読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

寿命

2008-06-28 13:54:02 | 読書

「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」は一休禅師の作と言われるが定かではないらしい。昔の人の寿命は短く、日本で「人間五十年」と言われるが、哺乳類の生き物は、ネズミもゾウも心臓が二十億回を心拍すると寿命を終えるように出来ているそうである。(本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」より)この二十億回の心臓の鼓動を時間になおすと約四十年になる。原始時代の遺跡から出る人骨を調べると四十歳まで生きた者は少ないそうだ。江戸時代の明和八年から明治三年の百年で日本人の平均寿命は男で28.7歳、女で28.6歳と言う若さだった。男女ともの平均寿命だが50歳を超えるのがやっと昭和22年である。徳川十一代将軍家斉は司馬遼太郎が「滑稽なほど子沢山だった」と言ったほどに五十五人もの子供をもうけたが十五歳以上まで生きられたのは僅か二十一人で四十歳以上まで生きたのは七人だったと言う。(立川昭二著「日本人の病歴」から)。

親から貰った身体が宝物ってつまらない?

2008-06-27 10:15:04 | 新聞

ちびまる子の友達が藤木君と言う友達に聞く。「君の宝物は何?」藤木君は「親から貰ったこの体。」と答えた。「つまらないね。」とその友達は言う。このつまらないねと言う返事は作者の考えなのか、子供の宝物にしては夢が無いとでも言うのか、どちらか解らないが私のような年輩者には不適当な答えだと思える。「身体髪膚これを父母より受く。敢えて毀損せざるは孝の始めなり。」と言う故事成語がすぐに心に浮かんだ。硫化水素などで簡単に自分の命を棄てる世に子供でも怪我をしないよう、病気をしないようにと自分を大切にする事は良い事と思うのだが。

言霊

2008-06-26 13:31:56 | 読書

言葉は身振り手振りから発達したがそれだけでは言葉にはなり得なかった。言葉の発達にはその言葉が神性を帯びる必要が有った。つまり言霊となる必要が有った。言葉は単に音声を持った連続のものではなく実体を伴うものである必要が有った。神の名を発すればそこに神が招来され死者の名を呼べばその霊が降りる危険性が有るとされた。言葉は目に見えぬ存在を顕在化させる働きのあるものであった。やがて遠く、この思惟は信仰における密教の言葉、真言宗の真言、或いは称名念仏、お題目の読誦へと繋がるように思える。

一世紀カレンダー

2008-06-25 09:03:56 | Weblog

加藤徹氏が自らの著書「漢文力」中公文庫のなかで作家井上ひさし氏の「私家版日本語文法」に出ている話を紹介している。この本は私も読んだ事が有った。「一世紀カレンダー」の話である。井上氏は昔、銀座の文具店で「一世紀カレンダー」と言う新聞紙の二倍の大きさの紙に百年分の暦を書いたカレンダーを買った事が有ったそうだ。彼はそれを持ち帰り、仕事部屋の壁に張り眺めた。それを眺めながら思った。「自分は、いや今、この地球上に生きている人は全てこのカレンダーにある何れかの日に死ぬのだな。」と思って気が重くなったと言う。数日後、そのカレンダーを友人が持ち去ったので再度、銀座の文具店に行くと女店員が答えた。「あのカレンダーは発売禁止になりました。あのカレンダーを眺めているうちに自殺した人が二人も出たんだそうです。」と。加藤徹氏もこのカレンダーを持っていたそうである。

定家葛、新人物往来社「百枚の定家」梓澤要著から

2008-06-24 14:21:19 | 歴史

京からの旅の僧が夕立に遭った。雨宿りに入った家が歌人の
「藤原定家」の今は朽ち果てた家だった。そこへ何処からか
一人の女人が現れ、その僧を葛がからみ覆われた墓に連れて行った。
その墓は後白河法皇の第三皇女の「式子(しゃくし)内親王」
のものであった。その女人が僧に言った。藤原定家は式子内親王を
強く慕っていたが内親王は49歳で身まかり、定家の内親王を想う
強い心が葛となって親王の墓に絡み付き、それで親王は苦しんでいるようだと。
僧はそれを聞き内親王の為、読経したと言う。
その女人こそ式子内内親王の霊だった。その葛は後、
定家葛と呼ばれるようになった。
この物語は「定家」と言う謡曲となり薪能で演じられるそうである。


寂聴の名

2008-06-22 14:25:05 | Weblog

その昔「俺に投票しない奴は国賊だ。」と言いながら参議院選挙に出馬し、その選挙運動をしていたのは今東光だった。その東光と言う名は法名だとばかり思っていたが、それは戸籍名で天台宗の僧侶としての法名は春聴だった。後に作家、瀬戸内晴美は出家(出離と言うらしい)得度を今東光に願い出たときこの春聴という法名の聴を貰ったと言う事である。「出離者は寂なるか梵音を聴く」と言う言葉が有るそうでそこから寂の字を採ったと言う。得度の後に「これからは一人を慎みなさい」と東光に言われ、寂聴が法師としての東光から教えられたのは唯、この一言だけであったそうだ。この話はテレビの「徹子の部屋」と言う番組でも聴いた事が有った。ついでながら東光が議員になった事はミスだったと東光自らが言っていたそうである。

「今東光一座ドサ廻り」の博識

2008-06-21 11:16:57 | Weblog

文春が主催し、恒例としていた作家達による地方講演会が数多くあった。松本清張、今東光、瀬戸内寂聴のトリオによる地方講演会の旅も幾度か有ったらしく、瀬戸内寂聴は、この三人による地方講演の旅を「今東光一座ドサ廻り」と名付けたそうだ。その講演の旅の列車のなかで清張と東光の会話に寂聴は、二人の知識の深さに驚嘆したと言う。清張は学歴が無く東光も確か中学中退だった筈で、川端康成と知り合って後、東大の授業にも授業料なしで出たそうだ。二人の博学さは文学、歴史、哲学、宗教、化学までに及び一流の知識だった。二人の話をそばで聞いていて「耳学問の寿福」だったと寂聴が書いている。「学歴のむなしさ 独学のおそろしさ」と言う稿での寂聴の話である。そう言えば、詩人のサトウハチローも芸大の偽学生だった事を思い出した。博識と言う点では、ドナルド・キーンも司馬遼太郎と対談したとき司馬の博識さに驚いたと書いていた。

太宰治 生誕九十九年祭

2008-06-20 14:39:05 | Weblog

19日、太宰治の生誕九十九年祭が青森県五所川原市で行われた。そこで思い出した話が有る。瀬戸内寂聴が「奇縁まんだら」のなかで書いていることである。寂聴が三谷晴美と言うペンネーム(戸籍名でもある)で小説を書き、原稿料を貰い始めた頃、京都から上京し三鷹下連雀の荒物屋に下宿した。近くに禅林寺と言う寺があって太宰治と森鷗外の墓が向かい合って有る。彼女はその事を三島由紀夫に報告したそうだ。三島から返事が来て、こう書いて有ったそうだ。「私は鷗外先生を非常に尊敬しています。太宰はきらいです。お詣りする時は、太宰のお墓にお尻を向け、鷗外先生にはお花を奉って下さい。」と。

寂聴の二人の名付け親

2008-06-19 10:56:37 | Weblog

瀬戸内寂聴には二人の名付け親がいる。一人は三島由紀夫で、瀬戸内が少女小説を書こうとし、ペンネームを決めようとしたとき、三島由紀夫に三つほど自分のペンネームの候補を書き送り、どれかを選んで欲しいと依頼したそうだ。三島は三谷晴美と言う寂聴のもともとの戸籍名で有った名を選び「この名が必ず文運金運を招きます。」と言う返事を出した。その後、すぐ「少女世界」と言う雑誌社から彼女の小説を採用する旨の通知が来たそうだ。三島へのこの時のお礼はピース缶のタバコだったそうだ。
もう一人の名付け親は瀬戸内が出家した時の寂聴という名で今東光がその名を与えた。 

「奇縁まんだら」瀬戸内寂聴著から

2008-06-18 10:49:37 | Weblog

岡本かの子が歌人から小説家を目指したとき自分より遥かに年下の川端康成の小説に感動し、康成を小説の師と仰いだそうだ。かの子の夫、一平は、高価な物品を康成に惜しみなく送り、かの子を彼に委ねたと言う。「芸術家は上等の料理を食べ、いい衣装を身に着け、立派な家に住まなければ豊かな作品は作れない。」と一平は言ったそうだ。康成は一平の好意に影響を受け生涯それを忘れず、岡本太郎を良く面倒を見た。芸術家は良いものを食べ、良い服を着、良い家に住まないと駄目なのかと思った。この寂聴の本の中にやはり三島由紀夫が「肉を食わなければ骨太の作品は書けない」と言う事を言っているところがある。樋口一葉は極貧の中で小説を書いていたが一葉の近くに住んでいた漱石もそう言えば裕福だったし、鴎外もそうだった。藤村も裕福な家に生まれている。生活に充分な経済上の余裕が有っての芸術か、と感じたが啄木の場合は自業自得とは言え、やはり貧しかった。