牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

本当のラブレター

2017-03-30 19:25:23 | Weblog
エレミヤ書51:15-18 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。

天地万物の創造者が、唯一の全能で愛の神です。16歳まで無神論でした。学校の近くに月を拝む社があり、そこから眺める月はきれいでも、太陽も月も拝む気持ちにはなれません。星に祈るなどと考えることありません。

高校生の時、キリスト教会へ初めて出席。片言の日本語で、ほんとうの神様は目に見えません。愛の神様ですと聞き、目に見えなかったら存在すると思い、毎週礼拝に出席しました。種子島のキリスト教会へ、7月31日の礼拝説教へ今年も行きます。

その神の愛は、イエス・キリストの十字架に具体手的に表現されました。受難週です。神は、実に、そのひとり子=イエス・キリストをお与えになった=十字架上に「犠牲にするほどに、世=あなたや私を愛された。それは御子=イエス・キリストを信じる者が、ひとりとして滅びる=地獄に行くことなく、永遠のいのち=天国を持つためである。ヨハネ福音書3:16

聖書は旧約39冊、新約27冊、合わせて66冊もあります。それを凝縮すると、このことばになります。さらにそれを短くすると、神は愛です。

聖書は神の愛の手紙=ラブレターです。愛の手紙ですから、嬉しくて何回も繰り返し読んでも飽きることはなく、読めば読むほど慕わしく、もっと知りたいという思いが湧いてきます。

老人ホームを訪ね、受付の女性と握手し幸せを祈るとアーメンと答えてくれました。握手をしたまま、空気はあるけど見えませんね。心もあるけれど見えません。天国も、真の神も、イエス・キリストもおられるけれど、心を開いてアーメン信じますと祈ると、心にお迎えできます。アーメン信じますと、祈ってくれました。

日本は敬虔な心を持つ人々が多く、何でも神として拝んだりします。知性と教養に満ちているから、真の神、特にイエス・キリストの救いをアーメンと信じることができます。

現代、その時は来ています。使徒の働き7:26-31 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



アーメンだけで

2017-03-30 19:17:45 | Weblog
コリンント人への第一の手紙1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
アーメンとは呪文でも題目でもなく、聖書に書いていることはほんとうです。真の神のことばは誠です。そのことばにアーメンと応答しているのです。
イエス。キリストのことば=よくよくあなたがたに言う=まことにまことに汝らに告ぐ=アーメン。アーメン、よく聞きなさい。
高校生の時、種子島の西之表キリスト教会で、イエス・キリストが十字架に死に、3日目の朝復活された福音を聞き、アーメンと信じて今年で59年。平安と幸せになりました。今日は枚方市民病院緩和病棟に見舞いに行き、看護師と握手し祈り、信じますアーメンで良い出会いです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

記事のタイトルを入力してください(必須)

2017-03-30 19:13:29 | Weblog
コリンント人への第一の手紙1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
アーメンとは呪文でも題目でもなく、聖書に書いていることはほんとうです。真の神のことばは誠です。そのことばにアーメンと応答しているのです。
イエス。キリストのことば=よくよくあなたがたに言う=まことにまことに汝らに告ぐ=アーメン。アーメン、よく聞きなさい。
高校生の時、種子島の西之表キリスト教会で、イエス・キリストが十字架に死に、3日目の朝復活された福音を聞き、アーメンと信じて今年で59年。平安と幸せになりました。今日は枚方市民病院緩和病棟に見舞いに行き、看護師と握手し祈り、信じますアーメンで良い出会いです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

聞いても聞かない

2017-03-30 04:35:52 | Weblog
心を閉ざす人は成長しない

心に壁をつくり、自ら他者との間に溝を掘って、自分という小さな世界の中だけで生きている人がいる。
このような人にとっては、自分の感じ方こそがすべててである。
助言を求めて歩き回るが、探しているのは、自分の気分に会うことを言ってくれる人であって、それがどんなに優れた助言であっても、気に入らなければ決して従おうとはしない。
なぜなら、初めから聞きたいことは決まっているからだ。
それどころか、自分が期待していた答えではなかったり、自分が変わるべきことを指摘されたりすると、「あの人はわかってくれない」とか、「傷ついた」などと言って、すぐに助言をしてくれた人を非難する。
同情心を買うために、いかに自分が傷ついているかを話して回るのが得意で、決して成長することはない。
結局のところ、成長することなど願っておらず、自分の意見を曲げようとはしないのだ。

箴言18:1-2 おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。

悪者が来ると、侮りも来る。恥とともに、そしりも来る。人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。
悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。
愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。
愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。
陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。
自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。
主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。
富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。
人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。
悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める。