読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

14.日本女子留学事始

2012-05-31 09:14:48 | 歴史
 ある時、捨松は政府高官の夫人たちと病院を参観する機会があった。
病室を訪れると、驚いたことに男性が病人の世話をしている。
院長に「なぜ看護に女性を使わないのですか」と尋ね、米国での見聞から、
女性の方がきめ細かな看護に向いている、と説明した。

 院長の答えは、「ごもっともですが、何分経費が足りず、
看護婦養成所を作りたくともとても手が回りません」ということだった。
そこで捨松は米国での慈善活動の経験を生かして、日本でバザーを開いて
資金集めをしようと思い立った。

 捨松の音頭取りで、明治17(1884)年6月12日から3日間、日本で最初の
バザーが鹿鳴館で開かれた。上流階級の夫人や令嬢たちが店を開いて品物を売る
というので新聞紙上にも評判となり、皇族や政府高官たちも馬車や人力車で
押しかけて大賑わいであった。

 鹿鳴館の二階に作られた売り場では、夫人や令嬢たちの作った人形、ハンカチ、
竹細工、菓子などが並べられ、値段は市価よりも随分高くつけられた。
客が買わずに通り過ぎようものなら、内務卿・山県有朋夫人、参議・西郷従道夫人など
そうそうたる夫人たちに捕まって、何か買わされてしまう。

 結局、3日間で約1万2千人が入場して、収益も目標の1千円をはるかに超える
8千円にのぼり、全額が看護婦養成所設立のために寄付された。

 捨松はその後も、看護婦の育成に深い関心を持ち続け、日本赤十字社に
働きかけて、「篤志看護婦人会」を設立した。

南カリフォルニア沖合に回遊してきたクロマグロが

2012-05-30 09:01:28 | 新聞
wsj日本版から

28日刊行の米国科学アカデミー紀要(PNAS)に発表された研究結果によると、昨年日本海沿岸海域から南カリフォルニア沖合に回遊してきたクロマグロが、福島第1原子力発電所の事故に伴うセシウムに汚染されていることが分かった。



 セシウムの濃度は米国と日本が危険としているレベルの10分の1で、これを食べても健康被害はないとみられる。この調査は、スタンフォード大学の海洋生態学者ダニエル・マディガン氏らのチームが行ったもので、福島原発から遠く隔たったところまで回遊魚が短期間に放射性物質を運んできたことを初めて示した。

 マディガン氏は「マグロは放射性物質に汚染され、これを世界最大の海洋を横断して運んできた」とし、「われわれはこのことに驚いたが、もっと驚いたのは調査対象の全てのマグロから放射性物質が検出されたことだ」とした。

 この調査結果を受けて、ウミガメやサメ、海鳥など、日本の周辺にいるもっと広範囲な海洋生物が低いレベルのセシウムを運んでいる可能性も指摘されている。同チームは今夏、クロマグロの他、ビンナガマグロ、ウミガメ、数種類のサメを調査することにしている。

 日本をはじめ世界中ですしの材料として人気の高い太平洋のクロマグロは、日本海で産卵する。成長すると日本の南海域を回遊し、黒潮に乗って北上して、福島沖を通る。その後、6000カイリ(1万1000キロメートル)以上を泳いで太平洋の東部に至る。最終的にはここから生まれた海域に戻って産卵する。

 マディガン氏らは、趣味の釣り人が原発事故約5カ月後の昨年8月にサンディエゴ沖合で釣った15匹の若いクロマグロを調べた。マグロが太平洋を横断する前に通過する東日本沿岸海域の放射能濃度は事故の数週間後に最大で通常の1万倍に達した。

 調査では、カリフォルニア沿岸海域に到着したマグロのセシウム137とセシウム134の濃度はわずかに高まっていた。これらはいずれも筋肉組織に集まる傾向がある。セシウム137の量は数十年前の核実験の影響で自然界に残っているセシウムのレベルの5倍だった。半減期約2年のセシウム134は原発事故の前は海洋生物や海水からは検出されていなかった。

 科学者らは、全般的なレベルはマグロの自然発生的な放射能を3%ほど押し上げるものだったと述べている。調査に参加したストーニーブルック大学(ニューヨーク州立)の海洋生物学者ニコラス・フィッシャー氏は「全てのマグロから同程度のセシウム134とセシウム137が検出された」とし、「これは非常に明瞭なデータだ」と話した。

 同チームは比較のために同時期に捕ったキハダマグロと、08年に捕ったクロマグロの組織も調べた。キハダマグロは通常、一生を通じてカリフォルニア沖合で過ごす。調査の結果、いずれの組織からもセシウム134は検出されず、セシウム137は事故以前のレベルだった。

13日本女子留学事始め

2012-05-29 09:11:22 | 歴史

 鹿鳴館は外国からの賓客を接遇するために明治政府の肝いりで作られた施設であった。
当時の日本は欧米諸国から不平等条約を押しつけられており、外国人犯罪には日本の法律や
裁判が適用できない、輸入品にかける関税も自由に決められない、という状態にあった。

 この不平等条約の改正の一助として、欧米流の社交施設を作り、日本が文明国であることを
印象づけようとしたのである。

 しかし維新までは下級武士などであった政府高官たちやその妻が、急に礼服を着て、
食事をしたり、ダンスをしても、西洋人の目から見れば、様にならない事、甚だしかった。

 当人たちにしても、そんな思いをするより、家で和服でくつろいでいた方がはるかに楽だったろう。
しかし、そんな思いまでしても、なんとしても条約改正を、と願った先人の労苦に我々は思いをいたさなければならない。

 そんな中で、日本人離れしたプロポーションで夜会服を身にまとい、外国人と流暢な会話をしながら、
軽やかなステップでダンスを踊る捨松は、一夜にして「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。

 しかし、その捨松にしても、コルセットで身動きできないほど身体を締め付け、ハイヒールの痛さを笑顔で
隠してワルツを踊るのは、大変だったろう。しかも捨松は、7年余の鹿鳴館時代に、4人の子供を身ごもっている。

 捨松は、自分が鹿鳴館で華麗に踊り、ホステス役を務めることで、日本の文明開化ぶりを示し、
それが少しでも条約改正に役立つならばと、その身の苦労を厭わなかった。


加速するシェールガス革命

2012-05-26 09:38:01 | 科学

REUTERS
シェールガス掘削現場(米ペンシルべニア州)
 地中の岩盤に含まれる天然ガス「シェールガス」の開発が加速している。資源価格の高騰や採掘技術の向上を背景に従来採算が合わないとされてきた資源ににわかに脚光が集まった。開発が先行する米国では消費者向けのガス料金引き下げにも寄与。2010年前後から日系商社も相次ぎ権益を取得している。福島原発事故を受けエネルギー政策の全面的見直しを迫られる日本の“救世主”になるのか。



12.日本女子留学事始め

2012-05-25 09:02:06 | 歴史
 結婚の決心を、捨松は次のようにアリスに書き送っている。
「大山氏はとても素晴らしい方で、私は自分の将来を彼に託すことにしました。」
「私は今、未来に希望が持てるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために
必要とされていると感じられることは、ともすれば憂鬱になる気持ちを癒やして
くれるなによりの薬となりますし、私に勇気を与えてくれます。」

 アメリカから帰国して1年後、明治16(1883)年11月8日、日本式の結婚式が行われ、
その1ヶ月後、新装なった鹿鳴館で、大山巌は結婚披露の晩餐会を開いた。
この日、招待を受けたアメリカ人の雑誌記者ジョン・ドワイトは大山夫人の
デビューぶりを次のように書いている。

 その夜は、約8百人の日本人と2百人程の外国人が招待されていた。
伯爵夫人は、お客が入場する時、さらに退場する時にも一人一人と握手したばかりか、
日本人には、一人につき6回はお辞儀をしたのである。
もし、アメリカの婦人であったら、殺されてしまったかもしれない程の離れ業であった。

「完璧なホステスぶり、今まで東京で開かれた一番素晴らしい夜会」
これが伯爵夫人に送られた賞賛の言葉であった。

Arigato for Nothing, Keynes-san

2012-05-24 20:28:20 | 新聞
wsj日本版から
西側諸国ではエコノミストやコメンテーターがケインズ理論に基づく
景気刺激策をもっと行うべきだと長年にわたって主張してきたが、
ここで再度、この試みが数十年間行われてきた国を検証してみるのも悪くないだろう。

 日本が先週発表した今年1~3月期のGDP(国内総生産)速報値は、
政府による財政支出が寄与し、驚くほど堅調な成長を示した。ところが22日、
格付け大手フィッチ・レーティングスが日本国債を格下げしたことで、
この明るいニュースが曇ってしまった。

 日出ずる国の経済は第1四半期で前期比1%の成長を示した。
年率換算で4.1%だ。この力強い数字は震災後の復興事業に対する財政支出のおかげだ。
またエコカー補助金の復活も個人消費の大きな伸びを支えた。

 ではなぜ誰も喜んでいないのだろうか。
誰もがこの高い成長率が続かないことを知っているからだ。
第1四半期の輸出は他と比べて明るさを見せていたものの、
欧米諸国や中国の需要は不透明だ。消費者信頼感指数が4月に下落したのは、
夏の電力不足と海外市場の低迷に対する懸念が原因であることは明白だ。

 日本では、経済成長が文字通り「財政支出か、もしくは破たんか」の
問題になったようだ。そして政府はこの両方が現実になり得ることに気づき始めている。
政府の資金は結局どこからか調達しなければならないからだ。つまり納税者だ。
政府は何十兆円もの資金をこの20年で公共事業に投じてきた。
このため公的債務はGDP比200%以上に達している。

 かつて世界第2位だった経済大国は、ケインズ理論に基づく公共投資が民間主導型の
成長を実現させる一助になるとの主張への反証の役割を果たしている。
日本は長い間、できたばかりの道路をまたすぐに掘り返すといったことを繰り返してきたが、
第1四半期の数字が示すように、この国はまだ民間部門主導による成長が実現していない。

 公営企業の民営化に再度取り組むとか、野田佳彦首相が打ち出している
自由貿易政策を進めるといった経済の活性化案を欠いた状態では、
それをどう実現させていくのか見極めることは難しい。

 日本の有権者はいずれ、このような偽りの期待を持ち続けることはできないと
決断するだろう。一方、日本以外の専門家や政策決定者らは、効果のなかった
ケインズ理論とともに歩んできた日本について、知的な誠実さをもって
あらためて考えてみる必要がある。


11.日本女子留学事始

2012-05-24 09:26:51 | 歴史
 いかに祖国のために生きていけばよいのか、と思い悩む捨松に結婚話が持ち込まれた。
一度、別の男性から求婚されたときは、「お国のお陰で外国で修業できたのですから、
まずその御恩をかえさねば結婚など出来ません」と断っていた。

 しかし、どうにも就職する道が見つからない状況で、捨松は結婚する事で別の道を
見つけられるのではないか、と考えるようになった。

 結婚を申し込んできたのは、時の陸軍参議大山巌(いわお)42歳であった。
24歳の捨松とは18も年が違い、前年に妻を亡くしたばかりで、7歳を頭に3人の娘がいる。

 大山巌は西郷隆盛の従兄にあたり、若い頃から近代兵器の開発に関心を持っていた。
奇しくも、捨松が明治4(1871)年11月12日に米国に旅発った次の日に、
大山は欧州留学の途についている。

 ヨーロッパで留学生活を送った大山は、自分の娘達にもぜひしっかりした教育を
受けさせたいと願っていた。また時の政府高官として外国人とのつきあいも多く、
社交の場に出しても立派に振る舞える夫人を必要としていた。

 そこに紹介されたのが捨松だった。英語はもちろん、フランス語、ドイツ語にも堪能で、
日本で唯一の大学出の肩書きを持つ女性である。
考えれば考えるほど、捨松は自分の伴侶にふさわしい女性だと思えてきた。

 捨松の方は話が持ち込まれた時、相手の人となりを納得の行くまで知った上で返事をしたいと申し出て
、当時としては珍しくたびたび、今風に言えば大山とデートをした。そして結婚を決心した。


10 日本女子留学事始

2012-05-23 09:11:49 | 歴史

 捨松は、早速、帰朝報告と仕事の相談のために文部省に出向いた。
しかし、男子留学生には大学や官庁の仕事がすぐに与えられていたが、
捨松と梅子の将来については、国は具体的な計画を何一つ持っていなかった。

 文部省の方でも捨松と梅子の処遇には、頭を悩ませていた。
名門ヴァッサーカレッジの学士号を持った捨松は、実力から言えば大学の
教職についてもおかしくなかったが、女性が大学で教えるなどという前例はなかった。

 文部省からは東京女子師範学校で教えるという仕事の申し出があったが、
日本語の読み書きができなかったので、日本語の教科書を使い、
日本語で黒板に書くこともできないので、断念せざるをえなかった。
この頃の苦しい胸の内を、捨松はアメリカのベーコン家で姉妹同様に育った
アリスにこう書き送っている。

「アリス。人はよく祖国のために死ぬことは名誉あることだといいますが、
祖国のために生きることの方がもっと大変なことだと思います。

もし、誰かが死ぬことで、日本のためになるのでしたら、
私は喜んでその一人になるでしょう。
でも、今日本が一番必要としているのは、心からこの国に貢献したいと
願っている人達による息の長い仕事なのです。」

 しかし、捨松には、そのような仕事の機会はなかなか見つからなかった。


9.日本女子留学事始

2012-05-22 08:43:56 | 歴史

 明治15(1882)年11月21日、大山捨松と津田梅子を乗せたアラビック号は、
美しく晴れ渡った横浜港に入港した。二人にとっては丸11年ぶりに見る祖国であった。

 出迎えに来てくれた肉親たちとゆっくり話をする間もなく、二人は
「乳母車を大きくしたような」人力車に押し込まれ、街道の両側に並ぶ小さな家々を見て、
「まるで小人の国に来たガリバーのような」気がした。

 牛込の山川家につくと、母親が次兄・健次郎夫婦などとともに捨松を出迎えた。
お前を「捨」てたつもりで遠いアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて
帰って来る日を心待ちにして「待つ」ているよ、との気持ちを込めて
「捨松」と名付けてくれた母は、どんな思いで美しく成長した娘を出迎えたことだろう。

 正しい日本語ができないので、さぞ恥をかくだろうと心配していたが、
「思いのほか、祖国の土を踏むと私の舌はほぐれ」、アメリカで健次郎から厳しく
日本語の勉強を言いつけられたことを感謝した。
日本の着物にもすぐ慣れて、家の中ではいつも着物で過ごすようになった。



8、日本女子留学事始め

2012-05-19 09:09:13 | 歴史
 1882(明治15)年6月14日、卒業式を迎えた。捨松は最初にアメリカの大学で
学士号を授与された日本人女性、いやアジアの中でも初の女性となった。

 礼拝堂の壇上に並ぶ39名の卒業生の中で、捨松は美しい着物を着て前列に座った。
10人の卒業生代表の一人に選ばれて、演説をするのである。
来賓の中には、わざわざニューヨークから来た高橋総領事の姿も見えた。

 9人目に壇上に立った捨松の着物の見事な刺繍に、礼拝堂を埋め尽くした
観客から思わず溜め息がもれた。しかし捨松の行った演説はさらに素晴らしいもので、
途中しばしば拍手のために中断され、演説が終わった時にはしばらくの間、
拍手が鳴り止まなかった。

 演説は「イギリスの日本に対する外交政策」と題して、イギリスが不平等条約によって

日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のため
に闘うことを決して止めないであろう、という内容だった。

 シカゴ・トリビューン紙は「精力的で明快な調子で、しかも純粋なアングロ・サクソンの英語で
力強く論じており、この日の演説の中で一番熱狂的な喝采を受けた」と報じた。

 ニューヨーク・タイムズ紙も「彼女の論旨は、的確に将来を予見した素晴らしいものである。
完璧なまでにイギリスの保守主義的な政策を理解しており、アメリカの自由と友愛の精神に対して
惜しみない賛辞を送っている」と絶賛した。

 バッカス教授が評した「彼女の中に秘めたる力」が、現れたのだろう。
その力をもって、山川捨松は祖国に戻っていった。