読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

亀田家のボクシング

2007-10-31 15:11:59 | Weblog

ルール無視のボクシングで亀田家が処分された。昨日、図書館でリサイクル処分された雑誌を貰って来た中に昨年9月号の文藝春秋があった。「亀田三兄弟」と題するノンフィクション作家の佐野眞一氏の評論が有った。昨年の話である。「あんなんは大阪人の恥や。とにかく品がなさすぎる。」「このあたりであいつらを応援するヤツは一人もおらへんやろな」と大阪西成区のお好み焼き屋で仮借のない批判が飛び交ったと言う。この町の十人に一人はヤクザと言う環境からフェアーなボクシングで成りあがって来たならサクセスストーリーと言える。私はボクシングに興味は無いがニュースで見た試合はボクシングに名を借りたチンピラの喧嘩以上ではなかった感が拭えない。

お母さん

2007-10-30 14:22:38 | Weblog

司馬遼太郎がドナルド・キーンに「日本語のお母さんと言う言葉は何時頃から始まりましたか。」と聞かれたそうだ。司馬は「明治の初年だと思います。」と答えたそうだ。文部省が作った言葉でお父さんと言う言葉も役所が作った。この「おかあさん」と言う言葉が国語の教科書に載ったとき山の手から学校に怒鳴り込んできた母上がいたそうだ。おかあさんがおっかさんに聞こえて下品だと言う事だった。大野晋の説明によればおっかさんは元は「おかたさま」でおっかさまとなりおっかさん、おっかあとなり、そこからお母さんと言う言葉を作ったのだそうだ。「父」は「てて」とも「とと」とも言い、「おととさん」がつまりおとっつあん、つぁんは品が良くないとお父さんと言う語が出来たのだそうだ。

漢字の構造部分の口の意味は

2007-10-28 14:23:11 | Weblog

白川文字学の本を読んでいて驚くことの一つに漢字の構成要素の一つの口の意味だ。この口はものを食べる口を意味するものは殆ど無く、∪という記号の中に━を引いた”さい”と言う祝詞を入れる容器を表しているのだと言うことだ。甲骨文、金文を通じてものを食べる口を意味すると思われる字形は「鳴」と「唯」だけだと白川文字学は言う。しかもこの両文字とも鳥の鳴き声を意味するものであるかどうかは決めがたいそうだ。古代において鳥は霊が鳥の形を取って現れたものとする考えが一般に有ったからだ。この”さい”に祝詞を入れて鳥の鳴き声などの状態で神の意思を尋ねたのではないかと言う事だ。唯の隹も鳥を意味する。「進」は鳥の状態によって進行を導く意で有るらしく、従って唯、雖、進は鳥占いを示す字であろうとするのである。

司馬遼太郎が遠藤周作を読んで

2007-10-27 14:50:31 | Weblog

司馬遼太郎が遠藤周作の「鉄の首枷」を読んだ。クリスチャンであった小西行長の物語である。周作自身もクリスチャンで幼児で洗礼を受けていた。行長も父親がクリスチャンで幼いときに洗礼を受けた薬屋と言う商人あがりの武将で秀吉に仕えていた。キリスト教の禁教令を秀吉は出していたが行長はクリスチャンを棄てていた時期が有ったらしく秀吉に仕えていた。関が原で負け処刑されるとき行長は神の名を呼びクリスチャンとして死に就いたと言う。司馬遼太郎はこの小説を読んでいてカトリックの話か?と言う気がしたと言う。浄土教の世界のように思えたそうである。

週刊誌の始まり

2007-10-26 13:18:55 | Weblog

週刊誌はもともと大手の新聞社が発行を始めたものだったそうだ。大新聞が記事が余ってもったいないと言う事から「週刊朝日」、「サンデー毎日」が出来た。昭和三十年ころから出版社の「新潮社」も週刊誌を発行した。それが成功すると他の出版社の文藝春秋なども週刊誌を発行し始め、週刊誌時代が始まった。昭和三十年頃の週刊誌は天下国家を論じていた。大学の先生も学生も読んでいた。そう言えば私も学生時代、三十年代の終わりの頃だが「朝日ジャーナル」と言う硬めの週刊誌をよく読みもしないのに格好だけつけて持ち歩いていた。この週刊誌時代の到来が実は共通の文章日本語を育てるのに役に立ったのではないかとフランス文学者の桑原武夫氏が言っているそうだ。

マルローの語った武士道

2007-10-25 13:46:01 | Weblog

ドゴールが大統領だった頃、アンドレ・マルローと言う文化大臣がいた。彼が戦後、日本に来たとき日本と他のアジアの国とは違うのは日本に武士道があるからだと言う。欧米人は日本は中国の分家で日本文化は中国の支店程度に考えていた。日本は中国の書物を入れ漢文を中心に勉強したが学んだ結果は中国とは違うものだった。それをマルローは武士道と言う語で表現した。司馬遼太郎が言う形而上学的なものが日本で育った。マルローは来日したときに天皇に言ったと言う。武士道を日本の特別特攻隊員に例を取り、彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなく祖国を憂える貴い熱情が有った。代償を求めない行為、そこに真の偉大さがあり、人は常に、偉大さへの思いを失ってはならないのだと。

更に伊勢神宮のこと

2007-10-24 14:28:20 | Weblog

この伊勢神宮には平安末期の歌人、西行も参拝している。「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の歌は神宮の厳かな雰囲気を感じさせる。清浄な環境に既に神の存在を感得できると言うことだ。西行は伊勢で神官に乞われ歌会を主催しており「何事がおはしますか」知らない筈はなかった。この伊勢神宮も室町、戦国時代には寄進されて神領となっていた土地を各地の豪族に横領されたそうだ。が庶民の伊勢参りは栄えた。江戸期には六千二百石の領地を貰い、伊勢信仰が盛んになり、伊勢講が出来、江戸町民におかげ参りが流行した。伊勢参りは武士階級より庶民が圧倒的に多かった。
司馬遼太郎「この国のかたち 5」から

私幣禁断

2007-10-23 09:40:36 | Weblog

「私幣禁断」とは一般に天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。つまり一般人は元は伊勢神宮に参拝出来なかった。平安朝になって律令制が崩れた。貴族や社寺が荘園と言う形の私領を拡大させたからである。「逆説の日本史」の井沢元彦に言わせれば荘園は藤原氏の作り上げた脱税装置なのだ。従って国家予算が極端に縮小された。伊勢神宮もまた「御厨(みくりや)」或いは「御園」と呼ばれる荘園を持つようになった。伊勢神宮は経済的には半ば自立できるようになったが半ば寄進を受けるようになり、「私幣禁断」は結果として緩められ、一般人が伊勢神宮に参拝出来るようになった。平安後期からである。

歎異抄

2007-10-20 09:40:54 | Weblog

司馬遼太郎は戦争中、常に持ち歩いたと言う「歎異抄」を蓮如は信徒が誤解する怖れ有りとして本願寺の奥深く秘匿してしまった。親鸞はその「歎異抄」のなかで教団も弟子も持たないと言う、念仏も先祖供養のためではなく、人のためでもなく、ただ自分一人のためだと言う。浄土真宗を広めようとしていた政治家蓮如には組織が必要であり、この親鸞の教団などもたぬと言う思想は信者の誤解を招くからではなく浄土真宗勢力拡大を願っていた彼には不都合であったに違いない。戦国時代に秘匿されてしまったこの歎異抄が再び世に知られるようになるのは明治に入り、浄土真宗内に改革を齎そうとした清沢満之によってである。

ママのお腹に居たとき

2007-10-19 09:51:02 | Weblog

今日は読書とは関係のない話
これは私の家内から聞いた話で、家内はこの話を娘から聞いたと言う。娘が3歳前の自分の子供、つまり私の孫(男児、名はせいご)に「せいは、ママのお腹にいたとき何をしていたの?」と聞いたそうだ。孫は「水の中でチャピチャピしていた。」と答えたと言う。私は驚いた。幼児はある時期まで母親の胎内に居たときの記憶が残っているらしいのだ。その時期と言葉を話し始める時期が重なっている間にママのお腹に居たときの事を聞いてみると良いのだろう。胎児に話し掛けたりモーツアルトを聞かせると胎教に良いとか言うのは根拠のある事なのだと判った。