6月23日 11時54分 NHK沖縄放送局 「沖縄戦75年「慰霊の日」追悼式」 より転載させて頂きました。
20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から75年。 合掌
沖縄は23日、「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった糸満市では新型コロナウイルスの影響で規模を大幅に縮小して戦没者追悼式が開かれています。
75年前の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が犠牲になり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。
最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には、朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で花を手向けたり手を合わせたりしています。
父親と姉を亡くした那覇市の81歳の男性は「姉は私の目の前で艦砲射撃の破片で亡くなり、父はどこで亡くなったのかわかっていません。
新型コロナウイルスのことはあるが、年に1回は線香をあげたい気持ちで来ました」と話していました。
平和祈念公園では、正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれています。
ことしは新型コロナウイルスの影響で県外からの来賓や一般の県民の参列は見送られ、これまで5000人規模だった参列者はおよそ200人となっています。
コロナ禍に5000人規模だった参列者はおよそ200人に
「平和の礎」(いしじ)=建設の趣旨
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての
人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。
式 典 斎 場 平和の火
「平和の火」について(HPより転載)
糸満市の平和記念公園内に灯されている「平和の火」は、広島県広島市の「平和の灯(ともしび)」と、長崎県長崎市の「誓いの火」、そして阿嘉島で採火された火の3つを
合わせたもので、恒久平和を願う象徴として大切に灯されています。阿嘉島は第二次大戦末期の沖縄戦で米軍が最初に上陸した島であることから、沖縄戦の象徴として
「平和の火」の採火地になり、その記念として採火記念碑が設置されました。
玉城知事が「平和宣言」を読み上げて恒久平和の実現に向けた決意を述べるとともに「在日アメリカ軍の専用施設のおよそ7割が今も沖縄に集中する過重な基地負担の
現状を強く訴える方針です。」と紹介されました。
「平和の詩」の朗読 追悼詩の題名は「あなたがあの時」でした
首里高校3年 高良朱香音さん 「未来に向けた穏やかな横顔を私は忘れない平和を求める仲間として」と結ばれました
戦禍を生き延びたあなたのおかげで今がある−。高良朱香音さんは、平和の詩「あなたがあの時」に感謝とバトンをつなぐ決意を込め、23日の沖縄全戦没者追悼式で、
会場の一人一人に語り掛けるように、ゆっくりと読み上げた。
平和の詩「あなたがあの時」のご紹介 https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/40384.html
素晴らしい詩の朗読の中の一文に「白い旗を振った少女」 への感謝も詠まれ感銘を覚えました。
ネット上に少女の紹介がありましたのでご紹介させて頂きます。
白い旗を振った幼い少女の気持ちは?と思いますと当時の映像に涙があふれました
命どぅ宝・・・白旗の少女のブログご紹介 https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/418cd021c4cf3bddd4e904565153c3e7
1987年・・・「おまえ自身の沖縄戦を、ありのままに話しなさい。後世に記録として伝えなさい。それは、おまえにしかできないことだからね」・・・ご主人の後押しで
ようやく自分の経験を告白、新聞に紹介されます。コザの書店で自分を見つけたときから10年後、フィルムが公開されてから4年後です。
今から64年前の1945年の4月から6月、太平洋戦争の末期、日本本土で一般住民を交えた唯一の地上戦のあった沖縄で戦火の中を逃げまどった7歳の少女の体験した戦争の
ありのままのお話しです。
父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉、兄と逃避行、9歳の兄は流れ弾に当たり即死、米須海岸の砂に兄を埋め、姉とはぐれ、1人さまよい歩きます。もちろん食べる
ものもありません。
ふと入った珊瑚礁のガマ(自然洞窟)の中で両手両足を失ったおじいさんと盲目のおばあさんに会い数日を過ごします。
6月23日、日本軍牛島総司令官の自決、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のビラ、スピーカーの声。
おじいさんは少女に一人で投降するように語りかけます。
「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・
「富子、これを、もって、お逃げ」・・・
「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・
白い旗はガマの中でいっしょに数日を過ごした両手両足を失ったおじいさん、盲目のおばあさんが褌(ふんどし)で作ってくれたものです。
1945年6月25日、ガマから白旗を掲げて出てきた少女を撮った米軍の従軍カメラマンの写真です。
富子さんはレンズを向いて笑って手を振っています。
カメラのレンズを銃口と思ったからだそうです。
「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・という父の言葉を思い出したのです。
今まで長い間、白い布はどこにあったのかしら?と疑問を持ちながら現在に至り、この度の「平和の詩」の中に白い旗を振った少女も詠まれました事にネットで学ぶことが
できました。
以上のご紹介は、以前TV放映に見ておりましたのでこの度の詩の朗読に少女への感謝を詠まれました素晴らしい詩の朗読に感激いたしました。
沖縄の追悼式も5000人の参列者から200人に限定に驚きました。
今年はコロナ禍でしたが、戦後も遠くなりました。
千葉市遺族会もすべての行事が中止に、8月15日の全国戦没者追悼式も中止に思います。
私は沖縄に戦跡巡拝にまいりますまで大田司令官の事を存じ上げなくとても恥じ入りました。
この度の白い旗を振った少女をTVに見ておりましたので、詩の中に「あなたのおかげで・・・」の一文に感涙しました。
先日、大田司令官の生家の忠魂碑の紹介のブログに住職のお方から御礼のお言葉を頂きました。
その折に今年はコロナ禍のために慰霊式は中止しましたとご報告を頂き、ビックリしております。
沖縄の終戦は8/15ではなくて、6/23であることを
その旅で知りました。