読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

本来、自由の意味は

2007-08-31 11:05:53 | Weblog

「自由」はフランス革命以来の世界的価値観である。この語は幕末に日本に出来た。福沢諭吉は「西洋事情」のなかで「総(すべ)て其国に居り人と交わりて気兼ねなく遠慮なく自力だけ存分のことをなすべしとの趣意なり。英語に之をフリードムまたはリベルチと云ふ。未だ的当の訳字あらず。」と「自由」の語に注をつけている。彼がこの注をつけなければならなかった理由が有った。西洋生まれのこの「自由」の概念が漢語としての「自由」とはまるで違った意味だったからだ。中国は三国時代の魏の末、王朝を乗っ取る司馬氏一族の企みが露見し王朝は危機に迫られていた。そんな中、王朝の二人の将軍が司馬氏討伐の建議を上奏した。司馬氏を告発したその文中に「権を専らにして勢を用い、賞罰自由なり」とあった。権勢を欲しい侭にして自分の好き勝ってに賞罰を決めていると言うのだ。つまり漢語本来の「自由」は勝って気ままで周囲の事など意に介さない事を意味したのだった。福沢がその「西洋事情」のなかで「自主任意、自由の字は我儘放盪にて国法をも恐れずとの義に非ず。」と「自由」と言う語を使うに当たってその語を定義し直す必要が有ったのだった。

北海道と言う地名

2007-08-30 15:32:42 | Weblog

司馬遼太郎「歴史のなかの邂逅2」から
幕末、松浦武四郎と言う人物がいた。伊勢の紀州藩飛地の富農の末っ子に生まれ、十七歳で二度目の家出をし生涯未開の山野を歩いた。別に生家に不満が有った訳ではなく、父親は本居宣長の門下であり武四郎に諸学の優れた師匠をつけて学ばせたが息子の漂泊への思いを押さえられず一両と言う僅かな旅費を渡してそれを許した。彼は漂泊の地を良く観察し達意の文章を書き、地理風俗も絵で表現し残した。特に蝦夷地にあって山野や島々を踏査した。自費でである。この地の探査は先人に近藤重蔵、最上徳内、間宮林蔵がいたが彼らは幕費に拠っていた。武四郎は二度ほど幕府の雇いになった事が有ったが間もなく辞している。明治になってから、武四郎の短い政府在任中、太政官は蝦夷地の呼称を変えたいと言うので彼はアイヌ語でアイヌ仲間を「カイノ」と言ったことから、一旦「北加伊道」とし、加伊を海に変え北海道とした。北海道人と言うのは彼の雅号でもあった。

LADY GRACIAから

2007-08-29 10:25:28 | Weblog

「LADY GRACIA」は三浦綾子の小説「細川ガラシャ」が英訳されたものだ。そのなかからの話。ある日、明智光秀は娘の玉(のちの細川ガラシャ)と従者二人を連れ琵琶湖近くの坂本に有るSaikyoujiと言う寺へ行った。光秀がその寺の住職と話している間、1人、寺の庭に出た玉は、そこある池の中の鯉を見ながら「人の命と鯉の命とどちらが大切なのかしら。」と、ふと思った。蟻が自分の足元を走り回っている。知らずに蟻を踏み殺してしまう事もあるが蟻もまた命が有る。そのとき馬の嘶きが聞こえたので玉はそちらに行って見ると一緒に来た従者の一人のHatsunosukeと言う若者が地面に枯れ枝で何か字を書いている。玉は彼に「馬の命と人の命のどちらが大事?」と尋ねて見た。Hatsunosukeは「You should ask a horse.」と答えた。彼は更に「They say horses are expensive. You often hear of children being abandoned,but I've never heard of a horse being abandoned.」と言う。つまり捨て子と言うのは聞いた事があるが棄て馬など聞いた事がないと言うのである。

刺客

2007-08-28 10:46:22 | Weblog

先の衆議院選挙で小泉前首相は郵政民営化法案に反対した自民党の37人の選挙区すべてに対立候補を立てた。いわゆる刺客である。その刺客の語の始まりは「史記」の刺客列伝で五人の刺客が登場する。春秋から戦国末までの時期の人物群である。その刺客たちの殆どが弱小国の家臣で自らの命を棄て強敵に挑む。その目的を達成できたのは二人だけで共に春秋時代の刺客である。他は目的を遂げられず悲惨な最期を迎えた。中でも最も有名な刺客は荊軻と言う人物で戦国の秦の王(のちの始皇帝)を討とうとするが果たさなかった。刺客に発つに先立ち、易水での宴の際の歌が有る。「風蕭々として易水寒く、荘子ひとたび去ってまた還らず」との覚悟の歌である。

海外

2007-08-26 09:50:29 | Weblog

中日新聞のコラム「中日春秋」が海外のインドやパキスタンを訪れている小池百合子防衛相の続投否認の弁を疑っている。その海外と言う語だが、古代中国では大地は大きな正方形で社会はその中心に有ると考えた。その地の外を「四極」と言い、更にその外が「四荒」そしてその外の海が「四海」である。「海」はもと「晦」で「晦(くら)い」空間だった。そこは文明の無い僻遠の地だったのだ。

明鏡止水

2007-08-25 14:40:04 | Weblog

明鏡止水は日本の政治家がよく口にする言葉だ。出典が「荘子」に有る四文字熟語で「人は流水を鑑とすること莫(な)くして、止水を鑑とす。ただ止のみ能く衆(もろ)もろの止を止(とど)むればなり」が原拠だそうだ。もともと個人の心境を言うのではなく行政や裁判で私心なく公正な判断をする事をたとえて言われた。中国の国語辞典ではこの語は掲載されてはおらず、日本ほどこの語は知られていないそうだ。

阿呆について

2007-08-24 09:49:19 | Weblog

アホは関西地方で使われる言葉で、馬鹿と言われるより感触が柔らかい。漢字では江戸期、「阿房」と書かれた。これは秦の始皇帝が建てた膨大な阿房宮に引っ掛けて書かれたものだ。このことは馬と鹿を間違えた息子二世皇帝の話から馬鹿と言う言葉が出来た事と関連していると言われる。漢字では現在、阿呆と書かれるがこれは近代以降のことだそうだ。中国の南方の方言でもこの言葉は同じような意味で使われているそうだ。阿は中国語では親しみを込めた接頭語で、かつての人気ドラマの「おしん」は「阿信」と書かれるらしい。

「有」の文字

2007-08-23 09:32:47 | Weblog

アメリカの大詩人エズラ・パウンドは漢字の造字法に魅せられ漢字を勉強したと言う。アメリカのコロンビア大学のドナルド・キーンは彼の影響を受け東洋学を専攻することになった。キーンの説明では「五、六十年前パウンドが漢字の世界に足を踏み入れ(有)と言う文字は、手に月を取ると言う絵文字であると思い、所有の観念を見事に表していると主張し、その発見が自分に漢字の勉強をさせる事になった。」としている。しかしパウンドは「有」と言う文字の成り立ちに付いては誤解をしていたのだ。その原因となったのは許慎の中国一世紀の辞書「説文解字」にあった。それには「日月之ヲ食ス有リ、月ニ従ヒ又声」とあり、有の文字に月を思わせた許慎の誤解に基づいていた。がこの誤解がパウンドをして感じさせ、漢字の世界に向かわせたのだった。許慎の時代はまだ甲骨文字が発見されていなかった為に許慎の漢字解釈には多くの誤りがあり、限界があった。有のナの部分は手を示しているが月の部分は肉の変化した形で狩猟の結果得た肉を手にしている形が有の文字なのである。

雪辱

2007-08-22 09:51:23 | Weblog

今はもっぱら、スポーツ界で使われるばかりのこの「雪辱」と言う語は「恥を雪(すす)ぐ」事を言い、「雪」は「洗」と同じ意できれいに洗い除くと言う意味。しかし漢和辞典を見ても以上の解説は見られるがその使用例が紹介されていない。「雪恥」に同じとされているに過ぎない。この「雪辱」は和製漢語だそうで近代以降に使われるようになった。「雪恥」が本来の漢語だそうだ。「史記」に「会稽の恥を雪(そそ)ぐ」と言う故事がでている。

禅の呼吸法と咳

2007-08-21 09:15:57 | Weblog

「仏教への旅」中国編、五木寛之著 から
著者の五木寛之はある日、咳の止まらない若い女性に逢った。彼女の話を聞くとその咳は医者に診て貰っても異常は無く、漢方薬も針もお灸などあらゆる民間療法をやったが治らないと言う。著者は話を聞いている間に妙な事に気がついた。彼女の呼吸の仕方が異常なのだ。どこで息をしているのと尋ねて見ると口で呼吸していると言う。著者は言った。「口は物を食べるところで息をするところではないよ」と。そこで彼女の口を手で押さえて貰い鼻から息を吸って貰ったところ、長年続いた咳が止まったと言うのだ。仏教の話が何故、咳の話になったのか。著者の父親は剣道をやっていて禅にも通じており「禅は呼吸だ。」と言われて育ったと言う。京都のある禅寺の高僧も「禅は要するに呼吸ですな。」と言ったという。ここから禅と言う宗教の話から呼吸法へ更に咳へと話が推移したのだった。