家慶は、『そうせい侯』と言われた。
徳川家の絶頂期に君臨した十一代将軍・家斉は、天保12年(1841年)
1月7日、68歳で死去し。
後継者の家慶は、その4年前の天保8年(1837年)、父・家斉から将
軍職を譲られた。
十二代将軍・家慶は、その時46歳だったが、家斉は大御所として影響力
を保持していたため、家慶は名目上の将軍だった。
父・家斉が死去すると、筆頭老中の水野忠邦を重用して、天保の改革を発
動させた。
水野忠邦は幕府財政の再建をめざして諸改革を打ち出し、そのため徹底的
な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用した。
そのため、経済が冷え込み、特に江戸市民の反感をかった。
中でも最も江戸市民に嫌われたのは、隠密を市中に放った奢侈の取り締まり
であった。
その取り締まりに熱心な人物が南町奉行の鳥居甲斐守忠耀(ただあき)
であった。
江戸市民は名前の『耀』と官職の『甲斐』を組み合わせて『耀甲斐』つま
り『妖怪』と揶揄した。
ところが北町奉行は、取り締まりの指示を出来るだけ骨抜きにして、
江戸市民を守った。
その北町奉行が、あの『遠山の金さん』こと遠山影元である。
天保の改革は幕府による最後の改革だったが、江戸市民ばかりでなく、大
名の支持をも失い、天保14年(1843年)、水野忠邦が罷免され、改革
は失敗した。
将軍家慶は、水野忠邦らの老中に政治をまかせるだけだったのである。
老中が意見を具申しても「そうせい」というのみで、『そうせい
侯』呼ばれ、暗愚な将軍と見られていた。
徳川家の絶頂期に君臨した十一代将軍・家斉は、天保12年(1841年)
1月7日、68歳で死去し。
後継者の家慶は、その4年前の天保8年(1837年)、父・家斉から将
軍職を譲られた。
十二代将軍・家慶は、その時46歳だったが、家斉は大御所として影響力
を保持していたため、家慶は名目上の将軍だった。
父・家斉が死去すると、筆頭老中の水野忠邦を重用して、天保の改革を発
動させた。
水野忠邦は幕府財政の再建をめざして諸改革を打ち出し、そのため徹底的
な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用した。
そのため、経済が冷え込み、特に江戸市民の反感をかった。
中でも最も江戸市民に嫌われたのは、隠密を市中に放った奢侈の取り締まり
であった。
その取り締まりに熱心な人物が南町奉行の鳥居甲斐守忠耀(ただあき)
であった。
江戸市民は名前の『耀』と官職の『甲斐』を組み合わせて『耀甲斐』つま
り『妖怪』と揶揄した。
ところが北町奉行は、取り締まりの指示を出来るだけ骨抜きにして、
江戸市民を守った。
その北町奉行が、あの『遠山の金さん』こと遠山影元である。
天保の改革は幕府による最後の改革だったが、江戸市民ばかりでなく、大
名の支持をも失い、天保14年(1843年)、水野忠邦が罷免され、改革
は失敗した。
将軍家慶は、水野忠邦らの老中に政治をまかせるだけだったのである。
老中が意見を具申しても「そうせい」というのみで、『そうせい
侯』呼ばれ、暗愚な将軍と見られていた。