読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

続「黄門」

2009-01-31 09:19:08 | 歴史

若い頃の水戸光圀は放蕩三昧で三味線などを弾き、武士とも思われない姿で歩き回り、周囲から顰蹙をかっていた。ところが十八歳になって司馬遷の「史記」にある「伯夷列伝」を読んで人格が一変したと言う。光圀は儒学ではなく歴史書によって蒙を啓いたのである。これが後、「大日本史」の編纂に繋がるのである。唯し、この大日本史が整備され出版されるのは明治に入ってからである。光圀は元禄十三年に死去した。

間もなく二年

2009-01-30 09:23:21 | Weblog

一日の内にブログが三日分も四日分も書けるときがある。こんなときは翌日が気分的に楽になる。ブログを始めたとき何時まで続けられるか気になっていた。書き始めると割合にネタを思いつくものだと感じた。新聞から本からテレビニュースから。しかし時折、ブログの内容として適当と感じられないものが有る。こんなときはその日はブログを休めばいいのだがそれが又、何となく出来ないでいる。今はブログの種類が何時の間にか四つになって殆ど毎日書き、ほぼ二年になる。

岐山

2009-01-29 09:21:30 | 歴史

岐阜市北部に岐山高校と言う高等学校が有る。私の息子が通っていた高校だ。中国で岐山と言えば陜西省を言う。中国古代の王朝に商(殷)があり、その時代、周と言う小国が西方に有った。この周の民族は中央の勢力と異民族の圧迫を受け、住んでいた土地を離れざるを得なかった。最後に岐山の地に居を定めた。周民族はこの地で力をたくわえ、勢力を拡大し遂には商を倒した。この故事に習った信長は稲葉山城を岐阜城と名を改めた。岐阜の阜は丘のことである。つまり岐阜は岐山なのである。この名を信長に勧めたのは沢彦(たくげん)と言う僧で「天下布武」も彼の語であるそうだ。

心に留まるフレーズ

2009-01-28 09:53:04 | 新聞

生命科学者の柳沢桂子氏が「日本人への祈り」と言う本を書いた。この本を私は読んではいないが、この本の書評が短く新聞に掲載されていた。「『人生は苦なり』を受け入れてしまえば、ただ生きる人生の喜びが見えてきます。」と言うフレーズが有るらしい。人生は苦なり、と言ったのは確か釈迦であったと記憶しているが、最初から人生は苦である事を念頭に置けば、微かな、些細な、僅かな喜びも大きなものに感じられ感謝出来るのでは、と思った。

黄門

2009-01-27 10:53:19 | 歴史
水戸光圀は元禄三年、兄の子の綱篠(つなえだ)に家督を継がせ、太政官の権中納言の職も辞し黄門と呼ばれた。退官後の中納言が黄門と呼ばれるのではなく、本来、中納言は在職中でも黄門なのだそうだ。中国の秦や漢の王朝での職の名称で、執務を行う役所の門扉が黄色であったところから黄門の名があると言う事だ。

子を知るは父に若くはなし

2009-01-25 09:39:01 | 歴史

「子を知るは父に若くはなし」は中国の古典「管子」に出て来る語である。
人生を長く経験している父親は我が子の人としての本質と将来が誰よりもわかると言う意味である。現在はどうなのだろうか。母親の方がよく判るかも知れない。それはさて置き、これは江戸初期の話。名奉行と言われた板倉勝重と言う人物が居た。彼には二人の息子がいた。長男の重宗と次男の重昌である。二人とも出来がよく、その事は家康の耳にも入っていた。家康はある日、そんな二人を試そうと思った。お裁きについての問題を作り、兄弟に判断させたのである。次男の重昌は即断し裁決文を家康に言上した。兄の重宗は「追って、お答えしたく、暫くのご猶予を・・・」とその場を退席し、数日後、裁決の理由と判決文を書面で提出した。その内容は理由も判決文もほぼ同じであった。家康は兄の方が頭脳の回転が速いと判断した。この話は家臣の間に広まり重昌の評価は高まった。が父親の勝重は「重昌は思慮浅く、重宗こそは、お役に立つと存じます。」と答え、裁判では理屈では解っていても、よくよく検討した後、決すべきものであって、手際の良い判断は自分の知恵をひけらかすに過ぎないものと解説をしたのである。父ならではの言葉であった。重宗は後、父をも凌ぐ名奉行となった。弟の重昌は天草の乱での不手際で戦死した。

漢字は抽象

2009-01-24 13:51:42 | 漢字

漢字は初期、象形であった。象形は絵画ではなく具象であり更に言えば抽象性を強く持ったものであった。例を挙げれば、尹は一本の小枝を手に持つ事を象徴し、小枝は神が憑りつくひもろ木であり、尹はそれを持ち、神がかって踊る聖職者を言う。その聖職者である尹がサイと呼ばれる容器(Uの中に横棒を引いた文字で、後に口と書かれる)の中に神託を受ける事を象徴した文字が「君」である。君とは巫女にして王である。私には、卑弥呼が想い浮かぶ。白川静著「漢字百話」中公文庫から

烏と言う漢字

2009-01-23 11:04:19 | 漢字
少し前、テレビのクイズ番組で「烏」と言う漢字について、カラスは黒く、目がどこに有るか判らないので「鳥」と言う漢字と比べて横棒が一本足りないのだと説明されていた。白川静 著「漢字百話」中公文庫を読むと烏の文字は金文では、はっきりと目が書かれている。只、その文字は、カラスが殺され、何かにぶら下げられ、羽も体も足も垂れ下がった形に描かれており、古代からカラスは悪鳥として象形の文字にされていたようだとしている。横棒が一本足りないのはカラスが黒く、目の有りかがどこか判らないからではなく、悪鳥としてその文字が象形として書かれたからではないかと私は想像している。

天の采配

2009-01-22 14:50:54 | 読書

あの時あの電車に乗らなかったので事故にあわなかったとか、その逆の話は世の中に数え切れないほどあるだろうと思う。次はそれに似た話の中の一つだ。
昭和26年4月、開発銀行の総裁に就任した小林中(あたる)は、その職に就く前に新設の国鉄総裁はどうかと折衝された事があった。彼はその場での返事はしなかった。後日、断った。何となく嫌な予兆を感じたのかも知れない。代わりにその総裁の席に就いたのがあの下山定則である。昭和24年7月5日、下山は行方不明となり、翌日6日に轢死体となって発見され、「下山事件」と言う戦後の所謂「黒い霧事件」の一つとなった。小林がその国鉄総裁の職に就いていれば「小林事件」となった可能性は高かっただろう。

元号

2009-01-21 09:51:02 | 歴史

日本の元号は五経のなかの字句から取られる事が多いのだそうだ。
五経とは「礼記」、「詩経」、「書経」、「易経」、「春秋」を言うのだそうだ。
明治はの元号の典拠は「易経」の中の「聖人南面して天下を聴き、明に向いて治むる」と言う字句の明と治が採られた。大正も同じ易経からで「大いに亨(とお)るに正を以ってす、天の道なり」の大と正だと言う事だ。
昭和の元号は「書経」にある「百姓(ひゃくせい)昭明なり。万邦を協和せしむ」の昭と和である。平成は「史記」からで「父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝、内平らかに外成る」の平と成の文字だと言う事だそうだ。