牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

真実の道を

2017-03-14 18:56:21 | Weblog
エリヤは偶像に膝を屈めず、真の神を礼拝し信じる者は、自分一人だと思っていました。王の側近オバデアは、50名をかくまい保護していました。

しかし、7000人もの偶像を拝まない、真実の神を信ずる人が残されていました。今、日本は平和憲法があるのに、核や原子炉再開、積極的平和主義、経済復興や美しい日本ということばの下で、武器製造や輸出まで考え、報道の世界でさえ、国民に真実を伝えないのではと思えるほどの昨今でっす。

聖書を読むと、歴史はそのように為政者が言い、戦争を肯定するようになると、国威発揚に見えるが、国民を滅びに導くと警告しています。歴史は滅びの墓場です。政治家が国のためと言始めるときは、国民のことを考えなくなる時です。

国はスゴイ、絶体強いと言い始める時、滅びが近づいています。右向け右の号令が響かない、真に平和を愛し、イエス・キリストの十字架の救いがあふれ、全国民の救いを、心から信じ祈り、日本を愛し続けて、アーメンと言えば救われます。愛の十字架と復活の福音を語り、伝え続けます。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します

救われ癒され長生き

2017-03-14 18:49:22 | Weblog
ローマ人への手紙8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

2002年に、102歳の里深清老兄を天に送りました。2002年は、現在の通天閣近くのエリムキリスト教会で40日間、20万枚の集会案内を毎朝早くポスティング。40日間連夜の伝道でした。
8月の終わりに、施設から帰宅したので見舞いました。
しっかりした声で、若い牧師が、神もしわれらの味方ならと信じ告白し、日本と世界に福音を満たすために用いてください。アーメン。
その祈りから数日後、安らかに102才の生涯を終えて、天国へ召されました。40日間伝道もちょうど終えて、前夜式、葬式ともかち合わず、見事な102歳の召天でした。
26歳の時、結核で死を宣告されていました。あなたは死ぬから、これを読んでくださいと、看護師に新約聖書を渡され、イエス・キリストの十字架を信じて救わ、同時に結核も癒され、第二次世界大戦中は、大阪市城東区に住み、4名の娘たちと日曜学校を守り抜きました。広い自宅の庭に、城東メソジスト教会を建設。ギデオン協会の働きや、大阪クリスチャンセンターでも活躍した、熱心なクリスチャンです。
神が来方となってくださる、恐れのない人生を歩める平安で幸いな人生です。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

ローマ8:32-39 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
[あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
xx高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


見習え

2017-03-14 06:13:50 | Weblog
アスリートの精神を見習え




アスリートたちは、力を尽くして走っても、優勝するのはたった一人であることを知っているだろう。

しかも仮に勝利したとしても、その記録はやがては塗り替えられ、忘れられていく。彼らの栄光はほんの一瞬だ。その一瞬のためにさえ、彼らはあらゆることを自制し、訓練を積むのだ。

彼らの生活は目的のために捧げられていると言っていい。

それは彼らがそこに価値を見出しているからに他ならない。

あなたもアスリートたちにように、価値ある目標に向かい、賞を得られるように走れ。

私についていえば、決して色褪せることのない栄冠を、神から受けるために全力を尽くしている。

一瞬の栄光のためにあれほどの努力ができる人々がいるのだとしたら、朽ちていくことのない栄冠をえるために走っていると自覚している私たちは、どれほど真剣になるべきだろうかと思う。

だから私は、ゴールが何処かわからないような走り方はしない。

虚しく空を打ち続けるような戦い方もしない。

私はなすべき正しいことができるように、厳しく自分を戒め、自分の身体を従わせている。

それは、他の人にどう生きるべきかを伝えておきながら、私自身が失格者になることがないためだ。


コリント人への第一の手紙9:24-27 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。