牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

キレイな生駒市

2017-03-25 19:09:43 | Weblog
エレミヤ書33:6-11みよ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。

この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。それは、わたしがこの国の捕われ人を帰らせ、初めのようにするからである。」と主は仰せられる。

奈良県生駒市俵口町951番地が、本籍、現住所です。鹿児島県種子島生まれですが、本籍を移し、長男長女孫たち5人は、奈良県人です。

生駒市の人口は12万人ほど。外国人も800名。4万世帯中、7000軒ほどが単身世帯。大阪への通勤圏で昼間人口は6万人になります。

近鉄奈良線生駒駅。地下鉄線生駒駅=白庭台駅、あすか野駅。王子線生駒駅=菜畑駅=壱分駅=南生駒=萩の台駅、東山駅、ケーブ駅と、市内に駅があります。

生駒聖書学院は生駒山北麓にあり、生駒駅からタクシーで正門前まで950円。阪奈道路生駒インターからすぐです。約5000坪の敷地に、綺麗なバリアフリーの大チャペル。小チャペル。家barasi2LDK家族寮6棟。男女別棟単身寮。図書館。食堂や広い駐車場。

毎週日曜日は、聖書学院教会として午前10時-11時まで礼拝で、ライブでも中継し、熊本県や堺市その他でもライブ礼拝を守っている教会もあります。

生駒市の救いを願い、4万世帯の80%に、教会案内をお届けしています。広い無料駐車場があります。ぜひ日曜日はご家族でお出かけください。現在、東大阪市、枚方市、奈良市、大和郡山市など遠方からの出席もあります。

今日の聖書の箇所の約束通りになるよう祈っています。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。笑顔の朝です。感謝します。







十字架上での七言

2017-03-25 19:02:52 | Weblog
主の十字架を思いつつ、十字架上の七言

ルカ23:34 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
ルカ23:43 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
ヨハネ19:26-27 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
マルコ15:34 イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
ヨハネ19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
ヨハネ19:30 イエスは、「完了した=テテレスタイ」と言われた。
ルカ23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

きょめられて

2017-03-25 18:54:58 | Weblog
マタイの福音書8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

っ今日は受難週の受苦日=イエス・キリストが十字架上に死んだ記念日です。

旧約聖書イザヤ書53章預言の実現し。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

16歳の時、種子島の西之表キリスト教会で、十字架の話を聞き、讃美歌を歌いながらアーメンと信じ、教会前の城の浜海岸で洗礼を受け59年になります。

十字架の血に きよめぬれば、来よと」との御声を われはきけり。 

 主よわれは いまぞゆく、十字架の血にて きよめたまえ。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



なんでも祈れる幸い

2017-03-25 12:15:08 | Weblog
エレミヤ書33:2-3 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

8歳で父の家に行き、物も言わない子ども。アイスキャンデー売りが自転車でチリンチリンと=種子島の山の中、夏休みに1回だけ来るか来ないかの辺ぴな地域、今は種子島空港ができ、島の中心地=父に話すチャンスだと思い、5円くださいと恐る恐る言うと、アイスキャンデーより、家の泉の水が良いとの答え。5年生の時、漢s字を調べる宿題。父にその字を見せると、何も言わず本棚から漢和辞典を引っ張り出して、これで調べよ。幸い、漢字を人に聞くこともなく、どんな字も読めるようになり感謝。父と7年間過ごし、願ったことは記憶にある限り2回だけ。

西之表キリスト教会で神が父だと聞いた時、もう父はいらないと思ったほどです。クリスチャンになり礼拝で祈りを指名され、短く祈ったことがあります。神学生時代、先輩たちの熱心な祈りに圧倒され、何時間祈ったか、断食したのか、徹夜の祈りはと、聞かれるたびに辛かったことを思い出します。

3年生の時、訪問伝道で歩き回り、靴に穴が空き、お金もなく底の穴に紙を敷いていました。雨が降るともうだめ。どうぞお上がりくださいと言われ、綺麗な玄関に上がれる分けがない。そのまま失礼して教会に帰り、祈りました。天のお父様。靴を与えてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。その夜、手紙をもらい開くとお金があり、あなたの必要に使ってくださいとありました。新しい靴で歩き回った町で、現在も牧師として仕えています。生駒市全体に、漫画や案内を配り続け、生駒市12万余の市民の救いを祈る伝道の日々です。

神の約束は真実、アーメンの祈りは聞かれ答えられ、理解を越え、思いや願をはるかに越えた、大いなることが実現します。

物質的な必要も含めて、精神的なこと、聖霊の満たしと導きすべてを、愛と全能の神が、イエス・キリストのお名前によってアーメンと祈るとき、答えてくださいます。幼子のような、素直に単純率直に祈るだけす。

ヨハネの第一の手紙5:14-15何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

ローマ人への手紙8:14-16 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

ありがとうございます。今日もまた天国の祈りが聞かれる笑顔の一日です。感謝します。




さばかないで

2017-03-25 12:11:06 | Weblog
ローマ人への手紙14:1-13 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。