読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

新潮社、「若き数学者のアメリカ」藤原正彦著

2008-05-31 10:08:30 | Weblog

「国家の品格」と言うベストセラーを著した事で知られる藤原正彦は1972年1年間の予定でアメリカのミシガン大学へ研究員として招かれ初めてアメリカに渡った。そこでの義務は研究だけと言う恵まれたポジションで生活費は大学を通してN.S.F(国家科学財団)から月額500ドルが支給され、多くはなかったが独り身には充分であったと言う。ハワイに最初に着いたがそこでの税関では自分のスーツケースに日の丸とミシガン大学数学教室などと英語で書いた名札を付けて置いたために税関吏はあっけない程簡単に手続きを済ませてくれたそうである。余り簡単だったので却って心配になり空港出口にいた日系らしい航空会社の娘さんに確かめようとした。その時、すばやく頭の中で英作文をしたとこの本に書いている。初の外国行きとなるとやはりこんなものかと面白かった。ハワイの高級レストランで大枚15ドルをはたき、鴨のオレンジジュース煮なるものを食べたが日本で1ドルで食べられるラーメンやギョウーザに敵うとは思えなかったそうである。またハンバーガーを日本式に言ったら通じず、ハの部分にアクセントを置いて思い切りキザに発音したらたちまち通じたそうで、これも面白いと思ってこの本を読んだ。

養老孟司もフリーターだった

2008-05-30 13:06:55 | Weblog

新潮社「超バカの壁」養老孟司著より
養老孟司氏は自分は若い頃はフリーターと大差は無かったと書いている。29才まで給料というものを貰えなかった。それでもそれは自分だけの事ではなかったとも。大学の医学部を24歳で出て25歳でインターンをやった。それから大学院生を4年、その間、給料はない。従ってアルパイトをしたそうである。しかし最終的には医者になる事は決まっており、その点フリーターとは少し違っていた。そう言う人を「モラトリアム人間」、とその頃は言った。夏目漱石はそれらを「高等遊氏」と呼んだそうだ。働かなくても暮らせた人は、当時、地主、資産家ぐらいしか居なかった。エコノミストの日下公人氏から養老氏はこんな話を聞いたそうである。戦前、旅館に泊っている人を警察が「見回りに来た。宿帳の職業欄に「無職」と書いてあると巡査は「今日は客種がいいな。」と言っていたそうである。

日本製漢字熟語

2008-05-29 15:31:53 | Weblog

中国四川省の地震の被災地で中国レスキュー部隊が被災者の救援に努力している。彼等の制服の背中に「消防」と言う文字が見られる。その漢字熟語は日本で出来たものではないかと思った。
日本は訓読と言う方法により漢字一字一字の意味が判るやり方を発明した。その方法で自在に新しい漢字熟語を生み出して来た。特に明治期、その漢字熟語が量産された。そしてそれが中国に逆輸入された。そうした漢字ばかりを集めた「日本漢字和漢字詞研究」と言う本が中国にあるそうである。以下にその書籍に見られる幾つかの日本製漢字熟語を挙げてみると、
保健、保険、保障、保証、保釈。
背景、必要、便所、表情、表現。
博士、不動産、不景気、材料、倉庫。
財閥、財務、財政、簿記学、弁護士。
承認、抽象、出版、出席、初歩。
癌、処方、処刑、病理学、舶来品。
意味、意志、改善、根本的、宗教。
組合、取締、取消、高利貸。
自由、民主、科学、哲学、理想。
信用、人格、住所、社会、労働力。
政党、政策、支配、経済、固定資産。
共産主義。人民や共和国も同様でこれらについては以前にブログに書いた事が有る。

漢字の横書き

2008-05-28 15:00:51 | Weblog

戦前の新聞の見出しや看板の文字は横書きの場合は文字は右から左へと書かれている。それで戦前は文章は右横書きであったものが戦後になって左横書きになったと思う人が多い。がそうではなく戦前でも横書きは左から石へ書いていたのである。それでは新間のあの見出しや商店の看板は何なのか。実はあれは縦書きだったのである。日本語を縦書きで書くとき右の行から左へ書き進めて行く。たとえば「春夏秋冬」を一行を一文字で横書きするなら左から「冬秋夏春」と言うようになるのである。

人名の「」

2008-05-27 11:11:40 | Weblog

新潮新書「漢字は日本語である」小駒勝美著より
名を縦棒一本の「」と言う人がいるそうである。「すすむ」と読む。ところがこの文字の意味は「しりぞく」だと言う。一本の棒が正反対の意味を持っているのである。しかしこの正反対の意味の区別はその縦棒の書かれた方向によるのだそうだ。この棒が下から上へ引かれていれば「進む」。上から下に書かれていれば「退く」だそうだ。漢和辞典にもそう書かれているそうだ。私の二冊の漢和辞典には無かった。「すすむ」「しりぞく」でも国語辞典にはなかったが。

斉と斎

2008-05-25 11:01:48 | Weblog
新潮新書「漢字は日本語である」小駒勝美著より
「斉」と「斎」は別の文字で、斎は斉の旧字でも略字でもない。
「斎」は「さい、いつき」と読み神仏に対するとき心身を清めることを言う。斎戒沐浴、書斎、斎宮などの用法がある。「齋」が旧字である。
「斉」は「せい、さい、ととのえる、ひとしい」と読み「そろって同じ」と言う意味。
均斉、一斉、斉唱などの用法が有り「斉藤」のときだけ「さい」と読む。斉は「ひとし」と読む人名にも使われる。「齊」が旧字。 

岩倉欧米視察団

2008-05-24 14:23:02 | Weblog

幕末の不平等条約改正を目指して維新政府は、作家永井路子が自身の著「岩倉具視」の中で「お気の毒ながら、無意味愚挙と言わざるを得ない」と評した1871(明治4)年の岩倉欧米視察団を送り出した。その視察団は一年十ヶ月の長年月を掛けたにも拘わらず、彼等視察団が国際ルールに未熟だった為に単なる「欧米への挨拶廻りと各国社会文化の見物」に終止した。視察団の一人、大久保がビスマルクに会ったとき衝撃を受けた話が有る。大久保が万国公法(国際法)を話に持ち出したときビスマルクは、「そんなものは大国が自分の都合の良いときにだけ持ち出す「強国の並べた理屈さ。弱肉強食の押し付け」に過ぎないと言うのである。この話は私は今から四十数年前の大学時代に「政治史・西洋」と言うタイトルで講義された山口定教授(その当時は助教授)の授業の中で聞いた事が有った。少し前、山口教授がNHKの「その時、歴史が動いた」と言う番組に出演されていた時、久しぶりに教授の姿を見て、その話を思い出した。余談だが助教授時代、はつらつとしておられたが四十数年後、テレビでお見かけした教授はさすがに白髪になられ、多少猫背にもなっておられた。永井路子氏はこの「岩倉具視」を書くに当たって岩倉家嫡系の子孫、岩倉具栄(ともひで)氏から資料の提供の申し出を受けたそうである。

「阪」と「坂」

2008-05-23 15:02:57 | Weblog

「阪」は殆ど地名にしか使われない。大阪、松阪市くらいだが歴史を見ると「大坂夏の陣」とか「大坂城」、「松坂藩」など多くが「坂」である。江戸期まで大阪も松阪も坂を使っていた。大阪の場合、坂がこざと篇の大阪になったのは明治元年(1868)に大阪が府になったときである。何故、そんな事になったのか。実は維新政府の太政官から下付された大阪府の印に「阪」の字が使われていたのが原因だそうだ。印を彫るときに篆書体と言う秦の始皇帝が作らせた書体を多くの場合に使い、その書体が「説文解字」に多く載っていて印を彫る作業をする者はその説文を手本にして来たのである。ところがその説文に「坂」の字は無く代わりに「阪」の字を使ったと言う事のようだ。松坂市の場合も事は同様だったと推測される。

「々」の読み方

2008-05-22 14:35:52 | Weblog

「々」は漢字ではなく記号で読み方は無く、この記号の名称だけがある。「同の字点」と言うのが正式な名称である。前の漢字を繰り返す記号である。もとは「仝」(どう)と言う字が変化した記号で出版業界では通称「ノマ」と言われているそうだ。この記号は日本独特のもので中国にはない。歌人の佐佐木信綱は本来、「佐々木」と言う苗字だったが中国に行ったとき「々」と言う文字は中国には無いと言われ「佐佐木」に改姓したそうである。

続「部首の分類」

2008-05-21 10:43:46 | Weblog
新潮新書「漢字は日本語である」子駒勝美著より
中国、明の時代の1615年、梅膺祚(ばいようそ)が「字彙」と言う字典を編集した。部首の数を「説文解字」の半分にして二百十四にし画数順に整理し部首を決めるやり方も変更した。例えば「強」は「説文」では音符が「弘」(こう)で意符が「虫」なので部首は「虫の部」に属するが「字彙」では「弓の部」に変え解り易くした。が部首の原則はそのまま後の字典に受け継がれた。清の時代になって康熙帝の命に拠り、1716年に「康熙字典」が出来た。四十二巻四万七千三十五字からなる大字典である。同じく部首、画数順に並べられ、この配列順が日本の漢和辞典にも使われている。