読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

徳川家慶のこと

2010-11-28 10:21:28 | 歴史
家慶は、『そうせい侯』と言われた。
徳川家の絶頂期に君臨した十一代将軍・家斉は、天保12年(1841年)
1月7日、68歳で死去し。
後継者の家慶は、その4年前の天保8年(1837年)、父・家斉から将
軍職を譲られた。
十二代将軍・家慶は、その時46歳だったが、家斉は大御所として影響力
を保持していたため、家慶は名目上の将軍だった。
父・家斉が死去すると、筆頭老中の水野忠邦を重用して、天保の改革を発
動させた。
水野忠邦は幕府財政の再建をめざして諸改革を打ち出し、そのため徹底的
な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用した。
そのため、経済が冷え込み、特に江戸市民の反感をかった。
中でも最も江戸市民に嫌われたのは、隠密を市中に放った奢侈の取り締まり
であった。
その取り締まりに熱心な人物が南町奉行の鳥居甲斐守忠耀(ただあき)
であった。
江戸市民は名前の『耀』と官職の『甲斐』を組み合わせて『耀甲斐』つま
り『妖怪』と揶揄した。
ところが北町奉行は、取り締まりの指示を出来るだけ骨抜きにして、
江戸市民を守った。
その北町奉行が、あの『遠山の金さん』こと遠山影元である。
天保の改革は幕府による最後の改革だったが、江戸市民ばかりでなく、大
名の支持をも失い、天保14年(1843年)、水野忠邦が罷免され、改革
は失敗した。
将軍家慶は、水野忠邦らの老中に政治をまかせるだけだったのである。
老中が意見を具申しても「そうせい」というのみで、『そうせい
侯』呼ばれ、暗愚な将軍と見られていた。


十三代将軍徳川家定のこと

2010-11-28 10:19:54 | 歴史
十三代将軍・家定は、文政7年(1824年)、十二代将軍・家慶の四男
として生まれた。
家慶の子の多くは早世し、成人に達した男子は家定のみだった。
しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言
われている。
一説には、脳性麻痺であったとも。
幕末の難局の時代だったが、家定は就任直後から後継者問題が浮上するほ
ど体が弱く、将軍として指導権を示すことが出来なかった。
有力後継者として、井伊直弼らが推薦する紀州家の徳川慶福(よしとみ)、
徳川斉昭(なりあき)、島津斉彬(なりあきら)が推す一橋慶喜(よしのぶ)
の二人がいた。
徳川斉昭は、御三家のひとつ水戸徳川家の当主。
それぞれのグループは『南紀派』『一橋派』とよばれ、十四代将軍の座を
めぐって争った。
『安政の大獄』の原因のひとつに、この後継者争いがあった。





新型うつ

2010-11-26 10:39:22 | Weblog
「新型うつ」とは従来のうつ病と、何が違うのか。

従来、うつになる人は責任感の強く、真面目な人が多かったもので、
年齢は40代から50代。一日中気が晴れない、物事への興味が失わ
れてしまうなどの症状が見られた。不眠、体重の減少もある。

この新型うつは、20代から30代の人に多く見られる症状だそうだ。
真面目な人というよりも、自分はなんでもできるといった、漠然
とした万能感を持つ人がなる例が報告されている。

納期にストレスを感じる、協調性に欠ける、仕事熱心ではない、
人から認められたいという強い願望がある人も、この新型うつに
なりやすいそうだ。

この新型うつ、従来型とどう違うのか。

まず、従来型のうつの人は、自分がうつであることを自覚しない
場合が多かった。だが新型うつの人は自らうつであると公言し、
進んで医療機関に相談に行く。

また、元気に過ごせる時間があるのも特徴だ。従来型うつの人が
沈みっぱなしであるのに対し、新型の人は休日になると生き生き
する例が見られる。趣味に打ち込むなど、元気を取り戻す時間が
ある。

他責の症状が見られるのも新型うつの特徴。

従来型うつの人は「仕事がうまくいかないのは自己管理が悪いせ
い」と考える。自分を責める。だが新型うつの人は「過剰なノル
マ、上司のパワハラのせい」と、他者を責める思考に陥りがち。

新型うつは、従来の治療があまり効かない。投薬も効果
がなく、長期の療養はかえって病状を長引かせる恐れがある。
すぐに再発する可能性が高い。

新型うつの人に対して、周囲の人が戸惑う例も多く報告されている。

うつ病であると診断はされているが、好きなことには元気に取り
組んでいるのである。がんばれと励ますと逆ギレされることもあ
り、どのように手を差し伸べるべきか、周囲の人は戸惑う。

よい対応は、淡々と事実を伝えること。感情的にならず、冷静に、
患者に対して「できること」を伝える。彼らが何でつまづいてい
るか、一緒に探してあげる気持ちで話しかける事が良いそうだ。

坂本龍馬に学ぶ33の仕事術 日本を洗濯致したく候 中島 孝志

2010-11-25 10:05:05 | 歴史
坂本龍馬に関するエピソードがいくつか集められ、それに著者の注釈解説
されている。
基本的にはビジネス書、自己啓発書。仕事に生かせるアドバイスも豊富。
「彼はもともとおれを斬りに来た奴だが、なかなかの人物さ。
そのときおれは笑って受けたが、おちついていてなんとなく冒し
がたい威厳があって、よい男だったよ」
勝海舟の談話集「氷川清話」にある話である。龍馬は勝を暗殺に来て、
その人柄に触れて以後師事するようになったと言われている。
だが実際は、勝邸に龍馬と同行したのは剣術道場の人間だった。
刺客だとか攘夷派などではなかったのだ。

龍馬が彼を訪ねた目的は、海外のことを知る勝海舟に海運につい
て教えを請うためだった。紹介状を携えて乗り込んだのだ。

そこで大切なのは、二度会って、親しくてもらえるだけの度量を、
自分が持つことである。龍馬にはそれがあった。勝の言葉はその
ことを物語っている。

・「天下の大事をなすものは、機が熟しているかどうかを見極め
ないといけない。ねぶと(おでき)の膿み具合もよくよく見て、
針で刺せば膿みを出せるかどうかを判断しなければいけないのじゃ」
これは、姉、乙女にあてた手紙のフレーズだ。

外国勢力が虎視眈々として日本を眺めている時代。大きな力を持つ
薩摩、長州が手を結ばなければ勝ち目はないと、皆が頭では理解し
てはいた。
だがそれを実行に移そうとしたのは龍馬だけだった
物事の成就にはタイミングが重要である。だがそれは、待っていて
訪れるものではない。普段より思い定め、準備をして初めて生かせ
るというものである。

・「役人は好かんきに。世界の海援隊でもやろうかな」

西郷隆盛が驚いた。新政府の役職の中に、龍馬の名前がなかったか
らである。直接本人に問うたところ、このような答えが返ってきた
のだとか。

また、龍馬はこんな言葉を残している。火事で焼けた家に、父の形
見の刀を取りに入ろうとした人に。

「刀なんか道具だ。本当の形見はお前自身じゃ。そんなものに誇り
を持つな」

権力を持つことにも関心がなかった。人そのものを見、愛する人
だったようだ。


司馬遼太郎が龍馬のことを小説に書いたのは偶然だったのだそうだ。

龍馬のことを最初に司馬に話したのは、司馬の後輩の人物だった。
彼は高知の出身で、面白い人間がいるから、ぜひ書いてほしいと司
馬に語った。

だが司馬は、その時点ではどうにも乗り気ではなかったと後に書いている。
だが歴史書をあさるうちに、中に散見される龍馬という人に次第に
魅入られていったと言う。

スパイの語源

2010-11-25 09:33:54 | Weblog
スパイとは一般には、他人の『秘密』の情報を手に入れるために知恵を使
う人を言う。
従って、『公開の情報』をさぐる人はスパイとは言わない。公開の情報を「さぐる」
と言う言い方もしない。
このスパイという語は、スペクト(見る)が語源といわれている。
これから派生した言葉として、サスペクト(気がつく)、サスピション(疑惑)がある。
サスペクトは、サス(頭を上げる)とスペクト(見る)が合体して言葉である。
意味としては『頭をあげて、注意して見る』ことが原義。
つまり、『なにかおかしいと思って、注目する』ことを言う。
英語の古語では、エスピー(よく見る)がある。
これらが統合されて、スパイという言葉ができたのかも。
本来のスパイは、『よく見る』『くわしく見る』『注意して見る』の意味
だった。
現在のように『秘密の情報を人知れずにこっそりとのぞく』『非合法手段
を使った盗む』事を意味するものではなかった。

外交とスパイ
いつごろから、現在のような意味になったのか。
ヨーロッパで現在のような『外交』が始まるのは16、17世紀で
あるといわれている。
当然ながら、国と国との交渉は紀元前のはるか以前から存在していが、現在の『外交』に近いものは、北イタリアのヴェネチア等の都市国家の間で始まったようだ。
軍事とスパイは切り離せない密接な関係があるが、それは外交についても同様だ。
つまり、スパイも紀元前の昔からあった訳で、『近代的なスパイ』も、外交とともに始まったと言える。

ついでながら外交は英語ではディプロマシーと言う。
ディは数字の『二』、プロは『プリ』で『折ること』を意味している。
つまり、ディプロマシーは『二つ折りにしたもの』、具体的には外交文書
などの機密文書である。
その『二つ折りにした文書』が外交の基本であり、それが『外交』になっ
た。
一枚の紙に文章を書き、二つ折りにして封印すれば、誰にも読めなくしていた。
自国の君主、外交官が外国の君主に送る文書は、通常は機密扱いになっていた。
自国の利益のためには、外交では隠さなければならないことがたくさん有った。
それを知る必要が有る人たちが居た。それが『スパイ』である。

片はずしと言う御殿女中の髪型と

2010-11-24 10:55:58 | 歴史
徳川十一代将軍家斉の多くの娘達を縁付かせた相手の大名達は、その嫁いできた
将軍の娘達のために御守殿なる御殿を建てなければならなかった。
その『御守殿』が建ったために、とばっちりを受けた江戸市民がいた。
当時の川柳を紹介します。

御守殿が出来て町屋も片はずし

御守殿の前面に当る江戸本郷五丁目の半分と六丁目全部にわたって、片側の民
家をことごとく立ち退かせてしまったのである。

『目障りだから』という理由である。

当時の御殿女中の髪型は、俗に『椎茸髱(しいたけたぼ)』という『片は
ずし』でした。

その『片はずし』と道路沿いの町屋の『片側』の民家を立ち退かせた事を
引っ掛けた『落首』である。

立ち退かせたのは、前田家の重臣ですが、江戸市民は「溶姫が立ち退かせ
た」「いや、立ち退かせたのは溶姫の母のお美代の方だ」と噂していた。
このお美代の方が、家斉の後半生の政治に大きな影響を与えるのである。

チワワが警察犬に

2010-11-23 09:57:35 | 新聞
奈良県警の嘱託警察犬の審査に合格したチワワのモモ(7歳、メス)が、警察の捜査
に加わり、来年1月から被災地での捜索救助活動に従事することになった。モモは大
型犬では浸入出来ない現場に入れるためその成果が期待されていると言う。

●更に十一代将軍家斉のこと

2010-11-19 09:46:09 | 歴史
溶姫は十一代将軍・家斉を父に、父の側室・お美代の方を母に、文化10
年(1813年)に生まれた。
父の家斉は、14歳で将軍となり、50年間もその職にあった。
15人の徳川将軍では、将軍在職年数が最長記録だ。
将軍在職年数だけでなく、生まれた子どもの数でも最多だ。
正式な記録によれば、男26人、女27人の計53人である。
『オットセイ将軍』と言うあだ名が有るそうだ。
ただし、当時の医療、衛生水準の低さは将軍家も同様で、半数近くの子は
幼いうちに死去していると言う事がある。

将軍の息子、娘の片付け方は当時の幕府の閣僚の重要な職務で、
将軍・家斉の息子の養子先、娘の嫁ぎ先を決めることに腐心した。
後継者の家慶以外の息子は、大名の養子にしなければならなかった。

将軍の息子を養子に迎えることは、名誉なことでは有ったが、養
子には将軍直属の家臣がついて来る為、下手をすると、お家を乗っ取ら
れる恐れもあったのである。それは、娘を押し付けられる場合も同様だった。
加賀前田家のように将軍家の姫にふさわしい御殿を作らなければならなかった。
もとより、財政難に苦しむ大名には、できれば避けて通りたかった。
前田家が『御守殿』を建てるために、どれだけの費用が必要であったかは
判らないが、結局は領国の農民の肩に負わされる事になるのである。



妊娠中のたばこの吸い過ぎ、子どもが犯罪者になる確率高まる

2010-11-18 10:32:51 | 暮らしの中で
【11月16日 AFP】妊娠中の母親がたばこを毎日1箱以上吸うと、生まれた子どもが犯罪者になるリスクが30%高まるとする研究結果が、16日の英医学専門誌「Journal of Epidemiology and Community Health」に発表された。

 米ハーバード大学公衆衛生大学院(Harvard School of Public Health)の研究チームは、1959~66年に行われた喫煙習慣に関する調査に参加した女性たちの子どもである33~40歳の米国人4000人の健康データと犯罪歴を調べた。
 
 その結果、妊娠中に1日最低20本を吸っていた母親の子どもでは、それ以外の子どもに比べて、犯罪者になる確率が30%高かった。犯罪常習者になる確率も相対的に高かった。

 精神疾患、家庭環境、貧困など犯罪行動に関連する諸要素を除外しても、母親の喫煙と子どもの相関性が認められ、犯罪者になる子どもの男女差もなかった。論文は「妊娠中の母親の喫煙と成人の犯罪に強い因果関係があるとは断定できないが、今回の研究である程度の因果関係は認められた」としている。

 これまでの研究では、妊娠中の母親の喫煙と、子どもの多動性障害や攻撃性、青年期の非行の間に強い相関性があることが示されている。

 動物を使った実験で、こうした問題が、発達期の脳、特に神経伝達物質受容体にニコチンが及ぼす生物学的効果によって起きる可能性が指摘されている。犯罪常習者はそうでない人よりも、神経心理学的異常を抱えている場合が多いと言う事である。

続、徳川家斉の事

2010-11-16 10:51:47 | 歴史
贅沢に明け暮れたといわれる家斉だが、治世の前半は、将軍と雖も
贅沢は許されなかった時代だった。

父の一橋治済(はるずみ)が奥州白河(現在の福島県白河市)の松平家へ
養子に追いやった松平定信が筆頭老中として、寛政の改革を主導したからで
ある。
定信は八代将軍・吉宗の次男・田安宗武(むねたけ)の七男である。
そして家斉は吉宗の三男・一橋宗尹(むねただ)の孫だ。
定信としては、世が世であれば自分が将軍になっていたかも知れないとい
う意識が有ったことだろう。
さらに、自分の出身の田安家は一橋家より本家に近いのであり、将軍
の家斉を見下すような意識も有ったかも知れない。
幕府財政の再建を目指す定信は、将軍に対しても徹底した倹約を求めた。

最初は世間に歓迎された定信でしたが、改革が贅沢禁止、倹約励行となる
と世間の支持を失った。
倹約による幕府、大名、そして一般庶民の支出削減で景気が冷え込んだか
らだ。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)というて夜も寝
られず」や「白河の水の清さに魚住まず、もとの濁りの田沼恋しき」
などの狂歌が出た。
そして、定信が失脚する原因のひとつとなった問題が発生した。
『大御所』称号問題が有り、それが定信の命取りとなった。
家斉が父の一橋治済に『大御所』の称号を与えたいと考えたことである。
『大御所』の称号には、条件が幾つか有ったのである。

自分が将軍であったこと。

現将軍の父であること。

直系相続で、前将軍が子に将軍職を譲った場合は、一般に前将軍が『大御
所』と呼ばれる。

『大御所』称号問題は、養子となって将軍職についた場合に発生する可能
性がある。
これまでで、前将軍の養子となった将軍は以下の者だ。

五代 綱吉
六代 家宣
八代 吉宗
十一代 家斉

綱吉の父は三代将軍・家光で有り、この称号問題が発生する事はない。

家宣の父は、家光の次男・綱重(つなしげ)だが、家宣が父に『大御所』
の称号を望んだ記録はない。
吉宗は、紀州家二代藩主であった父・光貞(みつさだ)を『大御所』にし
ようとは考えなかった。
しかし、老中筆頭の松平定信は、断固として大御所の呼称を拒否した。
これにより、定信は家斉の支持を失った。
さらに、一般庶民ばかりでなく、大名、武士の大部分が改革を支持しなく
なったことが大きく影響したであろう。