読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

人が並ぶ文字

2008-10-31 14:14:03 | 漢字

漢字百話 白川静 著 中公文庫より 
人が二人並んで立つ字が「竝」、前に向かう様子をあらわした字が「从」(従)、後ろに向かう字が「比」で「ならぶ」と読む。背中を互いに向けて居る二人を表す字が「北」である。三人が邑(むら)の中に集まる事を示す字が「衆」である。人が上下でお互いに争い合う形が「卬」(ごう)、下からは「仰」、上からは「抑」である。後ろから抱いて交わるのが「色」で「詩経」ではそれを「反覆」と言っているそうである。

続鉄砲伝来の事

2008-10-30 09:53:21 | 歴史

嵐で種子島に漂着した中国船には三人のポルトガル人が乗っていたが、この三人が島に上陸して島のあちこちを歩き回り島民の評判になった。中でも三人の持って歩いたある道具が島民を驚かせた。その道具は轟音と共に煙を出し、遠くに居た鳥や動物を倒したのである。三人はアントニオ・ダモト、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペソトと言う名だったが中でもゼイモトの射撃の腕は飛びぬけており、沼にいる水鳥を26羽、瞬時に射止めたと言う。この話は直ぐに島主の種子島時尭に伝わった。彼はこの時、15歳でこの道具を戦に使う武器とは意識せず、単に物珍しさから二千両でこの一挺を買ったであろうと海音寺潮五郎が書いている。そして家臣に火薬の製法も学ばせた。これが鉄砲が日本に伝来した最初である。

鉄砲伝来の事

2008-10-29 14:55:16 | 歴史

鉄砲が日本に伝来したのは天文12年(1543)8月25日の事で種子島へポルトガル人によってであったのは知られている。しかしその時の船がポルトガルの船ではなくポルトガル人が乗っていたのは中国の船でしかも海賊船であった。中国の王五峯と言う日本の五島に住居を持ち日本の倭寇と一緒に中国沿岸を荒らし回っていた人物の船であった。彼の船がマカオに停泊していたとき八人の西洋人が雇ってほしいと言って来たのでる。王五峯はその内の3人を自分の船に雇い、残りの5人を別の船に乗せたのである。この海賊の船がアモイに向かう途中、別の海賊船に襲われた。王五峯の船は何とか逃げ延びたが暴風雨に遭い23日ほど漂流して種子島に着いたのである。

裁判員制度

2008-10-28 14:32:38 | 新聞

2009年5月から裁判員制度が始まる。刑事事件の一部の有罪無罪の判断に一般市民が加わる。地裁で扱われる事件の一部で高裁、最高裁へは今まで通り裁判官、判事が裁判を行う。全国の地裁で扱った事件は平成19年で97,826件だそうで、その内3%の2、643件の判断に裁判員が参加する事になると言う事だ。裁判を法律の専門家のみに任せるのではなく一般市民の目線で判断し、社会通念として常識的な価値判断で裁判が行われる事が裁判員制度の狙いであるとされる。諸外国では既に幾つかの国、例えばアメリカでは陪審員制度などの形で早くから行われている。日本でも一時期、陪審員制度が有った事が有ったがすぐに廃止された。検察審査会と言う制度がその名残りである。この審査会の意見は裁判官に拘束力はない。裁判官制度が導入されるのは良い事であると私は思っている。法は裁判官や検察官、弁護士などに独占されるものではなく国民のものである事が意識され始めるのではないかと言う事と事件評価に一般社会の通常の生活中にある価値基準が判断の基準になれば常識から大きく外れた判決は出ないのではないかと思えるからだ。長い裁判も防げるのではないか、そして防犯意識も高まるのではと思う。

ある新聞の投書から

2008-10-26 10:03:13 | 新聞
あるお母さんが自分の子供の学校の運動会へ行った。昼にお弁当を子供と一緒に食べたその時周囲のお弁当を見て驚いたと言う。冷凍食品のおかずやコンビニ弁当が非常に多かったと言うのである。私も仕事の都合で子供と一緒に運動会の席でお弁当を食べた事は殆ど無いが、この席で子供と一緒にお弁当を食べる事は学校の授業に勝るとも劣らない教育効果が有ると長年思って来た。色々な事情が有る事だろうがこんなときは手作りの弁当は家庭や親の暖かさを子供に感じさせる絶好の機会だと思っている。

学習院の始り

2008-10-25 11:04:26 | 歴史

江戸期、特に幕末、公家は微禄で子弟に学問をさせることも侭ならなかった。皇室御料が僅か三万石で最下位の大名よりも給料が低かった。摂関家で最も高禄であった近衛家でさえ二千八百六十石で下級公家では三十石、四十石と言う者も少なくなかった。無学な公家も多く、追剥を働いた公家もいたし無銭飲食で京都所司代に捕まった者もいたと言う。
このような公家の堕落を嘆いた孝明天皇は公家子弟の学問所を設立した。学習院である。しかしこれが後に学問所の目的から離れ朝廷の国事策定所のような施設となり攘夷思想者が各藩から集まるようになった。中には桂小五郎、宮部鼎蔵、久坂玄随などが居た。

上有政策 下有対策

2008-10-24 11:27:28 | 読書

現代中国語には「上有政策 下有対策」と言う言葉が有るそうだ。上に政策有れば、下に対策有り。つまり、上が新しい法律や政策を施行するたびに下の庶民はすぐにそれに対する抜け道を見つけてしまうと言う意味である。今の中国や日本の食の安全に対する問題はこうして起きているのかと思える。特に社保庁の数字合わせでの抜け道はこの言葉がぴったり当てはまるような気がする。

苛政は虎よりも猛なり

2008-10-23 14:15:41 | 読書

人災はときに天災より恐ろしいことがある。漢文では「苛政は虎よりも猛なり。」と言う。
孔子が弟子たちと共に泰山の近くを通ったとき
墓の前で一人の婦人が泣いていた。孔子が声をかけると婦人は
「むかし、私の義父は虎に殺され、夫も虎に殺されました。
 今また、私の息子までが虎に殺されてしまったのです。」
孔子は尋ねた。
「どうして、この地を離れないのかね。」
婦人は
「ここでは、苛政(苛酷な政治)が行われていないからです。」
孔子は弟子たちに向かって言った。
「弟子たちよ、覚えておきなさい。苛政は人食い虎より獰猛である、と」
苛政は人の災い、虎は天の災いである。

「武」について

2008-10-22 13:57:05 | 漢字

武と言う漢字について「説文解字」は「止戈(しか)を武となす」として武力を抑えるものが武であると解しているが、卜文や金文に見える字形は戈(ほこ)をかかげて進む形に描かれているところから考えるとこの説文の解釈は間違いである事は明らかである。しかし説文のこの考え方に戦争を否定する考えが反映されていると言う。兵法書の「孫子」に「兵は国の大事、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからざるなり。」とある。兵と言う文字は斤(まさかり)を振り上げた形に作られており、戒は戈を両手で差し上げた形の文字である。岩波新書 白川静著「漢字」から

「効」と言う漢字

2008-10-21 10:47:32 | 漢字

「効」と言う漢字の成り立ちについて、ある人が力を交差させて力を発揮し効果を出すから「効」だと言う人がいた。その説明の仕方は親と言う字は立った木に親が登り遠くからでも子供を見守っているから親だという説明の仕方に似ている。
白川静氏の「字通」で「効」を調べて見ると、この字の元の字は矢と支の会意である。
支は象形文字では手に木を持って打つ形であり、効は矢の曲りを打ち、真っ直ぐに正す意を表す字である。「説文解字」に象(像)(つく)るなりとして交(こう)声としているが、白川文字学では交に従う文字ではないとしている。撃って正す事を効と言う。それから法則に従い効(なら)う意となった。