読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

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2011-11-30 09:10:24 | Weblog
新しいオーディオプレーヤー4Gを買ったが、それに入れる目的の音楽ファイルが何処に
行ったのか探している。
目的の音楽はクラシックも演歌もオールディズもCDに焼いてある筈なので、
何処かに有るのだが、それが見つからない。使えなくなったオーディオプレイヤーに入っていた
音楽が全部はバックアップが取れなかった。
その中にお気に入りの私の大学の校歌が入っている。
この校歌の編曲が田舎臭いもので、今、大学の校友会のホームページで流れているものより、
古い編曲の校歌の方が野性味が有って、私は気に入っているのだ。
その校歌の中の歌声に私の声も入っているからだが。

白川静の言葉

2011-11-29 09:42:31 | 漢字
「漢籍が学校の教科から外されて、半世紀に近い。千数百年にわたって、わが国の文化の中に存した漢文は、今は枯渇した状態にある。漢籍を古い文献に過ぎないと思うのは古典の本質を知らぬものである。古典は常に新しい。平安期の人にも明治大正の人にも漢籍は生きた文化財であった。その時代なりの吸収の仕方があり、活用もされてきたのである。中略、漢籍の受容は、欧米の知識の受容によって代えうるものではない。むしろ、それによって養われ、わが国の独自の文化を培養する豊沃な土壌を用意するものであった。」
白川静著「桂東雑記拾遺」平凡社から
私は上掲の本のこの部分を読んで明治期、日本が諸外国から多くの知識を移入したとき、役立ったのは英語でもフランス語でもドイツ語でもなく漢字の造語力であった事と、中江兆民もこの為、漢字の塾へ入りなおしたと言う事実を読んだ事を思いだした。

黄門の助さんは漫遊した。

2011-11-27 10:04:02 | 歴史
助さんは本当は漫遊ではなく光圀のために歴史資料を全国に求めて
旅をした。この助さんのモデルの佐々介三郎宗淳は元、京都妙心寺の
僧だった事は知らなかった。「祖淳」と号した。
承応3年(1654年)15歳のときに京の臨済宗妙心寺の僧侶だった。
父は佐々直尚で、その七男一女の五男として生まれた。
母は加藤清正の家臣大木兼能の娘。 父の佐々直尚は、はじめ熊本の
加藤清正に、次いで子の忠広に仕えたが、寛永に讃岐に移って生駒高俊に仕えた。
寛永17年生駒騒動が起きると佐々直尚の一家も讃岐を立ち退くこととなり、
その途上、瀬戸内の一小島で生まれた。そのため、幼名は島介といった。
仏教に疑問を持ち、密かに論語を読み儒学に傾倒するようになった。
延宝元年(1673年)、34歳のとき還俗。江戸に出て翌延宝2年9月、水戸藩に仕官し
進物番兼史館編修となったそうだ。
吉野山中の神社に佐々宗淳が書いた後醍醐天皇関係の資料借用証が残っているそうだ。
作家の童門冬二がそれを見たことがあるそうだ。

石原慎太郎とジャック・ニコルの対談から

2011-11-26 10:58:02 | 読書
ジャック・ニコルは22歳から二年半、カナダ政府の召請で捕鯨の調査をやり、捕鯨船にも乗っていた事があったそうである。
ニコル:僕は日本の鯨捕りを尊敬していたんです。
石原:どうゆうところで?技ですか?
ニコル:彼らは勇敢で、国際捕鯨委員会のルールを守る海の紳士だと思っています。
   しかし、反捕鯨の動きが、反二本の動きに変わったとき、西洋のマスコミは
   「日本の鯨捕りは最後のシロナガスを動物の餌のために捕っている」と叩いた。
   そこで僕は、正しい目で捕鯨を見て欲しいと思ったから「ちょっと待てよ。反対
   するしないはいいけど、嘘はだめだ。日本はシロナガスは25年間も捕っていないし、
   まして、動物の餌にするわけがない。」と言いつづけた。結局、いろいろな保護団体   を敵に回しましたが、自分が尊敬している人々が本当のことでないことで叩かれるの   は許せなかった。だから政府の仕事をやめて、太地に住んで「勇魚」を書いた。
   ドン・キホーテと言うより、ドン・キホーテのロバのような感じですよ。
石原:ハハハハ。
 注:「勇魚」(いさな)1987年に刊行されたC・W・ニコル氏の小説
    幕末の日本を舞台にした海洋冒険小説

て(te)のeがaに代わって、た(ta)になることが

2011-11-25 09:05:03 | 漢字
「手」の音はtとeに分解出来るが、日本では古く、そのeとaが入れ替わったり
iとoが入れ替わることが有った事が知られている。
目(me)が目(ma)とも読まれることが有り、木(ki)が木(ko)と読まれる
例が有る。「目のあたり」は「まのあたり」、眼(まなこ)やまなじり、も
そうだろう。木は、こかげ、打ち出の木(こ)づち、なども。
話を「手」に戻すと、「手(て)もつ(保つ)」、「手(た)ずさえる」
手向(たむ)ける、手綱(たづな)などが有る。
何か法則が有りそうだ。対象への働きかけが有るときに音の変化が
現れるのか、わたしには良く分からない。


宛名入力作業で

2011-11-24 09:24:11 | パソコン
昨日、息子が嫁さんの在所の喪中はがきの宛名書きをパソコンで
頼まれ、私の家にその作業をやりに来た。息子の家にはパソコンは
ノートを入れて三台あるがプリンターが一台もないからだった。
まず、宛名の名簿を作らなければならないのだが、さすがと言うか、
ハガキのソフトだけに人名は可成り効率良く変換出来る事に息子が
感心していた。ハガキソフトは2001年のもので可成り、古いソフトだ。
41人ほどの宛名を住所録に登録し、宛名印刷まで済ませた。
それでも一時間ほどの時間が必要だった。
私の方はプリンターの調子が必ずしも良くはなく、それを心配していたが
無事に作業完了させられ安心出来た。

ベッドに潜り込んでネットを

2011-11-23 10:41:59 | パソコン
寒くなったので夜、寝る前に布団の中に潜り込んで
ノートパソコンでネットに繋いでいる。
我が家は昔ながらの有線のランで四台のデスクトップが
各部屋に繋がっている。が、そのままではノートパソコンで布団に
潜り込んでネットと言うわけにはいかない。
そこで、ベッドに一番近いデスクトップに無線ランのアクセス
ポイントを作り、そこから電波を飛ばすとその電波をノート
で受け、ベッドで暖かくネットが出来ると言う具合にした
訳だ。

樽買い

2011-11-22 10:32:04 | 歴史
『樽拾い』と言う言葉が江戸期にあった。それは酒屋、醤油屋に奉公する少年のこと。

 いわゆる『丁稚(でっち)』のことである。

 その仕事のひとつが得意先から空樽(あきだる)を集めて回ることがあった。

 


 昔、酒、醤油などの液体を入れる容器には木製の樽が使われた。

 酒樽、醤油樽は丈夫に作られており、何度でも使えた。

 空になった樽は回収されて、再利用された。

 当時の江戸には、そのような空樽を買い集める商人がいた。

 それが『樽買い』と言う。

 『樽買い』が買い集めた樽は空樽問屋に売られた。

 空樽問屋は酒、醤油の醸造業者に空樽を供給した。

 宝暦年間(18世紀半ば)、江戸には幕府の許可を受けた空樽問屋が20
 
 軒ほど有ったと言うことだ。


 俳句が有る。

   雪の日や あれも人の子 樽拾ひ

この句は江戸時代中期の安藤信友の作で、彼は備中松山藩の第二代藩主、
 のちに美濃加納藩の初代藩主となった。
 徳川吉宗の時代に老中を務めた。
 庶民の暮らしを知っていた家老で有った。


中国富裕層国外脱出の動き

2011-11-19 10:53:54 | 新聞


このほど発表された調査結果によると、中国の富裕層の半分以上の人は外国移住を検討したり、実際に移住計画に乗り出したりしている。今年これまでの各種調査で明らかになった傾向が確認された形で、同国の急速な経済成長にもかかわらず、ビジネスエリートの間に生活の質や資産の今後についての不安があることがうかがえる。
イメージ AFP/Getty Images


 中国銀行と同国富裕層の研究に当たっている「胡潤リポート」が10月29日に発表した、資産1000万人民元(1億3000万円)以上の中国人980人を対象にした調査報告によると、最も人気のある移住先は米国だった。

 中国の経済成長は、ペースが鈍ったとはいえ、西側世界がうらやむ水準にあることに変わりはない。今年第3四半期(7-9月)の国内総生産(GDP)伸び率は9.1%で、国際通貨基金(IMF)は今年全体の成長率が9.5%になると予想している。

 しかし、高いインフレ率やバブル的な不動産市場、外需の急激な鈍化など多くの問題によって、中国の成長が頓挫する不安が高まっている。

 経済成長から利益を得た多くの中国人も、一人っ子政策、食の安全、環境汚染、汚職、貧弱な教育制度、未熟な法制度などの社会問題への懸念を強めている。

 胡潤リポートの発行者、ルパート・フーゲワーフ氏は、移住を計画している人たちに最も共通した理由は子どもの教育で、次いで、より良い医療サービス、それに中国の環境汚染だと述べた。同氏は経済、政治的環境への不安を指摘し、「保険的要素もある」としている。

 ただ同氏は、移住しつつある多くの個人は大方のお金を中国に投資したままにしていると答えているため、今回の調査結果が資本逃避を示唆しているのかどうかははっきりしないと述べた。

 中国は資本規制をしており、富裕層が資金を国外に持ち出すのは難しい。ただ、そこには多くの抜け道があるのも事実だ。一部のエコノミストは、ここ数カ月に大量の資本が流出した兆候が見られるとし、世界的なリスク選好が弱まったことや、人民元の緩慢な上昇が予想されることによるのではないかと述べた。

 中国銀行と胡潤リポートの調査は今年5~9月に、北京、上海、武漢、南京、大連、蘇州など18の主要都市で行われた。報告によると、1000万元以上の「個人資産」を持つ人は推定96万人おり、1億元以上は6万人いる。一方、中国招商銀行と米コンサルティング会社ベインは、1000万元以上の「投資可能個人」資産を持つ人は昨年時点で50万人、1億元以上は2万人と推定している。

 今回の調査対象者の平均年齢は42歳、平均個人資産は6000万元だった。46%が移住を検討していると答え、14%が既に移住したか、申請をしたと答えた。フーゲワーフ氏によると、資産1億元以上の人の傾向はもっと顕著で、それぞれ55%、21%だった。

 移住先のトップは米国(全体の40%)で、以下、カナダ(37%)、シンガポール(14%)、欧州(11%)の順。また、3分の1は海外に資産を持っており、28%は今後3年間に海外投資を計画している。海外に資産を持っている回答者の半分はその理由を子どもの教育だとし、32%は移住を理由に挙げた。投資先の人気トップは米国(42%)で、投資形態で最も多かったのは不動産(51%)だった。

記者: Jeremy Page

続・記者 正岡子規

2011-11-18 09:01:07 | 歴史
子規は日清戦争から帰って病気から体力を取り戻し、新聞「日本」に
「従軍記者」というタイトルの記事を七回に渡って書いた。
子規が神戸で約三ヶ月、入院生活を送ったが、その後郷里松山に帰り
松山中学に在職していた漱石に逢っている。更に後、奈良に遊んだとき
「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ。この間も、子規が
従軍中に軍から受けた理不尽な扱いに対する怒りは無くならなかった。
従軍中、子規は待遇も礼儀もなく寝る場所も飯も湯も満足には与えられず
従軍神官僧侶より扱いは悪く、馬鹿にされ「われは覚えず涙ぐみたり」と
書いている。が、大連にいたとき一度だけ海軍の宿舎に泊まった事が有り
そのときは陸軍に比べ待遇が良いのに驚いたと書いている。