牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

正々堂々

2017-03-28 04:13:04 | Weblog
やましさは自分を脅かす

心にやましいことがある者は、誰に追われているわけでもなく、追及されているわけでもないのに、何かにつけて逃げ腰で言い訳がましい。
自分の不義が暴かれるのではないかとびくびくしているからだ。
それとは対照的に、良心に責められるところのない潔白なものは、正々堂々としていて揺るがない。

箴言28:1 神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。
28:1-13 悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。
国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。
寄るべのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。
おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。
悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。
貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。
おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。
利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。
耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。
正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。
富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。
正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。
自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。



ハイ喜んで、で気持ちよく

2017-03-27 18:30:05 | Weblog
エレミヤ書38:20 エレミヤは言った。「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです。

JER 38:20 I said, "You will not be handed over to them. I beg you to obey the Lord's message; then all will go well with you, and your life will be spared.

人生には問題が多くあり、自己中心な私たちは、なかなか人の言うことを聞き入れません。家庭の中でも幼い時から、素直にハイと言わずにイヤと言います。日本語で美しいことばは、 心地よい響きを持つ「ハイ」です。ハイハイと返事されると嫌ですね。ハイハイが口ぐせになっていたら、今日でキッパリやめましょう。春の輝きのように、きれいなイにしたい。もっと素晴らしいのは、口に出すか、出さないは別として、ハイ。喜んでの気持ちで返事したいものです。

アーメンは最高のハイです。天地万物の唯一の創造者、全能の愛=その独り子イエス・キリストを十字架に死なせてまで、あなたや私、全人類を愛し、罪とがを赦し、病や呪いを消し。平安と豊かな人生を与え、神の子としてくださり、神と同じいのち=永遠のいのちを与え、地上でも天国のように、地上での生涯が終わると天国へ召してくださいます。


アーメン信じます。とのハイで、平安と幸せになり、いのちは助かり、春の陽射しのように輝く人生です。復活のいのちを喜びます。

ありがとうございます。今日もまた天国の1日でした。感謝します

なぜ争いや戦いが

2017-03-27 06:33:13 | Weblog
もともと争う欲求を持っている




どうして人は争うのだろう。

それは、人の中にある争うことへの欲求が原因ではないか。


ヤコブの手紙4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。

4:1-11 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。


あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。



ぶどう酒を飲みません

2017-03-26 18:14:12 | Weblog
エレミヤ書35:2-10,14 「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」そこで私は、ハバツィヌヤの子エレミヤの子であるヤアザヌヤと、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、彼らを主の宮のイグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルムの子マアセヤの部屋の上にあった。私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに「酒を飲みなさい。」と言った。
すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。
家訓や企業理念があり、その教訓を忠実に守り、子々孫々守られている家柄。企業理念をシッカリと実行し、不況を乗り切り繁栄している企業もあります。
今日の箇所は、聖書ではここだけに書かれている箇所です、「ブドウ酒を飲んではならない」との命令=家訓をヨナダブが残し、約200年に渡って守り続けました。
エレミヤは国が滅亡の淵に立っている人々に、先祖の言い伝えを守り、さまざまな誘惑があっても、ブドウ酒を飲まないカレブ家を例にして、語ったのです。
35:14-16レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送って、さあ、おのおの悪の道から立ち返り、行ないを改めよ。ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない。わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住めと言ったのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。レカブの子ヨナダブの子たちは、先祖が命じた命令を守ってきたのに、この民はわたしに聞かなかった。
イエス・キリストをアーメンと信じて神の子とされたクリスチャンは、聖書のことばに100%信頼し、実行したいものですね。テモテへの第二の手紙3:15-17 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。



罪を犯したがる生きもの

2017-03-26 07:45:31 | Weblog
人は罪を犯したがる生きものである。

私は知っている。私の生まれながらの性質の中には、正しいことをしようとする善が宿っていないことを。
それなのに、私は、その願いに反することを行なってしまうのだ。
善を行いたいと、心から願いながらも、それとは逆の悪を行ってしまう現実は、一つのことを告げている。
それは、人には、良心に逆らうことを平気でさせようとする罪の性質があるということだ。
私はそれを「罪の原理」=原罪と呼んでいる。

つまり私のもっとも深いところにいる「内なる自分」は、神がお定めになった正しい行動、善の考え方などの「善のルール」を喜んでいるのに、私の体にはそれとは違うルールがあり、それが、日々私の心に戦いを挑み、結果として私自身を、私の罪の中にある罪のとりこにているということだ。

人はたとえそれを望まなくても、悪を行ってしまう。
これこそが罪の原理=原罪である。
ローマ人への手紙7:18-25わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。



キレイな生駒市

2017-03-25 19:09:43 | Weblog
エレミヤ書33:6-11みよ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。

この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。それは、わたしがこの国の捕われ人を帰らせ、初めのようにするからである。」と主は仰せられる。

奈良県生駒市俵口町951番地が、本籍、現住所です。鹿児島県種子島生まれですが、本籍を移し、長男長女孫たち5人は、奈良県人です。

生駒市の人口は12万人ほど。外国人も800名。4万世帯中、7000軒ほどが単身世帯。大阪への通勤圏で昼間人口は6万人になります。

近鉄奈良線生駒駅。地下鉄線生駒駅=白庭台駅、あすか野駅。王子線生駒駅=菜畑駅=壱分駅=南生駒=萩の台駅、東山駅、ケーブ駅と、市内に駅があります。

生駒聖書学院は生駒山北麓にあり、生駒駅からタクシーで正門前まで950円。阪奈道路生駒インターからすぐです。約5000坪の敷地に、綺麗なバリアフリーの大チャペル。小チャペル。家barasi2LDK家族寮6棟。男女別棟単身寮。図書館。食堂や広い駐車場。

毎週日曜日は、聖書学院教会として午前10時-11時まで礼拝で、ライブでも中継し、熊本県や堺市その他でもライブ礼拝を守っている教会もあります。

生駒市の救いを願い、4万世帯の80%に、教会案内をお届けしています。広い無料駐車場があります。ぜひ日曜日はご家族でお出かけください。現在、東大阪市、枚方市、奈良市、大和郡山市など遠方からの出席もあります。

今日の聖書の箇所の約束通りになるよう祈っています。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。笑顔の朝です。感謝します。







十字架上での七言

2017-03-25 19:02:52 | Weblog
主の十字架を思いつつ、十字架上の七言

ルカ23:34 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
ルカ23:43 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
ヨハネ19:26-27 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
マルコ15:34 イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
ヨハネ19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
ヨハネ19:30 イエスは、「完了した=テテレスタイ」と言われた。
ルカ23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

きょめられて

2017-03-25 18:54:58 | Weblog
マタイの福音書8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

っ今日は受難週の受苦日=イエス・キリストが十字架上に死んだ記念日です。

旧約聖書イザヤ書53章預言の実現し。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

16歳の時、種子島の西之表キリスト教会で、十字架の話を聞き、讃美歌を歌いながらアーメンと信じ、教会前の城の浜海岸で洗礼を受け59年になります。

十字架の血に きよめぬれば、来よと」との御声を われはきけり。 

 主よわれは いまぞゆく、十字架の血にて きよめたまえ。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



なんでも祈れる幸い

2017-03-25 12:15:08 | Weblog
エレミヤ書33:2-3 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

8歳で父の家に行き、物も言わない子ども。アイスキャンデー売りが自転車でチリンチリンと=種子島の山の中、夏休みに1回だけ来るか来ないかの辺ぴな地域、今は種子島空港ができ、島の中心地=父に話すチャンスだと思い、5円くださいと恐る恐る言うと、アイスキャンデーより、家の泉の水が良いとの答え。5年生の時、漢s字を調べる宿題。父にその字を見せると、何も言わず本棚から漢和辞典を引っ張り出して、これで調べよ。幸い、漢字を人に聞くこともなく、どんな字も読めるようになり感謝。父と7年間過ごし、願ったことは記憶にある限り2回だけ。

西之表キリスト教会で神が父だと聞いた時、もう父はいらないと思ったほどです。クリスチャンになり礼拝で祈りを指名され、短く祈ったことがあります。神学生時代、先輩たちの熱心な祈りに圧倒され、何時間祈ったか、断食したのか、徹夜の祈りはと、聞かれるたびに辛かったことを思い出します。

3年生の時、訪問伝道で歩き回り、靴に穴が空き、お金もなく底の穴に紙を敷いていました。雨が降るともうだめ。どうぞお上がりくださいと言われ、綺麗な玄関に上がれる分けがない。そのまま失礼して教会に帰り、祈りました。天のお父様。靴を与えてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。その夜、手紙をもらい開くとお金があり、あなたの必要に使ってくださいとありました。新しい靴で歩き回った町で、現在も牧師として仕えています。生駒市全体に、漫画や案内を配り続け、生駒市12万余の市民の救いを祈る伝道の日々です。

神の約束は真実、アーメンの祈りは聞かれ答えられ、理解を越え、思いや願をはるかに越えた、大いなることが実現します。

物質的な必要も含めて、精神的なこと、聖霊の満たしと導きすべてを、愛と全能の神が、イエス・キリストのお名前によってアーメンと祈るとき、答えてくださいます。幼子のような、素直に単純率直に祈るだけす。

ヨハネの第一の手紙5:14-15何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

ローマ人への手紙8:14-16 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

ありがとうございます。今日もまた天国の祈りが聞かれる笑顔の一日です。感謝します。




さばかないで

2017-03-25 12:11:06 | Weblog
ローマ人への手紙14:1-13 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。