読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

焦眉の急

2008-09-30 10:18:33 | 新聞
麻生新総理の国会での所信表明演説の中に「焦眉の急」と言う諺が出てきた。意味は「眉を焦がすほど火が近づいている意から事態が非常に切迫していること。」と言う。出典は色々と説明されている。
手元にある「故事ことわざ辞典」東京堂出版では「僧問将山仏慧如何是急切一句慧曰、焼眉毛」(五燈会元)が引かれている。

親鸞の事

2008-09-28 10:36:05 | 宗教

親鸞の師、法然の崇拝者には後白河法皇、上西門院、九条兼実、北条政子などセレブが多かったし、弟子も天台のを深く学んだ僧が多かったが親鸞にはそのような貴族の崇拝者はいなかった。また弟子にも唯円を除けば学問のある弟子は無かった。法然は崇拝者も多かったがまた敵も多かった。特に日蓮などは彼を口汚く罵った事はよく知られている。親鸞は従って無名で有った。親鸞は念仏の徒は全て阿弥陀如来の弟子と考えたので弟子も自分の弟子、誰かの弟子とは言えないと言う考えを持っていたし教団を持つ事も考えなかった。尤も法然も浄土宗と言う宗派は作ったが本寺を作りその下に末寺を組織すると言う事は考えなかった。法然も親鸞も念仏の行われるところを「道場」と考えたのである。親鸞の女系の曾孫の覚如が親鸞の大谷の墓地を本願寺とし、それを本寺として教団の基礎を作ったのである。後に覚如の六世の孫の蓮如によって大教団に成長したのである。

流罪事件3

2008-09-26 10:36:28 | 宗教

流罪に処せられた事に対しては師の法然と弟子の親鸞とではその態度が違っていた。法然は高弟、信空から専修念仏を形だけでも停止(ちょうじ)しては?との勧めにも耳を貸さなかったし流罪の地でも専修念仏の教えを布教したいと考えていた。75歳になっていた法然はこの世を極濁悪世と諦め、行くべき浄土に未来を求めた事を流罪の地から弟子に手紙にも書いて送っている。一方親鸞は、この時まだ35歳である。愚禿親鸞と自ら名乗りながらもあの「教行信証」のなかの「化身土」の巻でこの事件についての思いを記して、主上及び臣下が法に背き、義に違い、怒をなし、恨を結すびこの事件を起こしたとして主上と臣下を非難している。主上とは後島羽上皇であり、臣下とはかつての師、慈円であっただろう。慈円は宗教界においてそのような事をなし得る地位にあったからである。

親鸞の流罪事件3

2008-09-25 09:26:28 | 宗教

親鸞の最初の妻は九条兼実の娘であり慈円の姪にあたる。慈円は摂関家藤原忠道の子で、その兼実の弟である。親鸞が慈円の下を去り、法然の門に入ったのは比叡山仏教への強い批判からであったが、親鸞が法然の弟子の中で際立った存在ではなかったにも拘わらず一時は死罪、後に流罪に減刑されたとは言え重罪にされたのは親鸞出家時の戒師慈円を裏切ったばかりか慈円の姪を迷わせ娶った事に慈円の怒りが有ったのかも知れない。しかも原則、僧は妻帯を許されなかった時代で有った中でもある。

親鸞の流罪事件2

2008-09-24 09:59:07 | 宗教

司馬遼太郎が言うように親鸞は「生涯を通じて無名の人であった。」し法然が弟子たちに真言、天台など既成の仏門の悪口を言わない事を約束させた「七箇条起請文」の著名にも親鸞はやっと八十七番目に登場するに過ぎず法然の弟子の中で目立った存在ではなかった。その彼が何故法然の土佐流罪に次いで重い越後流罪になったのか良くは判らないらしい。肉食妻帯を公然とした事が既成仏教から憎まれたのか、親鸞が出家したのは9歳のときでその折りの戒師は後鳥羽上皇の寵を受けた僧、慈円であったが親鸞はその下を離れ、無位無冠の法然の門に入ってしまった事が慈円の不評を買ったのか。やはりこの件には慈円が深く関与していたと言うのは梅原猛氏である。

親鸞の流罪事件

2008-09-23 09:20:01 | 宗教

1207年(承元元年)親鸞が流罪になったのは35歳のときだった。法然の弟子の安楽と住蓮が京都鹿ケ谷で「六時礼讃」と言う仏事を行った。善導の漢詩にメロディーを付け声明するのである。この仏事に後鳥羽上皇の女官が参加し出家してしまった。安楽も住蓮もなかなかのハンサムであったとか。これに上皇が激昂し、安楽、住蓮は死罪、親鸞は越後、法然は土佐へ流罪となった。この事件で死罪になったのが4人、流罪は7人であった。流罪者のなかに証空と幸西がいたが、この二人は藤原一族の慈円の口利きで流罪を免れたと親鸞は書いているそうである。実は親鸞自身も死罪であったが同じく慈円の口利きで罪一等を減ぜられ流罪に止められたと言う事である。

日本語は一語で感嘆文になる?

2008-09-20 13:12:07 | 読書

フランス・ドルヌと言う青山学院大学の教授がいる。彼女の「好きな日本語」は「さすが」と言う一語だそうだ。この語だけで感嘆文になれると言う理由からだそうだ。母国語のフランス語ではたった一語では感嘆文は出来ないと言う。日本の多くのマンガがフランスでも翻訳され出版されているが、そのマンガの中に出て来る一語の台詞が非常に多く、フランス語にそれを翻訳している人は非常な困難を感じているのではないかと彼女は言っている。「さすが」をフランス語にすると「C’est Pas vrai !」(それは本当ではない)と言う単語四個の文になってしまうと言う事だ。このフランス語をどのように発音するのか私には解らないが、そう言えば「うそ」「まじ」「やった!」なども同じように翻訳困難だそうである。

ピーター・フランクルの「日本語は面白い」

2008-09-19 09:24:58 | 読書

数学者で大道芸人を職業とするピーター・フランクル(日本名は冨蘭平太だそうだ)は日本の諺を回転鮨の湯のみで覚えたそうだ。湯呑の表にいろは歌留多の諺が並んでいて、それを店の人から貰い、全部憶えてそれらの諺を使うようにしたそうである。諺の内容に意味の相反するものが有って、それも面白かったと言っている。「旅は道連れ、世は情け」と「人を見たら泥棒と思え」のどちらを取るのかによりその人の人生観が表れるのだと言う解釈をしている。

テロの主張

2008-09-18 09:07:50 | 読書

「テロはその主張を劇的に示す。」とは評論家高坂正尭氏の有名な言葉だそうだ。私は初めて聞いた。東京、秋葉原で通り魔事件が有った。これもテロと言えるが、それは何を主張しょうとしたのか。現在5、300万人の労働者がいて、その三分の一の1,700万人が派遣だそうである。そうした派遣社員やフリーターのユニオンを作って待遇や労働条件の改善を求めて活動が進められているが、そんな最中、この秋葉原の通り魔事件が起こった。犯人は派遣社員だったため、ここで派遣社員の問題が注目される事になり、派遣法の改正に政府や財界が動き出したのである。民間の人たちにより派遣社員の労働条件の改善に向けて営々と努力が積み重ねられて来たが、それより、一人の若者の凶行が事態を急変させた。これがこのテロの主張と言えるか。

小説より奇なり

2008-09-17 08:42:05 | 読書

船山馨の「幕末の女たち」を読んだ。河出文庫で九編の短編が収められている。小説は歴史小説以外は余り読まない。この本の巻末に清原康正と言う人の解説が有る。この人がどう言う人なのか知らない。小説家なのか評論家なのか。この解説の中に驚いた事が記されて有った。著者、船山馨氏は数々の作品を残し吉川栄治文学賞などを受賞し、昭和56年8月5日、午前7時10分、67歳で心不全により永眠した。夫人の春子さんは晩年の夫の看病をしながら「あなたの最期をみとったら、私もすぐにお伴します。」と言うのが口癖だったそうだ。その言葉の通り、夫人は夫が逝った日の15時間後の午後10時30分、通夜の席で同じく心不全で急死したと言う。