読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

裁判員通知

2008-11-30 14:07:08 | 新聞

全国約29万5千人に裁判員の通知書が送付され始めた。受け取った人の殆どが逃げ腰のようだ。生活や仕事の時間を裁判員の仕事に取られる事を嫌う人もいるだろうし、今までには無かった責任を背負わなければ成らない事を嫌う人も居るだろうし、又、秘密は厳守されるとは言え、事件に思わぬ形で巻き込まれる可能性も無しとは出来ないだろう。既に通知された裁判員候補の顔写真もネットで流されると言う事態も起きているという。この制度に多くの人が及び腰なのは日本人が安全や平和を自分達の努力で獲得して来なかった歴史上の事実が原因しているのではないかと思う。裁判だけでなく、国政もお上(かみ)が決めるものと言う意識が無意識と言う意識の底に有る。法律は裁判官や検事、弁護士、警察官だけのものでなく我々国民のものだと言う意識が無い。マスメディアもそうした意識の有る世論を形成出来ず、今の所、不安感を煽るのみである。朝日新聞と言う報道だけでなく、
世論を形成し、社会正義を実現すべき立場の機関が法務大臣を死神呼ばわりすると言う間違いをしている。人を裁き、止むを得ず人に死を持って望むのは裁判官と言う人ではなく国家であると言う智が欠如しているのである。
市民がこの制度を機に社会に働きかけをし、本当の安全、平和を自分達の手で獲得する努力をしてはどうかと思う。
アメリカと言う国は世界中から来た人達が集まって出来た国である。世界各国から色々な意見の人が集まって出来た国である。アメリカと言う一つの国内で国際化が可能だったし、そこに民主主義は生まれるべくして生まれたのである。それでも独立戦争と言う自らを犠牲にする努力も必要とした国である。皆の国であると言う意識がこうして育った。お上(かみ)が裁判をする、政治をすると言う意識は無く、裁判も陪審員と言う名の「皆」で結論を出したのである。人民の人民による人民の為の裁判なのである。

白川静伝

2008-11-29 10:53:02 | 読書

白川静さんについての本が平凡社から出版されるらしい。楽しみだ。「博覧強記」、「巨知」の人と形容されている人だ。松岡正剛著となっている。松岡さんと言えば、少し前、NHKの総合でも教育放送でもシリーズで一ヶ月ほど白川静さんを紹介した人だと記憶している。白川さんの本は「白川静全集」が十数冊有る筈で私はその内、三、四冊ほどを読んだだけで他には古く、岩波新書の「漢字」、中公文庫の「漢字百話」、「孔子伝」、「初期万葉論」などどれも幾度も読み返さないと理解出来ないが読み甲斐の有る本を読んだ。

良い教師とは

2008-11-28 14:45:28 | Weblog

教育を語るテレビ番組で都知事の石原慎太郎が「どんな教師が良い教師か」と尋ねられて答えた。「感性を育てられる教師」。感性とは何か。辞書を見ないで自分なりの定義をして見た。物事を感じ取り、それを表現、実行する事であると考えた。石原はそう言う教師に唯一人出逢ったと言う。美術の教師で石原が「黒ほど明るい色はない。」と言ったらその教師は石原の言葉を支持してくれたと言う。石原はその言葉によって自分の人生を保証されたと語っている。それ以前は学校に碌な教師は居らず彼は一年、学校を仮病を使って休学し映画や歌舞伎を見て暮らし、親もその事についてとやかくは言わなかったと言う。

「住」と言う漢字は何時から?

2008-11-27 15:50:39 | 漢字

文藝春秋で校正に従事していた加藤康司氏は知人の印刷会社の社長からある日、手紙を貰った。内容は不動産会社の新聞チラシの中に「住」と言う漢字は中国六朝の時代に初めて見えると有るが本当だろうかと言うものだった。衣食住は人に基本的なものであり、中国三千年前に漢字が出来たときから有ったに違いないと加藤氏は思ったそうである。がこの不動産会社も何かを参考にして「住」と言う漢字は六朝に初出したと書いたらしい事が感じ取れたので同氏もその不動産会社のチラシの内容は正しいかも知れないと思い、調べ始めたと言う事だ。多くの漢字の辞典を調べたそうである。すると「大字典」の中にこの字の親字が見つかったという。それには形声で、古くはこの字は無く、人偏に豆と言う字が有ってその字を用いると有り、後に主を音符として住に作り、とどまる意味を示し、更にすまいの意味とすると有った。六朝以前は人偏に豆と言う文字が有り、それで住む意として使われていたが六朝になって豆の部分が主に置き換わったらしいのだ。不動産会社のチラシの記述は正しかったのである。ついでながらこの豆と言う文字はマメではなく高杯(たかつき)と言う食べ物を入れる背の高い容器を示しており、主も火を点す背の高い灯台を示す字であった。それが動かないもの、留まるものと言う意味に使われるようになったと言うことである。確かに住む事は留まる事である。更に、ついでながら、尾崎紅葉の小説「心の闇」の中に「ひき住(と)める」と言う表現があり明治まで「住」と言う字がとめる、とどめるの意で使われていた事も解ったそうである。

方位を示す語の始り

2008-11-26 13:07:13 | 漢字

方角の概念も抽象的である以上象形の文字では表現できない。ただその方角を示す言葉は有る。このような場合、仮借と言う方法でその方角を示す言葉の音と同じ音の文字を使って、方角が表された。その文字の本来の意味とは関係なく使われたのである。東と言う文字はもともと上と下を結んだ袋を形にした文字であったが音が同じであるため東西の東に用いた。後に東の文字の意味は忘れられ、袋を示す語に橐(たく)の文字が作られた。石が音符で、他の部分はやはり上下を結んだ袋の形である。この場合、元の意味がまだ残っている例である。方角を示す字はみなこのような仮借字で、西は籠、南は南人苗族が使った南任と呼ぶ鼓の形、北は背後を示す、人が背中合わせになった形である。

破壊された薩摩の産業革命

2008-11-25 14:11:28 | 歴史

幕末の四賢侯の一人、島津斉彬が死んだのは安政五年(1858)七月で王政復古と言うクーデター計画の準備中であった。次ぎの藩主には弟の久光の長男又次郎忠義をと遺言して逝った。久光はその遺言によって息子を後見する事になっていた。が斉興(なりおき)がまだ生きており、これが後見した。斉興は徹底した保守主義者で、我が子ながら進歩的な斉彬が好きではなかった。彼は斉彬を憎悪さえしていたと言う。海音寺潮五郎は斉彬は斉興に毒殺されたものと推察していると書いている。斉彬は進歩的な考えの持ち主で父斉興の時代の財政赤字を解消したばかりか、鹿児島城下を近代的な工業都市にし産業革命を成し遂げていた。そこに造船所、鉄砲工場、製鉄所、紡績工場、その他色々な工場が有ったのである。しかるに斉興は後見職に就くとこれらの工場施設を全て破壊閉鎖してしまったのである。

新聞書評から

2008-11-23 10:34:36 | 新聞

日曜朝刊の書評に「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」と言うタイトルの本の
紹介が有った。町山智浩著 文藝春秋社
この書評を眼にして思い出した事が有る。
中曽根首相の頃だった。同首相が「アメリカ人の識字率が低い」と発言して物議を醸した事が有る。そんな頃、ニューヨーク州立大学で日本語の講師をしていた日本人の国生と言う名の女性だったと記憶しているが、日本の新聞に記事を書いていた。内容は今、ニューヨークの街を歩いている人の五人に一人が字が読めないと言うものだった。私は仰天した。米誌「タイム」は、この事を取り上げたが、「アメリカは中曽根に反論できるのか」と言う論調の記事も載せていた事も思い出した。その前にアメリカ人にミシシッピー川を地図の上で示せない人も多いと言う記事も読んだ事が有ったが本当の話らしいと解った。日本では江戸期に既に江戸の町の人々の識字率が世界で最も高かったと司馬遼太郎が書いているほどで、人は字が読める事など当たり前と思っていたが世界的に見れば今でも字が読めない人も多くいるのだと考え直した。

音素

2008-11-22 10:57:08 | 漢字
白川静著「漢字百話」中公文庫から
文字構造の上で音を示すと見られる部分を音素と言う。意味を示している部分は形体素と言う。漢字はもともと音を持つ表音文字ではなかった。象形文字は声に出して読みようがないのである。それが漢字と言う整備された文字となって声を出して読まれるようになったのは仮借や形声と言う方法によるようになってからであるが仮借や形音の文字とてもそれ自身は表音はしておらず既成の象形字や会意字の音を借りているだけである。代名詞に使われる我と言う文字はもともと鋸(のこぎり)の象形で「が」と言う音は蛾、峨、俄、娥、硪、鵝などが「が」と読まれる。義も実は我を下部に含み、古くは「が」の声であった事が知られるところである。

同形異字

2008-11-21 10:48:43 | 漢字

文字が象形文字や金文のようなもともとの形のまま使われているときには同形異字と言うことはなかった。微妙な意味の区別もその象形に表せたからである。しかしそれらの文字が整理され、線状化され一定の文字構造法に統一されると意味の別が文字上で判別できなくなる事がある。例えば「口」の形をしたものは三系統が有り、一つはものを食べたり喋ったりする口、のりとを入れる容器を示すサイというもの、それに一定の区域を示す口の三つである。口耳の意味での口は甲骨文字や金文にはその例が無く鳥が鳴くと言う鳴と言う文字でさえそこに含まれる口はサイと言う容器を著し、その容器に祝詞を入れ鳥の鳴き声で占ったのではないかと言う事である。文字が甲骨文字の象形文字として始り、それは人と人のコミニュケーションのためではなく、神の意向を卜うことから始まったものである以上、漢字に含まれる口は祝詞や占いの言葉を入れる容器としての口が多い事は理解出来るところだ。最後の口は区域を示すもので国、國、域、邑と言う文字に見られる口である。

史記

2008-11-20 11:11:19 | 読書

岩波新書 宮崎市定著「史記を読む」から
司馬遷の史記は全百三十巻で本紀十二巻、表十巻、書八巻、世家三十巻、列伝七十巻。
本紀は黄帝から始まる五帝から夏、殷、周の三代に続き、秦を経て漢代までの帝王の記録で王が下した令の言葉、つまり書経の内容が記されている。表は歴史事実を簡略化し一目でわかるようにした司馬遷の独特のもので史記以前には無かった。書は礼書から平準書まで八書があり政治に関し特殊項目ごとに記事を纏めたものである。世家は各地に割拠する封建諸侯の記録で世襲の大名の興亡盛衰を記録したもの。列伝は主に庶民の記録である。