12日間の慰霊の旅の最初は、枕崎沖、大和沈没地点を経由して冷たい雨の降る中行われました。
慰霊祭の進行は故郷から持参したお供物などが供えられた祭壇にむかい、拝礼 「君が代」を 斉唱しました。
日本遺族会代表、関係遺族代表が父への「追悼の辞」 を読み上げ、関係遺族全員が献花を行い、最後は参列者全員で 「海ゆかば」他2曲を捧げました。
慰霊祭終了後は、関係遺族及び参列者全員がデッキに移動して船の汽笛とともに白菊、父達の好物を海へ手向けて戦没者の冥福をお祈り致しました。
3月 6日 (日) 1回目 東シナ海洋上慰霊祭
3月 7日 (月) 後
2回目 沖縄北方洋上慰霊祭 ~ 沖縄 ・ 那覇入港 ~ 上陸後
各県の慰霊碑参拝 (気温 が非常に) ~ 深夜出港
3月 8日 (火) 3回目 沖縄南方洋上慰霊祭
3月 9日 (水) 4回目 バシー海峡洋上慰霊祭
5回目 ルソン沖洋上慰霊祭
3月10日 (木) 6回目 マニラ湾付近洋上慰霊祭~フィリピン ・ マニラ入港~上陸後、マニラ周辺で小学校、病院などを訪問して友好親善を行いました。
マニラ港に入港して
小学校を訪問して文房具 ・ Tシャツ ・ 帽子などを
校長先生(緑の洋服)を囲んで千葉県慰霊団 マニラ港にて乗船を前に
上陸中に訪問できなかった病院関係者他の皆様をお招きして
暮れゆくマニラ港に心を遺して出航 美しいはずのマニラ湾の夕日です
3月11日 (金) 7回目 ルソン島南方 (シブヤン海) 洋上慰霊祭 (午前)
8回目 サマール島北方洋上慰霊祭 (午後)
私は11日 (金) 午後、日本時間2時からは私を含む20名の遺児の慰霊祭を執り行って頂くことになっておりました。
個人情報関係から、参加者名簿には、住所、電話番号、艦名などは記載されず、艦名は慰霊祭当日の朝礼時に公表されました。
父が乗艦しておりました「鳥海」は960名全員が戦死とされておりますので、どなたにお会いできますかと名簿に目を移しますとただお一人長崎県から参加の男性の船名欄に
「鳥海」 と記入されておりました。
すぐにお会いしてみたい と思いながらも班長としての仕事が先行しております所へ笑顔の紳士が訪ねて下さいました。
「私は 「鳥海」 艦長の息子 田中 暁 と申します」と名刺を頂きました。
瞬間、父に出会えたかのように感激、喜び、幸せに 胸がいっぱいでどのようにご挨拶を申し上げましたか記憶にありません程に溢れる涙を止めることができませんでした。
勿論、慰霊祭に同席させて頂き千葉県代表して父への 「追悼のことば」 を奉読させて頂きましたことに、父への最後の大切な供養が出来ました幸せに感謝を申し上げました。
田中艦長様のご子息様と父の好物を斎場に供えて 「追悼のことば」 を奉読中に大地震発生を後に知る
拙い 「追悼のことば」 ですが記録に納めたく存じます。
謹んで追悼のことばを申し上げます。
(前略)
今ここに日本遺族会様を初め、関係各位多くの皆様のご尽力を頂き、長年の念願が叶い「洋上慰霊」に参加をさせて頂きました事に千葉県14名の皆様と共に心から感謝を
申し上げます。
初めに海底に眠る多くのご英霊の皆様に哀悼の誠を捧げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
お父さん私の声が聞こえますか。お側に参りました。
お父さんは 「親孝行をしたい」 と海軍に志願したそうですね。
しかし、戸籍には 「昭和19年10月27日午前10時45分比島方面に於いて戦死」と記されております。
「鳥海」 乗艦960名の皆様と運命を共にされたお父さんはどんなにか無念だった事でしょう。
お父さん今朝、感激の出会いを頂きました。
「鳥海」 田中艦長様のご子息様にお言葉を頂き、今ここに同席させていただいております。
娘が喜んでおりますと艦長様にご挨拶をしてくださいね。
(中略)
お父さんの記憶は全くありませんが、遺された写真、私の名前の文字が遺る沢山の軍事郵便に励まされ、勇気づけられて参りました。
(中略)
過去には何事も無かったかのように沢山の趣味を楽しみ、幸せなおばあちゃんになることが出来ました。
この幸せは、ここ遠く異郷の地に眠りますご英霊の皆様のご加護のおかげと感謝を申し上げ、追悼の歌を捧げたく存じます。
海底に今なほ眠るみ霊らにわが生の限り祈り捧げむ
ただ今は、厳粛なる慰霊祭に参列をさせて頂き、心ゆくまで父を偲ぶことが出来ました。
改めて関係各位の皆様に心から御礼を申し上げまして 「追悼のことば」 と致します。
「鳥海」 田中艦長様をはじめご英霊の皆様、どうぞ安らかにお眠り下さい。 合掌
ご参列を頂きました皆様有難うございました。
最後に何時までも恋しいお父さんさようなら。
2011年3月11日 サマール島北方洋上慰霊祭にて