読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

似た表現

2009-10-31 13:55:23 | 読書

前に梅原猛著「写楽仮名の悲劇」を読んだ。今回また偶然にも高橋克彦著「写楽殺人事件」に巡り合った。梅原氏は写楽を歌川豊国としているがまだ読みかけのこの高橋氏の方はどうなるのだろう。ところで気になる部分がある。写楽の名はドイツの浮世絵研究家、ユリウス・クルトが「SHARAKU」を書く前までは無名で有った。彼はその著書の中で写楽を世界に冠たる風刺画家として賞賛し、レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家として位置付けた。この評価により写楽の名は一躍有名になったのだが、「レンブラントとベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家として」の部分が両者とも同じなのだ。高橋氏の本の方が梅原氏の本より以前に書かれたものの様だが。

能について雑感

2009-10-30 09:24:28 | 歴史

能は室町時代に禅の思想から生まれたと言う。描く世界はこの世ではなくあの世を中心としている。登場人物は古典に出てくる人物が殆どである。現代において上演される能の30%は世阿弥の作であると言う。能は少しずつ発展していった芸術というより世阿弥によって一挙に完成を見た芸術であると言っていい。彼は古今東西の古典から主題を採った。人の心理の奥底に秘められた怨念を言葉にし、能舞にした。

続・謎の浮世絵師、写楽は

2009-10-29 13:39:08 | 読書

「しゃらく」を逆に読むと「くらやし」となる。「くらやし」と言う浮世絵関係の人物はないが「くらはし」なら有る。浮世絵の時代「くらはし」を名乗る有名人は二人居た。
一人は恋川春町で春町と言うのは源姓で倉橋氏、名は格、俗称を寿平と言い、黄表紙の創始者である。寛政六年には死んでいる。もう一人の倉橋は豊国で一陽斎歌川豊国、本姓は倉橋と言った。
東洲斎写楽の東洲はどうか。洲はくにと読む。力士の出羽乃洲は、でわのくにと読むようにである。こうして「とうしゅう」は「とよくに」をもじったものではないかと梅原猛は考えた。こうして他にも写楽の時代の芝居の座や浮世絵画家のグループの絵の特徴やそれら画家と版元との複雑な関係を考察しながら写楽=歌川豊国説を発表したのである。
「写楽、仮名の悲劇」梅原猛著から

謎の浮世絵師、写楽は

2009-10-28 10:21:11 | 読書

作家、梅原猛は写楽と歌川豊国の絵に強い類似性がある事に気が付いた。写楽は豊国の仮名ではないかと思い始めた頃、写楽は誰かと言う謎のヒントがその写楽という名に秘められているに違いないと考えた。彼は数日間、写楽の絵をボンヤリと見ていたときある考えがひらめいたと言う。写楽の「都座口上図」と言う絵を見ていたときだ。絵の中の人物が紙に書いた口上を読んでいる図である。その紙に書いた口上の文句の文字が反対側から透けて見えるのだ。「口上自是二番目新板似顔奉入御覧候」の文字が左右反対に読め、その意味は要するに写楽の書いた浮世絵をよろしく頼むと書いてあって実は芝居の口上ではないのである。そこで思いついたのが写楽と言う名を反対から読んでみたらどうなるであろうかと言う事であった。

図書の貸し出しカードには何が

2009-10-27 15:12:06 | 読書

図書館の貸し出しカードには何が書かれているのだろうと思ったがバーコードで
登録番号が有るだけだった。このカードの登録番号で図書館のコンピューターシステム
で借りた本と返却期日が記録されることになっているのだろうと思う。
このカードで今までに読んだ本が判ると便利だと思う。しかも自分のパソコンで
もそれが出来たらどんな本を今までに読んだのかが判るし、昔、借りて来た本を
うっかりまた借りて来てしまうなどと言う事もなくなるのではないかと思った。

からたちの花

2009-10-25 10:06:58 | 新聞

たちばなはミカンの事で、中国から来たものはからたちばなと言い、短くした言い方がからたちとなったと言う事だ。実は小さくて食用には適さない。山田耕筰は10歳で親を亡くし夜間学校を併設する印刷工場に働きに出た。工場の寮の食事は粗末で、空腹のときはからたちの実を食べていたそうだ。また先輩工員によく苛められ、寮の生垣になっていたからたちの植え込みにもぐりこんで泣いたことも有るそうだ。その話を北原白秋が直接、耕筰から聞き、自分の子供の頃と重ね合わせて「からたちの花」の詩が出来た。大正13年雑誌「赤い鳥」で発表され、ほどなく耕筰が曲をつけた。童謡だったがこれを当時の世界的なテナー、藤原義江が歌曲として歌い人口に膾炙した。
中日新聞「童謡の風景」から

~させて頂きます

2009-10-24 10:07:04 | 読書

「~させて頂きます。」と言い方は相手に何かを貰ったり利益を受けたりしなかった場合でも使われる語法である。もともと、神仏と自分との関係で出来たことばらしい。
「お陰で元気に暮らさせて頂いております。」と言うのが基本例であると言う。お陰は室町時代に多用された「神仏の加護」と言う意味である。この「おかご」が「おかげ」になまったものかも知れないと司馬遼太郎が書いている。滋賀県近江ではお陰とは阿弥陀如来のことだそうだ。~させて頂きますと言う言い方は浄土真宗が広まると同時に始まったようだ。

マーガレット・バークホワイトの事

2009-10-23 09:55:21 | 読書

マーガレット・バークホワイトの名を知ったのは昔、私が中学生に英語を教えていて、その英語の教科書に彼女の名が出てきたときだった。世界で初の女性フォトジャーナリストで工場などを空撮した事がその英語の教科書で語られていた。「彼女の名は今でも世界の写真家にとって、ギリシャ神話の女神たちよりも神聖な名であるに違いない。」と司馬遼太郎が「風塵抄2」の中で書いている。彼女は無名の機械の発明家の娘だったと言う。父親は娘に工業的光景は何よりも美しいと言う思想を植え付けた。彼女は大学を出てから工場に入り浸りその幾何学的美を写真に撮りつづけた。その時代のアメリカは技術と製造の文明が沸騰していた。彼女はその機械や工場の写真を芸術にまで高めたのである。

日本語には、下品な言葉が少ない?

2009-10-22 10:18:46 | Weblog

「日本語には、下品な言葉が少ないということを聞いたことがあります。何でなんでしょう?」とあるメルマ作家が書いている。「へぇ、そうなのか。」と思ってその理由をj自分なりに考えてみた。日本と言う国は単一民族に近い形で成立してきた。「日本は単一民族の国である。」と言って非難された首相もいたが他国に比べれば単一民族に近い形ではないかと思う。そこでは言語も思考方式も生活も習慣も一様になり密な人間関係にもなり易いのではないかと思われる。儒教文化、仏教、武士道などどんな思想が有っても大きな差は無く、一般の道徳、倫理観は成立し得た。こうした社会では国家対国民の争い、戦国時代の国と国との争いは有ったが、個々人の争いは少なく、皆が同じような事を考え、「下品な言葉」は必要が無く、少なかったのではないかと思う。英語、米語では多くの下品で汚い言葉が有ると言うが、そうするとそれを日本語に訳す場合も種類の少ない下品な日本で訳されるに過ぎないのではないかとも思える。

三波春夫のこと

2009-10-21 09:43:08 | 読書

「お客さまは神様です。」と三波春夫は言った。その「客」と言う漢字は家族の祖先を祭った祖廟に神が降りてくる様子を表した文字である事をブログに書いた事がある。まさにお客様は神様なのである。ところで三波春夫が聖徳太子についての本を書き下ろしたと言う事を瀬戸内寂聴が敬意を持って書いている。彼女は三波の友人である永六輔からその事を聞いたと言う。永の話によれば三波は、大変な読書家で学者以上であり、仏教にも造詣が深いとも言う。寂聴は三波のその本を読んで、知らない事を多く教えられ、その博識に驚いたと書いている。歴史学者と討論も出来るだろうとも。
三波春夫著「聖徳太子憲法は生きている」小学館文庫解説1998年9月刊。
語り口の文章だそうである。
私はまだ読んでないが読んでみたい。