牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

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2017-03-09 18:22:14 | Weblog
エレミヤ書15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

JER15:16 Your words were found, and I ate them, And Your word was to me the joy and rejoicing of my heart; For I am called by Your name, O Lord God of hosts.

毎日、聖書を開き読みます。16歳から読み続け、今日の一言のように、聖書のことばが語り掛けてくれます。

雪よりも白い心を子どもときから願っています。聖書の詩篇で、私を洗ってください。私は雪よりも白くなるでしょうと読み、罪が紅のように赤くても、雪よりも白く洗われる経験を、十字架に流されたキリストの血のきよめを経験しました。

若い人はどのようにして自分の道を清く歩めるのか。みことば=聖書に従ってその道を歩み、主に向かって罪を犯すことの無いように、みことばを蓄えることを知り、聖書を読み≈見つけ出し、それを食べる=覚え心に入れるようにしました。

食べると血となり肉となるように、聖書と思い考え、口にすることや行いができるように祈りつつ、日々生かされています。

何事でも人にして欲しいことは、人にもしなさい。黄金律≈ゴールデンルールに生きる恵みの毎日です。

銀律=シルバールール、己の欲せざると所は人に施すなかれ。論語の教えも必要です。

愛から出る笑顔で挨拶し、どんな小さなことにもありがとうと言う、与えるものは無形のもので良いのです。その人のために祈ることは、素晴らしいことです。やさしいまなざしで接する。やさしいことばをかける。思いやりのこころ、ボランティアのように体を使って奉仕する。

今日九州ラーメン党の濱田龍郎一理事長は、熊本県益城町からラーメンを被災6年目の東日本地震地へ送り、今年は理事長だけで10日に熊本を出発、被災地慰問を続けます。

昨年までは、11日の震災記念日に、炊き出しとんこつラーメン600杯。小冊子とマンガも600冊配布。ラーメンで温かさをボランティアの心で届け、愛・ありがとう、余命一年の幸せや、歌えない、踊れない、無口の牧師物語で、こころの癒しをと毎年活動。5年前の震災から毎年、熊本から被災地に何度も行き、ボランティア活動を継続しています。
濱田龍郎理事長とは、2011年いわき市で出会い、帰路生駒聖書学院で洗礼を受け、2013年9月に益城町=熊本空港の町にエリムキリスト教会を献堂し、ライブ礼拝。今年も9月に記念礼拝。益城エリムキリスト教会です。
昨年4月14日に益城町で地震発生。ラーメン党自宅も益城エリムキリスト教会も被災。4月14日に教会横にラーメンレストランが立ち上がり、謝恩会がホテルで行われ、一泊で熊本行きです。
また、3LDK牧師館は地震で使用禁止です。益城町の費用で取り壊しが決まり、更地になります。牧師館建設はこれからの課題です。
ありがとうございます。きょうもまた天国の一日です。感謝してます。

生きる喜び

2017-03-09 18:14:56 | Weblog
ローマ人への手紙6:1-12 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
聖書の約束とことばは、そのままアーメンと受け止めると、ものすごい力と経験になります。
16歳の時、種子島の海でバプテスマを受けました。
その時、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けました。その死にあずかるバプテスマを受けたので、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、いのちにあって新しい歩みをするためです。
バプテスマの日は、1957年11月24日の日曜日。キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになったので、必ずキリストの復活とも同じようになりました。
古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び、罪の奴隷でなくなりました。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
悪い習慣が止まないと良く聞きます。死んでしまえば、どんなに酒が好きでも、快楽にも縁が無くなるように、アーメンと信じる人生は、すべての重荷や悪習慣から解放されます。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
その事を、素直に信じて、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、認め思うだけで、新しい人生です。
イエス様は、あなたの信仰があなたを救ったのです。あなたの言うとおりになります。その根拠は自己暗示ではなく、永遠に変わらない、十字架と復活が根源です。
今日もこのように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



一点の曇りもなく

2017-03-09 06:10:59 | Weblog
誠実に生きることを誇りとせよ

私はキリストの使徒としての、この世の中での自分の行動について、良心に責められるような不誠実な点は一つもないことを自負している。
自部の立場を誇示して他者を支配しようとしたり、自分の考えを押しつけようとしたことはないし、逆に、長いものに巻かれたり、「一般的な考えだからという理由だけで、自分の信条に反することに対して妥協したこともない。
むしろ、道徳的な清さを保ち、もとも気高い良心に一点の曇りもない誠実な行動をとるように心がけてきた。
そして、何事につけても、自部の実力で勝ち取ってやろうとすることなく、神の恵みによって与えられるものを感謝して受け取るという基本的な姿勢を貫いてきた。
こう言い切れるのは私の誇りである。

コリント人への第二の手紙1:12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。