読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

小平が漢字で日本に謝罪していた?

2015-04-08 14:35:17 | 文化

中国の小平が副首相であったころ日中友好協会の

招きで中国を訪れた西園寺公一は小平に

「中国は日本軍国主義に大きな損害を蒙ったが

中国は歴史的に二つの点で日本に迷惑をかけた

その一つは漢字である。」とユーモアたっぷりに

謝罪されたという。漢字が中国の発展にとって重荷で

あることはよく知られている事であるし、魯迅なども

そのようなことを言っていた。日本でも戦後、漢字を

廃止して日本語をローマ字表記にしようと言う動きは

有った。が明治期、この漢字が諸外国からの文物、文明

の大量の入国で大きな役に立っていたのである。

明治の先達はこの漢字の造語力を駆使して新しい文明を

日本語に置き換えて行き、結果、現代の我々は日常で

外国語なしでも殆ど不自由無く暮せるようになっているのである。

小平にはともかく、漢字には感謝しなければならない。

明治の先達にも。

 


業績の悪い社員のほうが仕事を愛している?

2013-03-30 09:21:13 | 文化
wsj日本版から
By LAUREN WEBER

 会社で最も優秀な社員は、最も幸せで最も充実しているべきだ。しかし、常にそうであるとは限らない。

 最新の研究によると、42%の企業で上位や中位の業績を収めている従業員より、業績が悪い従業員のほうが実際にはより充実していると回答した。例えば、こうした従業員は他の社員よりもやる気があり、組織のなかで働くことを楽しんでいる傾向がある。



業績の悪い社員のほうが充実度が高いことも

 この研究結果には、多くの組織で仕事に責任を負う従業員だけでなく、業績の悪い社員も在籍を許されていることが示唆されている、と話すのは、この研究を実施したコンサルティング会社リーダーシップIQ(ジョージア州アトランタ)のマーク・マーフィー最高経営責任者(CEO)氏だ。

 マーフィー氏は「業績の悪い社員には、管理職が多くを要求しないため、しばしば簡単な仕事しか与えられない」と指摘する。だからストレスが少ないうえ、他の社員よりも日々の仕事に満足するという。

 一方、献身的で誠実な社員は会社に遅くまで残り、業績の悪い社員の仕事を修正し、顧客や消費者が満足するよう万全を整える。このパターンは業績の良い社員の不満と意欲の低下を生み、そしておそらく最終的には別の仕事を探させることになる。「彼らはストレスを覚え、低く評価されていると感じ、会社は実力主義だとの確信が損なわれ始める」とマーフィー氏は話す。

 この状況を改善するため、管理職は上位から中位の業績を上げている社員と腹を割って話し、離職につながりかねない彼らの不満を探し出すべきだ。また、どんな動機付けが彼らを会社にとどめておくかについても見つけ出すべきだ、とマーフィー氏は言う。

 リーダーシップIQはこの結論を導くにあたって、社員の業績評価と充実度に関する詳細な記録をつけている207社の企業のデータを調査した。

 このうち残りの58%の企業では、業績の良い従業員の充実度が最も高いか、もしくは他の従業員と同程度という結果になった。まれなケースではあるが、マーフィー氏によると、中位の業績を収めている従業員が最も充実していた企業もあった。中位にいる従業員、つまりスーパースターでもなく、怠け者でもない社員は、管理職に無視される傾向にある、とマーフィー氏は指摘する。

 リーダーシップIQはさらに、1つの企業について踏み込んだ調査を行った。この企業は従業員1000人を擁するテクノロジーサービス会社で、業績の最も低い従業員が高い充実度を示した。「仕事をする際は100%の努力をする」という設問に対して、7点満点で自己評価をしてもらうと、業績の悪い従業員の点数は5.99点となった。一方、業績の良い従業員は全体で5.36点、中位の従業員の点は5.32で最も低い結果となった。

 また、業績の悪い従業員は他の2つの業績グループに比べ、自身の会社を「働くには素晴らしい組織」だと勧める傾向にあることが分かった。しかも多くの場合、彼らは自分たちの業績が悪いとは気づいてさえいない。社員は「全員同じ基準に応えている」かどうかについて聞かれると、業績の良い従業員に比べて、業績の悪い従業員はこれに同意する傾向がかなり見受けられた。

米フォード、風刺画広告で謝罪 女性蔑視などとの批判受け

2013-03-27 10:13:52 | 文化
wsj日本版から
By JONATHAN WELSH

 米自動車大手フォード・モーターのインド向け小型車フィーゴの風刺画広告が侮辱的で、不快感を与え、女性蔑視だと物議を醸し、同社は謝罪せざるをえない羽目に陥った。


Ford Motor Co.
問題となった米フォードの風刺画広告

 問題の広告は、イタリアのベルルスコーニ前首相が運転しているフィーゴの後部トランクに3人の女性が縛られ猿ぐつわをされているもの。フィーゴはトランクの大きさが売り物になっており、広告には「心配事は、フィーゴの特大トランクに置いて」というキャッチコピーが付いている。

 フォードは「こうしたことが起きたのは非常に残念であり、2度と過ちは犯さないことを提携代理店と確認した。広告は、フォードおよび提携代理店のプロ意識と慎み深さに反する」と謝罪した。

 この広告は同社の風刺画広告3枚組の1つ。F1のエースドライバーだったミハエル・シューマッハが、セバスチャン・ベッテル、ルイス・ハミルトン、フェルナンド・アロンソの3人のライバルを後部のトランクに押し込んだものもある。実生活ではシューマッハは年を重ねた元チャンピオンで、F1での主役の座を退く主因となった現役の3人と一緒に登場させたことで、レーシングファンの笑いを誘うかもしれない。ただ、3人が縛られ口にテープを巻かれている姿に不快感を持つ向きもある。

 もう1つは、ゴシップを振りまくセレブとして有名なパリス・ヒルトンさんが、同じくセレブのカーダシアン姉妹をトランクに監禁している風刺画だ。

 ただ、今回の騒動で結局フィーゴの売り上げが数台増える可能性もある。

「ダビデ像」に下着は必要か

2013-03-15 09:08:32 | 文化
wsj日本版から
島根県の観光名所といえば出雲大社、宍道湖、松江城などが挙げられるが、最近では「ダビデ像」が話題を呼んでいる。島根県の東部にある奥出雲町の公園に、イタリア・ルネサンス期の芸術家ミケランジェロによるダビデ像のレプリカが同町出身の広島県在住の実業家から寄贈された。

地域では珍しい裸体像で、下着を着用させるべきとの声が地元住民から持ち上がった。いまではネット上にも論争が広がっている。一部には子供の教育に良くないとの主張もある。

1500年代初頭に製作されたオリジナルのダビデ像は、イタリア・フィレンツェのアカデミア美術館に展示されているが、ミケランジェロがもしこの論争を知ったら「またか」と怒り心頭だろう。

というのも、1541年に完成したフレスコ画「最後の審判」でも似たような「事件」があったためだ。

新しいローマ法王が13日に選出されたが、枢機卿たちによる投票(コンクラーベ)が開かれたシスティーナ礼拝堂の正面を飾るのが「最後の審判」。キリストの再臨を描いた同作品は人々が死者、生者の区別なく裁きを受ける群像になっている。

画中には裸体が多く、儀典長から着衣姿に修正するよう勧告が出されたことから、ミケランジェロは自分の芸術を理解しなかったこの儀典長に恨みをもったとのエピソードもある。ミケランジェロの死後、裸体を隠すために上から描き加えられた衣装は、その後一部を除き元の姿に復元されたという。

奥出雲町の担当者は取材に対し、「芸術なので下着の着用などはまったく考えていない」と話しているが、読者はどう思うだろうか。

記者: 吉池 威

大みそかの長寿番組が映し出す日本の両極

2013-02-14 10:20:12 | 文化
マイケル・プロンコ氏の「TOKYOEYE」NewsWeek日本版から


 大みそかの晩になると、毎年「しまった」と思う。商店もレストランも早じまいするのを、すっかり忘れているからだ。大みそかの東京は、SF映画で大災害に襲われた町のように人っ子一人いなくなる。となると行き場は2つ。神社で震えながら初詣の列に並ぶか、暖房の効いた部屋でぬくぬくとテレビの前に座るかだ。

 私が日本で過ごした最初の年の大みそかは、衝撃体験だった。どうして店が全部閉まってるんだろう。みんなどこでパーティーをしてるんだろう。新年の花火の音を聞いて銀座を歩きながら、私は首をひねった。日本の人々が初詣の参拝先かテレビの前に集まっていることを、そのときの私は知らなかった。

 昨年の大みそかは家で食事をした。家族が初詣に行こうとしないので、テレビの前に集まりNHKにチャンネルを合わせた。大みそかの特別番組を見たことがなかったわけではない。だがいつもパーティーで飲んだりしゃべったりしながらだったので、毎年恒例の2つの番組がこれほど対照的だとは気付いていなかった。

『紅白歌合戦』に続き『ゆく年くる年』を見ていると、日頃から日本に対して抱いている戸惑いが頭をもたげた。私が暮らす日本はギラギラしたポップカルチャーの国なのか、それとも伝統と精神性を重んじる国なのか。

『紅白』は派手な演出や作り込まれた振り付け、ディズニーランドめいた雰囲気が、どうもいただけない。衣装は人形みたいだし、司会は退屈、肝心の歌はまるでカラオケだ。

■初詣で分かる「本当の日本」

 だが白組優勝が決まって『紅白』が終わると、私はぐっとテレビに引き込まれた。日本各地の初詣の様子を中継する長寿番組『ゆく年くる年』が始まったのだ。

 雪や森、山々や海を背景に、除夜の鐘を突こうと行列をつくる人々。重厚な造りの神社や寺は色鮮やかな幕や提灯、しめ縄で飾られている。カメラに向かって盛んに手を振る参拝客もいるが、ほとんどの人はひっそりと祈りをささげ、おさい銭を入れ、巨大な丸太で鐘を突こうと静かに待っている。

 これこそ本当の日本だ!と、私は毎年快哉を叫ぶ。

 だが本当にそうなのか。『紅白』も本当の日本ではないのか。古式ゆかしい聖地と最新のポップカルチャーほど懸け離れたものはない。神社を見れば反射的に「行ってみたい」と興味を引かれるが、万人受けを狙い、目にも耳にもけばけばしい『紅白』は、私にとっては興ざめだ。

『ゆく年くる年』が好きなのは、人も場所もありのままに映してくれるから。初詣もある意味、パフォーマンスなのかもしれないが、それは精神と伝統文化を大切にする真心に根差している。私に言わせれば、お寺でこうべを垂れてお経を唱える人の姿は、YouTubeのビデオを派手に化粧直ししたような『紅白』よりずっと素晴らしい。

 象徴的にも美しさの面でも、2つの番組は対極にある。片方はファンタジーで、もう一方はドキュメンタリー。『紅白』が予定調和であるのに対し、『ゆく年くる年』はこれまで見たこともないものを見せてくれる。不変の美、深い精神性、そしてミステリアスな時の流れ。

 私には、商売っ気たっぷりに有名歌手を出演させる『紅白』が日本の「建前」に、『ゆく年くる年』が「本音」──日本の心と魂──に思える。

 両方とも私が抱く日本の印象に重なるが、どちらがより日本的なのだろうか。

 決める必要はないのかもしれない。テレビのリモコンを手にして、スタンバイすればいいだけだ。毎年大みそかになれば『紅白』の日本も『ゆく年くる年』の日本も、必ず見られる。ただし今年の大みそかは、『紅白』の勝敗が決まってからテレビをつけることにしよう。

マイケル・プロンコ

[2月5日号掲載]

 大みそかの晩になると、毎年「しまった」と思う。商店もレストランも早じまいするのを、すっかり忘れているからだ。大みそかの東京は、SF映画で大災害に襲われた町のように人っ子一人いなくなる。となると行き場は2つ。神社で震えながら初詣の列に並ぶか、暖房の効いた部屋でぬくぬくとテレビの前に座るかだ。

 私が日本で過ごした最初の年の大みそかは、衝撃体験だった。どうして店が全部閉まってるんだろう。みんなどこでパーティーをしてるんだろう。新年の花火の音を聞いて銀座を歩きながら、私は首をひねった。日本の人々が初詣の参拝先かテレビの前に集まっていることを、そのときの私は知らなかった。

 昨年の大みそかは家で食事をした。家族が初詣に行こうとしないので、テレビの前に集まりNHKにチャンネルを合わせた。大みそかの特別番組を見たことがなかったわけではない。だがいつもパーティーで飲んだりしゃべったりしながらだったので、毎年恒例の2つの番組がこれほど対照的だとは気付いていなかった。

『紅白歌合戦』に続き『ゆく年くる年』を見ていると、日頃から日本に対して抱いている戸惑いが頭をもたげた。私が暮らす日本はギラギラしたポップカルチャーの国なのか、それとも伝統と精神性を重んじる国なのか。

『紅白』は派手な演出や作り込まれた振り付け、ディズニーランドめいた雰囲気が、どうもいただけない。衣装は人形みたいだし、司会は退屈、肝心の歌はまるでカラオケだ。

■初詣で分かる「本当の日本」

 だが白組優勝が決まって『紅白』が終わると、私はぐっとテレビに引き込まれた。日本各地の初詣の様子を中継する長寿番組『ゆく年くる年』が始まったのだ。

 雪や森、山々や海を背景に、除夜の鐘を突こうと行列をつくる人々。重厚な造りの神社や寺は色鮮やかな幕や提灯、しめ縄で飾られている。カメラに向かって盛んに手を振る参拝客もいるが、ほとんどの人はひっそりと祈りをささげ、おさい銭を入れ、巨大な丸太で鐘を突こうと静かに待っている。

 これこそ本当の日本だ!と、私は毎年快哉を叫ぶ。

 だが本当にそうなのか。『紅白』も本当の日本ではないのか。古式ゆかしい聖地と最新のポップカルチャーほど懸け離れたものはない。神社を見れば反射的に「行ってみたい」と興味を引かれるが、万人受けを狙い、目にも耳にもけばけばしい『紅白』は、私にとっては興ざめだ。

『ゆく年くる年』が好きなのは、人も場所もありのままに映してくれるから。初詣もある意味、パフォーマンスなのかもしれないが、それは精神と伝統文化を大切にする真心に根差している。私に言わせれば、お寺でこうべを垂れてお経を唱える人の姿は、YouTubeのビデオを派手に化粧直ししたような『紅白』よりずっと素晴らしい。

 象徴的にも美しさの面でも、2つの番組は対極にある。片方はファンタジーで、もう一方はドキュメンタリー。『紅白』が予定調和であるのに対し、『ゆく年くる年』はこれまで見たこともないものを見せてくれる。不変の美、深い精神性、そしてミステリアスな時の流れ。

 私には、商売っ気たっぷりに有名歌手を出演させる『紅白』が日本の「建前」に、『ゆく年くる年』が「本音」──日本の心と魂──に思える。

 両方とも私が抱く日本の印象に重なるが、どちらがより日本的なのだろうか。

 決める必要はないのかもしれない。テレビのリモコンを手にして、スタンバイすればいいだけだ。毎年大みそかになれば『紅白』の日本も『ゆく年くる年』の日本も、必ず見られる。ただし今年の大みそかは、『紅白』の勝敗が決まってからテレビをつけることにしよう。


「Michael Pronko マイケル・プロンコ氏紹介」
60年、米カンザスシティー生まれ。明治学院大学教授。専門はアメリカ文学と文化。先頃、本欄「Tokyo Eye」の連載をまとめた『トーキョーの謎は今日も深まる』が刊行された。その他の著作に『僕、トーキョーの味方です』『僕、ニッポンの味方です』(すべてメディアファクトリー)。長年英語を教えてきた経験から、英語と日本人の関係を考えるエッセーをサイトで公開。http://www.essayengjp.com/ ジャズに対する造詣が深く、ジャズに関するサイト「Jazz in Japan」も運営している。

フェースブックがあなたの人生をぶち壊す10 Ways Facebook Can Ruin Your Life

2013-02-13 09:41:26 | 文化
NewsWeek日本版から

借金取りに追われ、就職できず、鬱になりやすい?──ユーザー5億人を突破した世界最大のSNSに潜む10の落とし穴

 7月21日、フェースブックの登録者数が5億人を突破した。この節目は重要だが、無意味でもある。世界最大のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の巨大さを世界に思い起こさせるニュースではあるが、そもそもそんなことを思い出す必要はないのだから。

 フェースブックが多くのアメリカ人の日常生活の一部になっているのは間違いないが、日常生活にどんな影響を及ぼしているかはまだ未知数。もちろん、健康を増進したり、人付き合いから写真の共有まで生活のあらゆる側面を便利にしてくれることはわかっている。

 だが、その一方でユーザーの個人情報がフェースブックの提携企業に流出しているという疑惑をはじめ、さまざまな負の側面もある。フェースブックが私たちの生活にもたらしかねない10の弊害を挙げた。

1)生みの親が見つかる

 いいニュースの場合もあるが、そうでないこともある。プリンス・サガラは元夫が10年以上前に連れ去った子供たちをフェースブックで見つけた。サガラは子供たちに連絡を取り、親権を手に入れたが、父親に育てられた子供たちは彼女との関わりを拒んでいる。

 15歳になった息子をフェースブックで発見した女が、我が子を性的に虐待し、懲役9~30年の判決を受けたというひどい話もある。
 
2)債権者に監視される

 債権者はフェースブックを使って借り主の動向をウォッチしつつ、担保に取れそうな資産がないか目を光らせている。彼らはまずフェースブックを読み込んで、あなたにカネを貸して大丈夫か判断する。返済が滞ると、あなたの書き込みをモニタリングし、資産がないかチェックできる。

3)保険会社に支払いを拒まれる

 鬱病を患い、労災補償を受けていた女性が、フェースブックに笑顔の写真を投稿したために保険金の支払いを中断された。写真から判断して、職場に復帰できる状態だというのが保険会社の言い分。今では多くの弁護士が、フェースブックに情報を公開しすぎないようアドバイスしている。

4)離婚の際に不利になる

 離婚弁護士にとってフェースブックは非常に便利なツールだ。クライアントの配偶者のページをチェックして、不倫や嘘の証拠を見つける(離婚申し立ての5件に1件で、フェースブックが証拠として提出されているという報告もある)。子供と一緒に過ごす代わりに、フェースブック上のバーチャル農場ゲーム「ファームビル」で遊んでいたことを元夫に知られてしまい、親権を失った女性もいるという。

5)鬱になりやすい

 ストニーブルック大学(ニューヨーク州)の研究者らがティーンネイジャーの少女を調べたところ、一日の大半を友人との人生相談に費やしている少女のほうが鬱になりやすい傾向があることがわかった。他人のゴシップや自分の悩みについて考えすぎると、気分が落ち込むのだろう。SNSのユーザーは友人と常につながっており、不健康なおしゃべりに没頭しやすいと、研究者は示唆している。

6)就職できない

 イギリスのある調査では、アンケートに回答した企業経営者の半数が、就職希望者の未熟な面をフェースブック上で発見した場合、採用を見合わせると回答した(酒におぼれたエピソードや不法行為の写真、文法の間違いなど)。

7)家族に秘密がばれる

 口の軽い友人があなたの秘密をコメント欄に書き込んでしまうかもしれない。また、マサチューセッツ工科大学の学生が開発したアルゴリズムを使うと、同性愛者の友人の数を分析することで、どのフェースブックユーザーが同性愛者かを見分けられるという。

中国で大流行の模倣建築

2013-02-12 09:26:01 | 文化
By BIANCA BOSKER
ボンジュール、チャイナ。河北省にそびえる「エッフェル塔」
 

wsj日本版から
北京で建設中の「望京Soho」は、3棟の曲線的なオフィスビルからなる複合施設だ。世界的に著名な建築家、ザハ・ハディッド氏が設計したこの施設はいま、スモッグに覆われながらゆっくりと空に向かって伸び続けている。一方、同施設の関係者によると、そこから約1600キロ南でもハディッド氏のものとそっくりな2棟のビルが建設されているという。

 そのビルの開発会社は、設計を模倣してはいないと否定し、自社の公式マイクロブログにプロジェクトのスローガンを掲げた――「決して模倣するつもりはない。超越したいだけだ」このスローガンは、中国にはびこるすべての模造建築物に当てはまるかもしれない。中国は自らの繁栄を示すため、模倣に手を染めてきたのだ。

 近年、中国の一部の不動産デベロッパーや、さらには政府機関までもが、西洋の有名建築物を次々と精巧に模倣している。モデルにされているのは、ユネスコの世界遺産登録地から、ル・コルビュジエの名作、マンハッタンの摩天楼までさまざまだ。

 フランスのパリ、米カリフォルニア州のオレンジ郡、スイスのインターラーケン、オランダのアムステルダムは、いずれも中国に瓜二つの場所が存在する。

 浙江省杭州市に造られた「水の都」ベネチアには、ゴンドラが行き交う運河やサン・マルコ広場、ドゥカーレ宮殿がある。

 広東省恵州市のデベロッパーは昨年、オーストリア北部の町ハルシュタットのレプリカを披露した。丸石を敷き詰めた街路に、歴史的教会、歩道沿いのカフェまでをも再現している。報道によると、ハルシュタットの住民は、中国人関係者が現地を訪れ建物を調査していたと知り驚いたという。

 中国人建築家で元マサチューセッツ工科大学建築学部長の張永和氏によると、最も模倣の多い建築物は米ホワイトハウスだ。シーフードレストランから一戸建て住宅、それに広州、無錫、上海、温嶺、南京の政府庁舎まで、あらゆる建物のモデルにされている。

 こうした「複製建築」は、西洋への迎合でもなければ、「自国の植民地化」を意味するものでもない。中国の技術的発展や豊かさ、威力をたたえるモニュメントとして建造されているのだ。中国人は、国際的覇権への躍進と憧れを表す力強いシンボルとして、西洋の有名建築物に飛びついた。

 こうした欲求は、中国の建築における数千年来の伝統に深く根差したものである。近代以前の中国では、皇帝は自身の領土内に敵の領土を再現することで支配力を誇示した。広大な庭園に遠隔地から集めた動植物を配し、既知の宇宙の精巧な複製を創造、所有できる力を見せつけることで、支配者の権威を強めた。

 中国の皇帝はまた、敵に対する優位を示すために模倣建築物を利用した。紀元前3世紀、秦の始皇帝は敵対していた6つの王国を征服した記念として、それら王国の宮殿の完全なレプリカを首都に建造するよう命じた。今日の中国は、エッフェル塔やクライスラービルディングを複製し、欧州と米国を自国内に再現することで世界に支配力を顕示している。

 模倣に対する中国人の伝統的な考え方は、現在のトレンドにも反映されている。米国人は模倣を軽蔑だと見なすが、中国人は昔からこれをより寛容で繊細な視点で捉えている。模倣は技術力や卓越性の証と見なされることもある。中国著作権局の局長は、模倣を「文化的創造性」の象徴であると称賛すらしている。 

 中国経済の拡大と欧米経済の衰退を見ていると、紫禁城がホワイトハウスに取って代わり、誰もがうらやむステータスシンボルになる新時代の到来も予感される。すでに中国国内には、ベルサイユ宮殿そっくりの建物の隣に、中国の伝統的な建築物を模した建物が現れ始めているところもある。

 北京の清華大学で建築学教授を務めるZhou Rong氏は、中国国民は「『私たちにはお金がある。たくさんのお金がある。西洋のライバルたちよりも豊かだ』と認識するようになった」と語る。そしてその結果、中国的なスタイルへの関心が新たに生まれた。西洋人は、真似されることに文句を言わずに中国がわれわれをモデルとしなくなったときのことを心配した方がいいかもしれない。

 筆者のビアンカ・ボスカー氏は『Original Copies: Architectural Mimicry in Contemporary China(オリジナルコピー:現代中国における模倣建築)』の著書。本記事は同書をもとにして書かれた。