論は語彙研究法の一つにすえられる。計算機処理による語彙の分析は語彙そのものをとらえることを可能にしたので計量国語学がそれを進めた。1950年代からである。サイトの宣伝、進展著しい国語学の最新最高の学問的成果を集成すべく中項目主義により一六〇〇項目を収め執筆者二八〇名が有機的な解説を施す、東京堂出版  1980/01 という、さきの大辞典を、語彙論でいえば、樺島忠雄氏の、日本語はどう変わるか――語彙と文字 岩波書店 1981/1/20 によって、知ることができる。この語彙論のとらえ方を lexicology とすると、語の形態と意味を研究する言語学と説明がある。また、語彙意味論として、語や形態素の意味構造を扱う意味論の下位領域である、となる。 . . . 本文を読む

239 けが人は、なかった

2013-10-05 | 日本語新百科
現代日本語「誤」百科 865  電車の乗客にけが人はいませんでした を、例題にしている。コラムの解説は、けが人がいる について、これは事故の報道がけが人の有無を伝えるだけであるから、客観性を伝えればよい、したがって、けが人はありませんでした とした方が報道文にふさわしいと説明する。いる と、ある の使い分けについて、けが人は生物だから、いる を用いることは問題ないとしながら、兄弟がある のように使えるとも言う。この、兄弟がある については、兄弟がいる と使ってもよい場面があるし、それを一般にして、兄弟がある 兄弟がいる 妻がある 妻がいる 子がある 子がいる と使うことは、何ら問題ではない。事故現場の報道を現場視認の具体的な状況として伝えることはいくらでもあるので、刻々と様子を伝えて、なお、その様子の中で、いまのようにメディアがリポーターを入れて伝える報道ではこのような表現がその状況と経過と結果において使い分けられることになる。 . . . 本文を読む

文化と教養

2013-10-05 | 日本語百科
文化の語を教養とかかわって考える。文化を翻訳語と見るとその英語にあたるのは、cultureである。教養は同じく、cultivationとなる。to cultivate は、そのままに、耕すこと であるから、耕作する 栽培する 培養する 養育する という意味である。それには、   >〈才能・品性・習慣などを〉養う,磨く,洗練する.  用例  cultivate one's mind 精神を陶冶(とうや)する.  と辞書にある説明がふさわしい。文化は教養との語でこう理解することができる。これは教養教育という自家撞着する用語で語られることがふたたび行われて、教養を身に着けることと教育を施すことが同時に行われるような考え方があるので注意がいる。教養とは文化を持つことであり、その振る舞いにおいて現れる。なお、文化は中国語起源でもあり、さらに日本語の概念は文明開化と言う語を持つので、その意味内容を見る必要がある。 . . . 本文を読む

シライ

2013-10-05 | わくわく
体操競技の新技の名前だ。個人技で優勝するのは間違いないとの下馬評で久々の日本体操界の快挙になるか。その技は、後方伸身宙返り4回ひねりというもので、新技を披露して名前が付けられる。体操世界選手権で初出場、17歳の高校生が床運動で技を決めた。跳馬においても伸身ユルチェンコ3回ひねりを決めている。ベルギーのこの大会で床運動はシライ、跳馬はシライ/キムヒフンの名前が付けられた。一日の予選終了後に技術委員会を開き、国際体操連盟FIGの決めるところとなる。その一問一答を伝えて、名前が付くのは、おまけ、と語っている。それほど意識していなかった、とも。応対が淡々としているように聞こえるのは、若さゆえか、記事の伝えかたか。跳馬の新技は連名になることについては、残念ではない、名前よりも評価してもらったことに言い及び、さらには、名前よりも結果だ、と語っている。 . . . 本文を読む

破線  私説 源氏語り25

2013-10-05 | 源氏語り
物語の構想には歴史書の影響があり、編年体と紀伝体を併せ持つ。 ときの移ろいにはごくまれな前後する時間はあっても、一日の時間いは精確な物語だ。 時計と言うものの代わりに、月の動きにときの刻みを実感する。 年齢を追って描かれない時間は省筆という妙があるのであった。 系図を自分で作ってみようとしたことがある。 巻ごとに系図があるのは人物の官位の昇進などに合わせ重要な一覧である。 各巻ごとに眺めていると、それだけで物語りが見えてくる。 それを一枚の系図に、世代を家系にしてはどうだろうかと、着想した、が、それはやはりできなかった。 しかし、その作業をするあいだに、気づいたのである。 物語りのプロットに合わせると重要な一枚の系図に、作り始めた、自分が書きこんだ線がないのだ。 紅葉の賀の巻で加えるべき線が系図にはないのだ。 ないのが、当然と言えば当然であったけれど、藤壺と光源氏の子に破線で書き表そうとした、その線がない。 そこで、もう一枚の図を重ねて、わかるのである。 ここで、源氏がわかるとはこういうことだったかと合点をした。 もう一枚の図は柏木の巻である。 . . . 本文を読む